真田信繁(真田幸村)の遺児である阿梅とその弟・真田大八(片倉守信)の墓が宮城県白石市の「功徳山当信寺」にある。
1615(慶長20)年の大坂夏の陣において真田信繁(幸村)が討死した後、阿梅は伊達政宗の重臣である片倉重長の継室となり、真田大八は片倉家の縁から伊達家に仕え、仙台真田家として現在まで続いている。
本稿では、阿梅が片倉重長の継室となった経緯や、真田大八の苦労、そして二人にゆかりの「白石城」の歴史について探究した。
片倉重長と阿梅
「鬼の小十郎」こと片倉重長は、1584(天正12)年に伊達政宗の重臣で白石城主の片倉景綱の子として生まれた。
1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いでは、父・片倉景綱とともに従軍して初陣を飾り、1614・1615(慶長19・20)年の大坂の陣では、病中の父に代わって伊達政宗に従い参陣し、豊臣方の大将の一人、後藤基次を討ち取るなどして大いに名声を上げた。
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片倉重長が大坂夏の陣後に妻としたのが真田信繁(幸村)の三女である阿梅(おうめ)である。
阿梅は真田信繁(真田幸村)と正室・竹林院(大谷吉継の娘)あるいは側室の高梨内記の娘との間に生まれたが、その時期については諸説がある。
1614(慶長19)年、父の真田信繁に従って大坂城に入城し、翌1615(慶長20)年5月の大坂夏の陣で「大坂城」が落城すると、その混乱の中で伊達政宗の重臣・片倉重長の兵に乱取りされ同家の侍女とになった(『片倉代々記』)。なお、真田信繁自らが片倉重長に身柄を預けたという説もある(『老翁聞書』)。
その後、1620(元和6)年に片倉重長の側室、正室の死後に継室に収まり「白石城」で暮らした。
阿梅が片倉重長の継室になる際は、真田信繁の娘であることを隠すために、信繁の妹婿である滝川一積(かずあつ)か、あるいは姉婿である小山田茂誠(しげまさ)の養女とするなどの工作が行われたという。
と片倉重長との間には子が生まれず、前妻の娘の子である景長を養子とし、1681(延宝9)年に没した。
その間、阿梅の弟の大八(片倉守信)、妹の阿菖蒲(片倉定広室)も姉の縁により片倉家に身を寄せている。
また、阿梅は1648(慶安元)年に白石城下に父・真田信繁の菩提を弔うため「月心院」を建立し、功徳山当信寺においても信繁と母・竹林院の供養を行っている。
伊達家と真田大八
真田大八(後の片倉守信)は1612(慶長17)年に、真田信繁の次男として紀伊国九度山で生まれた。母は信繁の正室・竹林院である。
大坂の陣に際して、父や兄・真田大助(幸昌)ら家族とともに大坂城に入城するが、戦いの最中に負傷し落城より前に大坂城を離れた。
戦後、京都の西本願寺にて潜伏・療養していた真田家家臣の三井景国の家来により片倉家の京都屋敷に姉妹とともに送られたという。
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真田大八は1640(寛永17)年、28歳の時に伊達家に召し抱えられ、真田四郎兵衛守信と名乗り、現在の蔵王町矢附(やづき)・曲竹(まがたけ)地区に360石の領地を得た。
その際、江戸幕府が逆賊の子を召し抱えたのではないかと咎めたので、伊達家では、大八は石投げで死んでいるとする記録を持ち出して弁明し、守信は幕臣である真田信尹の次男・政信の子であると説明し事なきを得た。
このこともあり、真田守信は幕府を憚って片倉久米之介守信と改名、伊達家家臣として過ごして1670(寛文10)年10月に59歳で没した。
家督は子の片倉辰信が継ぎ、守信より8代後の幕末期の幸歓(ゆきよし)の代に真田姓に復した。この家系は仙台真田家として現在も続いている。
また、「蔵王町矢附」地区には現在も、真田信繁(幸村)の末裔であることを示す、仙台真田家の墓碑や供養碑が伝えられている。
この真田大八については、伊達家に仕えることなく没したとする記録が残されている。例えば、高野山蓮華定院(れんげじょういん)の記録には、年代は不詳だが「5月5日、京都に於て印地打ち成され、御死去候」とある。
なお、この記録は前述したように真田大八が伊達家に仕えた時の言い訳として利用されている。
また、真田家の正史『真田家御事蹟稿』における真田信繁(真田幸村)の事績を記した『左衛門佐君伝記稿』」では、真田大八は夭折した、と記されている
これらの真偽は今後の研究を待つしかない。
白石城の歴史
江戸時代の白石は南北に奥州街道が縦断し、西は米沢、東は相馬に通じる道があり交通の要衝であった。
白石城は奥羽山脈と阿武隈高地に囲まれた白石盆地の中の独立丘陵地の北端、標高76mの地点に築かれた平山城である。
白石城の築城時期については定かでなく、中世に刈田氏が居城としていたと伝わるが、根拠となる史料は乏しい。
1591(天正19)年、豊臣秀吉による奥州仕置が行われると、白石周辺は会津に封じられた蒲生氏郷の領地となり、氏郷の重臣・蒲生郷成が白井城に入った。
白石城は近世城郭へ改築され、城下町も整備されたと伝わるが、確かな史料は存在しない。
1598(慶長3)年、蒲生氏が宇都宮に移封され、代わって上杉景勝が会津へ入ると、その家臣である甘糟景継が白石城の城主となった。
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1600(慶長5)年の関ヶ原の戦い後、白石地方は徳川家康に与した伊達政宗の領地ととなり、白石城にはまず政宗の叔父の石川昭光が、次いで1602(慶長7)年に政宗の側近である片倉景綱が入った。
白石城は1615(慶長20)年の一国一城令の発令後も存続が認められ、以後明治維新まで260年間余り片倉家の居城であった。
おわりに
真田信繁(真田幸村)の遺児である阿梅や真田大八ゆかりの白石城は、伊達家の重臣である片倉家の居城として明治維新まで続いた。
白石城は現在、平成時代に発掘調査やそれに基づく復元工事がおこなわれ、往時の姿を蘇らせている。
また、城の北側、中級武士の屋敷があった三の丸外堀に当たる沢端川沿いには武家屋敷が残り、そして城下には月心院や功徳山当信寺など阿梅や真田大八ゆかりの史跡もある。
(寄稿)勝武@相模
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