各地にある真田一族ゆかりの城郭~概要編~

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はじめに

真田一族の主な城郭には、室町時代からの「真田本城」・「松尾古城」(長野県上田市)、武田信玄の幕下となった真田幸隆が1551(天文20)年に攻略し本拠とした「戸石城」(長野県上田市)、1563(永禄6)年に攻略した新たな本拠とした「岩櫃城」(群馬県東吾妻町)がある。
幸隆の跡を継いだ昌幸は1580(天正8)年に「沼田城」(群馬県沼田市)を手に入れ、1583(天正11)年には「上田城」(長野県上田市)を築城し始め、翌年、「岩櫃城」から「上田城」に移り居城とした。
さらに、昌幸の後、真田本家を継いだ信之は、1617(元和3)年、江戸幕府の命により上田から松代への移封を命じられ、以後「松代城」を居城として明治維新まで続く。

真田一族が領国支配の拠点とした城郭は、長野県や群馬県に多くある。この概要については「城郭からみた真田家の歴史〜勢力拡大と城郭〜」(https://sanadada.com/2454/)としてまとめ発信している。
また、「真田本城」・「戸石城」・「岩櫃城」・「沼田城」・「岩櫃城」・「上田城」・「松代城」といった個別の城郭についても、城郭ごとに築城背景や経緯、構造などをまとめ発信している。
以上の城郭の他にも、真田一族が攻めたり、滞在したりした城郭が各地に存在する。ここでは、真田一族と関係深い城郭について人物ごとに概観する。

真田幸綱(幸隆)

真田幸綱は海野氏の出身で、真田郷を本拠とする小規模な国人領主であった。1541(天文10)年5月、武田信虎・諏方(諏訪)頼重・村上義清の連合軍との海野平の戦いで敗北し、上野(こうずけ)の長野業正を頼り、その居城「箕輪城」(群馬県高崎市)で亡命生活をおくった。
1544(天文13)年から1546(天文15)年頃までには、幸綱は武田晴信に従属し、川中島の戦いに伴う防衛体制の強化につとめている。
1556(弘治2)年8月、幸綱は小山田虎満とともに「東条尼飾(ひがしじょうあまかざり)城」(長野県長野市)を攻略し、翌年3月から9月までの第三次川中島の戦いの際に在城していたとされる。

その後、幸綱は1563(永禄6)年10月に「岩櫃城」を調略で攻略し、吾妻郡支配の拠点とすると、武田家の上野進出に寄与し、1566(永禄9)年9月、武田勢の攻撃により落城した「箕輪城」の城代に甘利昌忠・浅利信種ともに任じられた。
さらに、1567(永禄10)年3月に「白井城」(群馬県渋川市)を攻略するが、これも調略であったという。この頃、幸綱は隠居し、嫡男・昌幸が後を継いだ。




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真田昌幸

真田昌幸は幸綱の3男として生まれが、長兄・信綱と次兄・昌輝が1575(天正3)年5月の長篠の戦いで討死したことで、武田親類衆の武藤家を継いでいた昌幸が真田家に戻り、その家督を相続した。
昌幸が当主になると、真田一族の武田家における格は上がり、譜代衆としての扱いを受けるようになった。このことは、「白井城」の城代をつとめて白井領を預かったことからも窺える。
1581(天正9)年1月に、武田家の新たな本拠となる「新府城」(山梨県韮崎市)の築城に際し、昌幸が人夫の動員をおこなったことを示す1月22日付文書が残されている。それによると、着工日を2月15日とし、家の口10間(約18m)ごとに1人の人夫を出し30日間働かせている。

1582(天正10)年10月、武田家が滅亡すると、昌幸は織田信長・徳川家康・上杉景勝に従属した後、豊臣秀吉に臣従し、秀吉の全国平定事業にかかわった。
1590(天正18)年の秀吉による小田原平定においては、同年3月上旬に景勝・前田利家らとともに、北条家重臣の大道寺政繁が守る「松井田城」(群馬県安中市)をはじめ、上野(こうずけ)における北条家の属城を次々と落城させている。
昌幸は北条氏の有力支城である「鉢形城」(埼玉県大里郡寄居町)や、映画「のぼうの城」で知られる「忍城」(埼玉県行田市)攻めに参加している。

