真田一族と豊臣秀吉による小田原攻め~「松井田城」をめぐる攻防戦~

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1589年(天正17年)10月、豊臣秀吉の裁定で真田昌幸の持ち城とした「名胡桃城」(なぐるみ-じょう)を北条氏が策謀によって奪うという事件がおきた。
秀吉はこの事件をきっかけに1590(天正18)年3月から小田原攻めを開始、真田一族も前田利家上杉景勝らとともに、北条氏重臣の大道寺政繁が守る「松井田城」(群馬県安中市松井田町)・「箕輪城」(群馬県高崎市箕郷町)をはじめとする上野(こうずけ)の北条氏の城を次々と攻略した。

「松井田城」の歴史と構造(縄張)

「松井田城」は松井田宿北方の尾根にある戦国時代の山城で、城の北側には碓氷道・東山道、南側には中山道が通る交通の要衝に位置し、碓氷峠に備える役割を担っていたとされる。
築城時期は定かではないが、『上野誌』によると1487(長享元)年、安中忠親が「松井田西城」に住んだとしており、その後、忠親の孫の忠政が「松井田城」を改修して居城としたと考えられている。

以降、小田原攻めで廃城となるまでの歴史を概観すると次のようになる。
・1564(永禄7)年夏、武田信玄が攻撃して開城させ、市川国貞を城代とする。
・1582(天正10)年3月、武田氏の滅亡後、滝川一益織田信長の重臣)が上野に侵攻し、その寵臣の津田勝正が2,000の兵で駐留する。
・1582(天正10)年6月、本能寺の変で信長が没した後、大道寺政繁(北条氏重臣)を中心とする北条勢が占領、翌年、「松井田城」を改修する。

「松井田城」の構造(縄張)は現状をみるかぎり、東側半分を占める「安中郭」と西側半分の「大道寺郭」からなる一城別郭の構造である。
「安中郭」は安中忠政の築城とされ、東御殿郭と東二の丸を中核とし、東御殿郭は安中氏時代の本丸に相当し、その頂上部には「大道寺政繁記念碑」が建つ。
「大道寺郭」は東の本丸、西の二の丸を主体とし、大道寺氏時代の築城と考えられている。
これら東西の郭を中心に、北側へ延びるいくつもの尾根上に城域が広がり、南側も大道寺政繁の居館とされる「補陀寺」へと延びる尾根にも削平地がある。
また52の郭の数は52、堀切数は42に及ぶ難攻不落の山城である。

碓氷峠の戦い

1590(天正18)年3月、豊臣秀吉による小田原攻めが始まると、3月8日に真田昌幸は3,000の軍勢を率いて信濃・上野国境の要害の地・碓氷峠に進出した。
それに対して「松井田城」の城主・大道寺政繁は碓氷峠に与良与左衛門をはじめとする800の兵で待ち構えていた。
真田勢は、まず信幸が碓氷峠と松井田の偵察に出て待ち構えていた与良勢と激しい戦闘になるが、少数の信幸の一軍は奮戦し与良勢を撃退した。

その後、真田勢は大道寺勢と乱戦になるが、その様子は『長国寺殿御事蹟稿』に「松枝ノ城主大道寺駿河守、人数ヲ出シケル。其ノ節、信州侍二与良与左衛門ト云フ者有リ。元来ハ甲州侍ナルガ、北条家ニ仕ヘケリ。此ノ度松枝ヘ小田原ヨリ加勢ノ為ニ来リテ、此ノ城ニ居ケルガ、唯一騎馬上ニテ十文字ノ槍ヲ提ゲテ坂本ノ町ハズレ坂ヘ上ル。右ノ方ニ辻堂ノ有ル所迄来リ。静カニ物見ヲシケル処ニ、信幸ノ家人ニ吉田政助ト云フ者アリ。与良ニ駆ケ合ハセテ暫ク迫メ合ヒケル。然ル処ニ、富沢主水ト云フ者、坂ノ上ヨリ桑ノ木ノ有リシヲ台ニシテ、鉄砲ニテ彼ノ与良ヲ打落シケリ。其ノ後、磐根石ト云フ切所ニテ迫メ合ヒアリ。時ニ源次郎信繁、自身ニ働キ、手ヲ砕キテ高名アリ、敵ヲ追ヒ崩サル。」とある。
最期の方に記されている「源次郎信繁」とは昌幸の子で信幸の弟に当たる真田信繁(幸村)のことで、大道寺の軍勢を追って壊乱させるなど活躍している様子がみられる。

碓氷峠の戦いについては、2017(平成29)年5月13日、群馬県教委文化財保護課は、碓氷峠で戦国時代末期のものとみられる城跡が見つかったことを発表した。城跡は碓氷峠から安中市側に約250mの旧中山道沿いに位置し、東西約200m、南北約100mの小規模なもので、城内には土塁や堀のほか、敵の侵入を防ぐために工夫された出入り口「枡形虎口(ますがたこぐち)」の跡が残っている。
土塁の規模や堀の高さ、整地の状況などから臨時に作った陣城であり、秀吉による小田原攻めの際、前田利家、上杉景勝、真田昌幸らの北国勢が関東に侵攻する際の陣地(陣城)として急造した可能性が高いという。

                            

「松井田城」の攻略

前田利家・上杉景勝・真田昌幸らの北国勢は1590(天正18)年3月20日に「松井田城」に総攻撃を仕掛けるが落城せず、約1ヶ月後の4月22日に城代大道寺政繁が降伏、開城後に廃城となった。
この間の状況を伝える資料として、4月14日付の「真田昌幸・同信之宛豊臣秀吉書状」(真田宝物館蔵)が残されている。
それは昌幸・信之父子が4月7日付けで秀吉に「松井田城」攻略の状況を報告したことに対して、秀吉が返書をしたためたものである。
書状には「上野国中にこれある松井田根小屋悉く焼き払い、すなはち取り巻きこれあるの由、尤に候。(中略)、討ち果すべく候。景勝・利家と相談せしめ、いよいよ油断あるべからず義肝要に候。」とあり、秀吉が「松井田城」の攻略を激励している様子がわかる。

「松井田城」の開城後、昌幸らの北国勢は上野国の要の城である「箕輪城」の攻略を進めた。
城主の垪和(はがし)信濃守は上野国の諸城の落城に動揺し、クーデターにより城から追放され、「箕輪城」をほぼ無血で占領することに成功した。

まとめ

真田昌幸・信幸・信繁(幸村)ら真田一族は、1590(天正18)年の豊臣秀吉による小田原攻めに前田利家・上杉景勝らからなる北国勢の一員として「松井田城」・「箕輪城」を攻略した。
「松井田城」の攻略については、その前哨戦がおこなわれた碓氷峠で近年、「陣城」と考えられる遺跡が発見されており、今後、碓氷峠の戦いの詳細が解明されることが期待される。

また「松井田城」についても築城時期をはじめ、北国勢を相手に約1ヶ月も持ちこたえた強固な構造(縄張)の特徴についても十分解明されておらず、今後の文献調査や発掘調査が期待される。

なお、「箕輪城」については、以下の小論を参照していただきたい。
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