真田幸綱(幸隆)・信綱父子が攻略した「白井城」~上杉氏・武田氏・北条氏の争いの舞台~

白井城

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上野・白井城

「白井城」は群馬県渋川市白井に位置する室町時代から江戸時代初期の城郭である。
利根川と吾妻川の合流地点、吾妻川側の断崖上に築かれ、越後(新潟県)から関東平野への出入り口を抑える要衝であった。
「白井城」へのアクセスは、関越自動車道の渋川伊香保ICから約20分、JR上越線渋川駅からバスで「桜の木鯉沢四つ角」下車、徒歩約15分で着く。
1567(永禄10)年3月、真田幸綱・信綱父子は 上野(こうずけ)の「白井城」を攻略し、真田昌幸が城代を務めていた時期もある。
本稿では「白井城」の歴史などを踏まえ、真田父子がこの城を攻略した背景や城の特徴などについて探る。


 

築城から真田幸綱による落城まで

「白井城」の築城者・時期については記録がなく定かではない。関東管領山内上杉氏の重臣・長尾景仲が永享年間(1429-41年)か、享徳の乱(1455~83年)の時期に築城したという。
しかし、近年では景仲の孫に当たる景春まで在城したという証拠が無く、この時期の「白井城」には越後上杉氏の房定(ふささだ)が在城していたという説が有力である。

景仲は山内上杉氏の執事や武蔵・上野守護代を務め、関東管領上杉氏と白井長尾氏の発展のために力を尽くした。
また、「白井城」内に聖堂を建てて、京都から藤原洋範を招き儒学の振興につとめ、1450(宝徳2)年には双林寺を建立するなど、「東国無双の案者(知恵者)」(『鎌倉大草紙』)と称された。
景仲が1466(文正元)年に、嫡子の景信も1473(文明5)年に没すると、景仲の孫景春が城主となる。
景春は1473(文明5)年に主家の山内上杉氏と対立するが、景英・景誠・憲景と続く白井長尾氏は、越後の長尾景虎(謙信)が山内上杉氏を継承するとこれに従った。

上杉謙信は越後と関東をつなぐルートの要衝に位置する「白井城」を関東進出の拠点として重視し、武田・北条両氏と対抗した。
甲斐(山梨県)の武田信玄が上野国へ進出していくと、1567(永禄10)年3月、真田幸隆・信綱父子を主力とする武田軍が「白井城」を攻略する。
落城直後、信玄が幸綱らに宛てた書状には「一徳斎(幸綱のこと)計策故、白井不日二落居」(『戦国遺文武田氏編』1054号)とあり、「白井城」の攻略には困難が伴ったが、幸綱の計略により落城したことをうかがわせる。
落城により白井は1579(天正7)年まで武田氏が支配する地となり、真田昌幸が1575(天正3)年11月頃から1579(天正7)年11月まで「白井城」の城代として在城している。
城主の長尾憲景は城を脱出し、上杉謙信を頼り「八崎城」に逃れた。



落城から廃城まで

その後、「白井城」は、白井長尾氏が奪回するが、上杉謙信没後の家督を巡り上杉景勝と上杉景虎が争った御館の乱が起きた。
その中で、景勝が武田氏と同盟(甲越同盟)を結ぶと、長尾憲景は敵対していた武田氏に属した。
1582(天正10)年3月に武田氏が滅亡すると、憲景は北条氏に属し、憲景死後、子の政景が城主となる。
政景の代に1590(天正18)年、豊臣秀吉小田原攻めをおこなうと、「白井城」は「松井田城」を攻略した前田・上杉氏らの大軍の攻撃によって開城し、白井長尾氏による支配は終わった。

小田原攻めの後に、徳川家康が関東に入国すると、本多康重が2万石を与えられ、父の広孝ととともに白井に入封する。
康重は関ヶ原の戦い後の1601(慶長6)年に岡崎5万石へ転封となり、白井には松平康長が入封し、以後、1602(慶長7)年に1万石で井伊直孝が、1616(元和2)年には2万石で西尾忠永が入封した。
そして1618(元和4)年、本多康重の次男の本多紀貞が1万石で入封するが、1623(元和9)年、紀貞は嗣子無くして死去し白井藩は廃藩となり、「白井城」は破却された。



「白井城」の構造

「白井城」の縄張りは、利根川と吾妻川の合流点に突き出した台地の先端に本丸が築かれ、北へと二の丸・三の丸・北郭・金毘羅郭が並ぶ梯郭式(ていかくしき)で、さらに総郭へと続く。
それぞれの郭は空堀で仕切られ、本丸の東南には南郭、その東南外側に新郭が続き、その規模は東西830m、南北1,050mの大城郭であった(『城址案内板』)。

本丸は130m×95mの三角状を呈し、周囲に高さ3~4mの土塁が回る。
本丸の門は内部に桝形がある構造で、枡形の周囲は野面積みの石垣で空堀に土橋が架かる。
土橋の東側は本丸の土塁が大きく北へ張り出す横矢掛けとなっている。
この外側の堀は「三日月堀」であり、武田氏の築城術を反映している。

おわりに

「白井城」は越後から関東平野への出入り口に位置することから、室町時代から戦国時代にかけて上杉氏、武田氏、北条氏の争いの舞台となり、真田幸綱・信綱父子が攻略し、一時期、真田昌幸が城代をつとめた。
現在、城跡の大部分は農地や宅地などになっているが、本丸の周辺は群馬県指定史跡に指定され、「三日月堀」をはじめとする堀や土塁・石垣なども比較的良好な状態で現存している。
その一方、築城時期や枡形門の造営時期など不明な点も多く、発掘調査を実施し、その成果などを基に総合的な再検討が必要である。



(寄稿)勝武@相模
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  1. 2019年 4月 29日

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