真田氏飛躍のきっかけとなった城郭「戸石城」~複合型城郭としての構造と歴史〜

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2009年8月に公開のアニメ映画「サマーウォーズ」の舞台となった「戸石城」は、上田盆地の北側 標高1300mの東太郎山の先端の尾根上に築かれた堅固・雄大な山城、南の上田平や北東の真田郷を一望できる位置にあり、「戸石城」は南から「砥石」・「本城」・「枡形」と称される三つの郭部からなる全長500mほどの山城で、それに南西方向にある「米山(こめやま)城」が付随する。
「砥石」郭は尾根の最南端に位置し24m×21mの方形の平坦地をなしている。
「本城」郭は「砥石」郭から北へ、幅8m、深さ1mほどの堀切を隔てて200mほど進むと、「馬場」と称される35m×94mほどの平坦地がある。ここから北方向へ8つの平坦地が階段状に連なっている。最上段の本郭は、「馬場」寄りの最下段から16-17mほどの高所にあり、26m×24mの長方形を呈している。本郭の北縁には土塁や堀切が、南と南西側には石塁が築かれている。「本城」郭は居館跡と推定されているが、それにふさわしい規模と構造を有している。




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「枡形」郭は「本城」郭の北方、約125m登った所に位置する。26m×10mの頂部の北に、深さ1.5m、幅6mほどの堀切と、その先に8m×7mほどの削平地を付した長方形の郭である。
「米山城」は「砥石」郭から南西に約300離れた別の峰に位置する。古絵図に村上の放火台と記されているが、1551(天文20)年の「戸石城」の落城時に焼き尽くされた穀物類が地中から出土するとの伝承もあり、村上氏時代に兵糧を蓄えた城とも考えられている。その構造は南から北方向に向けて三の郭・二の郭・本郭が階段上に連なる連郭型で、山裾には二ヶ所の腰郭を設けている。本郭の中央北端寄りに「村上義清公之碑」と記された石碑があり、背後には土塁上の盛り土も残されている。また本郭の東斜面をはじめ随所に石積みも残されている。
「戸石城」が「本城」郭を中心に、北の「砥石」郭、南の「枡形」郭、南西の「米山城」を含めた複合型城郭として整備されたのは村上義清の時であったと考えられている。

こうした小県地方屈指の「戸石城」に1550(天文19)年9月、武田晴信(のちの信玄)が7,000人の兵で攻め入った。「戸石城」の城兵は500名ほどでしかなかったが、堅固な城の造りと、城兵の旺盛な士気により武田軍を撃退した。戦況不利と判断した晴信は9月末に攻略を断念し撤退しようとするが、村上義清が2000人の本隊を率いて追撃したため、武田軍は1000人近い死傷者を出して退却した(『妙法寺記』)。いわゆる「砥石崩れ」として伝えられる武田信玄屈辱の負け戦(いくさ)であった。
このように堅固な防御を誇った「戸石城」であったが、1551(天文20)年5月26日に、武田家臣の信濃先方衆・真田幸綱(幸隆)により攻略された。
1550(天文19)年7月2日、晴信(信玄)は幸綱(幸隆)宛に「其の方年来の忠信、祝着に候。然らば本意の上に於て、諏方(訪)方(形)参百貫并ならびに横田遺跡上条、都合千貫の所これを進じ候。恐々謹言。」という文書を与えている(『真田家文書』)。晴信(信玄)が幸隆の数年来の忠節をほめ、「本意」の通りならば、「諏訪形」地区の300貫と「上条」地区の土地を合わせて1,000貫文の地を幸隆に与えるという内容である。ここでいう「本意」とは「戸石城」を落とすことで、実際に『高白斎記』(駒井高白斎の日記)の1551(天文20)年5月26日条には「砥石城真田乗取」という記述がある。これは幸綱(幸隆)が謀略によって「戸石城」を落としたものと解釈されている。
その幸綱(幸隆)は、1541(天文10)年5月23日、海野一族とともに、海野平の戦いで敗北した後、箕輪城主・長野業正を頼って上野国に逃れていた。それが「戸石城」の攻略に成功し、1553(天文22)年、村上義清が越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)のもとへ追いやられたことで、幸綱(幸隆)は10年ぶりに本領の地・真田へ復帰することができたのである。また、晴信に命じられて小山田虎満とともに武田氏の属城となった「戸石城」の改修をおこなっている。
その後「戸石城」は1582(天正10)年3月に武田氏が滅亡すると、真田昌幸(幸綱の三男で真田家を継ぐ)の属城になり(『昌幸安堵状』)、1583(天正11)年に上田城を築城するまで、真田氏の中心的な城であった。その後も上田城の背後を固める支城として重要な役割を果たしている。例えば、1585(天正13)年8月に真田一族が真田領に侵攻してきた徳川家康勢を破った第一次上田合戦においては、「戸石城源三郎守之」(『真武内伝』)とあるように、「戸石城」は岩櫃城沼田城(群馬県)などと連携しながら上田城を守った。
1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いの中で、中山道を西へ進む徳川秀忠が率いる東軍3万8000は、西軍に属した真田昌幸の上田城を攻撃した。その際、秀忠は東軍に属していた真田信幸(信之)に「戸石城」の攻撃を命じた。このとき「戸石城」を守備していた真田信繁(昌幸次男、信幸弟)は兄弟の争いを避けて無血開城し、「戸石城」は信幸に占拠された。昌幸・信繁父子は秀忠を「上田城」に釘付けして9月15日の関ヶ原での本戦には間に合わないようにしたが、西日軍が敗北したために、紀伊の九度山(和歌山県)に流罪となった。




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昌幸の旧領は信之(信幸を改名)に与えられ、「戸石城」もその支城として存続したが、1615(元和元)年の一国一城令により破却された。

(寄稿)勝武@相模

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