1592(文禄元)年の文禄の役(朝鮮出兵)では、 昌幸は信幸・信繁とともに700人の軍勢で「名護屋城」(佐賀県唐津市)に在陣した。
徳川家康ほか関東・奥羽の諸大名とともに16番衆に編成されために、朝鮮に渡海することなく、1593(文禄2)年8月に大坂に戻っている。
1594(文禄3)年3月に、秀吉の新たな政庁である「伏見城」(京都府京都市)の築城が始まると、真田家にも普請役が課せられた。。
その負担は、諸史料によると100石につき2人という普請役に基づき、昌幸父子3人で1,680人の人夫を動員している。また、国元より材木の輸送もおこなっている。




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秀吉没後の権力争いに端を発した1600(慶長5)年の関ケ原の戦いでは、昌幸は長男・信幸と袂を分かち、次男・信繁とともに石田三成方(西軍)に属した。
「上田城」で徳川秀忠の大軍を引き付けて西軍勝利のために尽くすが、関ケ原で西軍が敗北したことで、信繁とともに九度山で配流生活を送ることになった。
そこでは、徳川家と豊臣家との戦いを想定し、戦略・戦術を練ったというが、大坂の陣の前に昌幸は没した。昌幸の戦略・戦術は信繁に引き継がれたと伝えられている。

真田信繁(幸村)

真田信繁は1567(永禄10)年または1570(元亀元)年に真田昌幸の次男として生まれ,若年時には甲斐や信濃を巡る混乱の中で他家の城で人質生活を送った。
まず、武田家滅亡後の1582(天正10)年3月、信繁は「厩橋城」(群馬県前橋市)に入城した織田信長の重臣滝川一益のもとに人質として送られた。
同年6月、信長が本能寺明智光秀に攻められて自害すると、上杉氏・後北条氏・三河国の徳川家康の三者で旧武田家領を巡る争いが生した。
その際、信繁は関東を離れる一益から木曽義昌に引き渡され「木曽福島城」(長野県木曽郡木曽町)で人質生活を送ることになった。
昌幸が上杉景勝に従属すると、信繁は1585(天正13)年、人質として「春日山城」に赴く。景勝からは信濃埴科郡の屋代家旧領から1,000貫文の領地を与えられるなど厚遇されている。




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1587(天正15)年3月、昌幸が豊臣秀吉に臣従してからは、信繁は「大坂城」で秀吉の直属の家臣として仕え、1594(永禄元)年11月には従五位下左衛門佐に叙任されている。
これ以降、豊臣家直臣として昌幸・信幸とともに「名護屋城」に在陣し、「伏見城」築城にも普請役をつとめている。
1600(慶長5)年の関ケ原の戦い以降は、父・昌幸と行動をともにし、昌幸没後も九度山で配流生活をおくった。
1614(慶長19)年10月、信繁は徳川家との戦争準備を進める「大坂城」に入城し、大坂冬の陣がはじまると真田丸の攻防戦で名声を高めた。
翌年の大坂夏の陣では、徳川家康の本陣を三度攻撃し、家康の命を奪うまで肉薄するが、松平忠直の家臣・西尾仁左衛門によって打ち取られ、49歳の生涯を閉じた。




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おわりに

真田一族の主な人物と各地の城郭との関わりについて概観した。ここで取り上げた人物以外にも、例えば、1569(永禄12)年11月、真田昌幸の弟で名門・加津野氏の名跡を継いでいた信尹(昌春)は駿河の「深沢城」(静岡県御殿場市)攻めで活躍している。
今後、ここで取り上げた個々の城郭について、その特色や真田一族との関係などを探究し、その成果を発信していく。

(寄稿)勝武@相模

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