真田氏の出自については、主なものとして、①古代の大伴氏説、②禰津氏配下の武士説、③清和源氏説、④滋野氏一族の海野氏説が知られている。
①は古代に真田町周辺におかれたとされる「国牧」(律令国家における国営の牧)の管理者である大伴氏がそのまま武士化して真田を姓としたとする説である。
②は『大塔物語』に、 1400 (応永7)年、信濃守護小笠原氏に対して国人層や「大文字一揆」が領主抵抗した「大塔合戦」において、一揆の一方の大将である禰津氏の配下に「実田(さなだ)」の名がみられ、文献上での「真田氏」の初出とされる。
③は江戸時代作成の『真田家系図』によるものである。
系図では、真田氏は清和源氏の出自で、信濃国小県郡(長野県上田市)の海野棟綱あるいは真田頼昌の子の真田幸隆が小県郡真田郷を領して以後、「真田」を姓としたという。
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④は『滋野氏三家系図』で、鎌倉時代中期の海野幸氏の子・長氏の子の幸春を「真田七郎」 としており、系図上の初出とするものである。
いずれも決めてとなる資料はないが、戦国時代初期には、信州小県郡の真田郷に真田幸隆(幸綱)と名乗る在地領主がいたことは確かである。
この幸隆が居城としたのが「真田本城」であり、この城の周辺には「真田氏館」・「松尾古城」・「洗馬城」・「根小屋城」・「横尾城」・「伊勢崎城」・「矢沢城」・「天白城」・「殿城山城」・「内小屋城」などの諸城が位置する。
以下、主な城郭について、概要や特徴などをまとめる。
「真田本城」は1583(天正11)年に、真田昌幸が上田城を築城するまで真田氏の本城であった。
丘陵突端の頂部に築かれ、南面を除いた三方が峻険な斜面である。
東側に深さ2・5m ほどの空堀が巡り、ここから本郭の土塁直下までの間に五郭ほどの階段状の削平地がある。
本郭は15×35mほどの長方形で、その北方向に、細長の二の郭・三の郭が続く。
例えば、二の郭については「この曲輪は本丸より低きこと約一間許、其間に堀切あり」(長野県史蹟名勝天然記念物・第一巻)とある。
このような「真田本城」は小県郡と西上野の上州街道を結ぶ上州街道をやくし、神川の左岸を固め、周囲の峰々に多く連なる支城群の本城として機能したと考えられている。
「真田氏館」は「真田本城」から西南に約800m離れた場所に位置する。
諸資料によると真田信綱(真田幸隆の長子)の居館として、天正年間(1573―1592年)に築造されたという(天正年間以前の築造説もある)。
東西150〜160m、南北100〜130mの大規模な館で、周囲を土と石が混ざりあった土塁が囲み、南面の大手には24m×9mの長大な升形の跡が残る。
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「松尾古城」は、「真田本城」の北東約3kmの所にある。
尾根突端の急峻を利用して築かれており、真田氏が「真田本城」の守りを固めるために、西上野へ通じる角間峠・鳥井峠・和熊峠の所を押さえるために築いたとされている。
1820(文政3)年に落合保明が作成した「松尾古城全図」には真田横沢からの登城道が記され、「大手」の名や石塁が描かれており、現在も石塁や削平地などが随所に残る。
その中で、本郭(20×15mの楕円形)の周囲には、高さ70-80㎝、幅160-170㎝を測る平石による牛蒡積みの石塁がめぐるが、これだけ整然と残る石塁は、多くの石積みがみられる小県地方でも稀少であるという。
また絵図には、「枡形」「遠見番所跡」の用語や、「北返ヲスベテ真田家御屋敷跡ト云、明神神社ヲ御宿所跡ト云、アミダ堂ノ所ヲ御居間跡ト云、夫レヨリ東ノ所ヲ御庭跡ト云、今ハ畑ナリ」という記述がある。
1971(昭和46)年には翌年にかけて、周辺の「日向畑遺跡」が発掘調査され、室町時代から戦国時代にかけての五輪塔や宝篋印塔などが多数出土している(『真田町日向畑遺跡発掘調査報告』)。
これらのことから、真田氏は、真田幸隆以前から「日向畑遺跡」周辺に居館を構え、「松尾古城」が詰め城としての役割を果たしたと考えられる。
以上の3城に加えて、「真田本城」から南へ約360mの所に「天白城」、さらに「天白城」から東南東方向へ約2.3Km離れて「殿城山城」が位置し、「真田本城」の後詰を担ったとされている。
また、北東の地蔵峠を越えて松代方面には、「真田本城」から、それぞれ約1.9kmの平地に「内小屋城」、約2.5km離れて「横尾城」、約3.2 km離れて「根小屋城」、そして3.9km離れた標高800m程の山に「洗馬城」が位置する。
それらのうち、「洗馬城」は真田氏最初の拠点とされており、その後、平地に館として「内小屋城」を築き、真田郷全域を掌握したと考えられている。
さらに、「真田本城」から南南西の上田方面に約3.4 km離れた地に「矢沢城」が位置する。
「矢沢城」は神川の左岸、標高1193mの殿城山から延びた尾根の先端に築かれており、対岸の「伊勢崎城」とともに、上田平から真田郷・上州へとつながる街道を抑える役割を果たしと考えられる。
築城時期は不明であるが、真田幸隆の弟、矢沢綱頼(頼綱)が城主であった。
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真田氏の出自については様々な説があるが、戦国時代初期には真田郷を本拠の地として「真田本城」・「真田氏館」・「松尾古城」のほか、周囲に「天白城」・「殿城山城」・「横尾城」・「根小屋城」「洗馬城」・「矢沢城」などの諸城を配置し、真田郷の守りを固め、勢力を誇示したのである。
(寄稿)勝武@相模
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