「真田丸」の実態を探究する 範囲・規模・構造などに関する新しい説

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従来の真田丸

真田丸は1615年の大坂冬の陣において、大坂城に入城した真田信繁(幸村)が造営した出丸である。
信繁は作戦方針を巡り、後藤又兵衛らの浪人衆とともに、城から打って出る積極策を提案するが、大野治長らの豊臣家直臣に阻まれ籠城策に決まった。
そこで信繁は防御に弱点がある大坂城の南、平野口の外側に出丸を築き、その守備に当たることになったのである。




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真田丸の位置や規模、構造などについては、これまで江戸時代に作られた「大坂冬御陣之図」(福井市立郷土歴史博物館蔵)などの配陣図をもとに次のように考えられていた。
位置は現在の「宰相山」から「真田山」にかけての高台で、南北約220m、 東西約180mの規模を持つ、三方を深さ 約 60m 「空堀」と、高さ約 9mの土塁で囲まれた半円形の出丸で、さらに周囲には三重の柵が巡り、櫓や井楼も設けられ、大坂城内とは惣堀の中に作られた通路で出入りができた。
真田丸は「甲州流軍学」においてみられる「丸馬出し」で、それは戦国大名武田氏に関係する甲斐や信濃の中世城郭に多く造られた施設と同じ構造とされていたのである。

真田丸をめぐる新しい説

近年、大坂城周辺での発掘調査成果の蓄積や史料・絵図類の再検討、地形復原研究の進展などにより、豊臣期の大坂城の姿が明らかになってきた。
その中でも、発掘調査をもとに発掘調査惣構南堀の復原が進み、それに伴い真田丸についても新たな説が提起されている。

例えば、城郭考古学者の千田嘉博氏(奈良大学教授)は『浅野家文庫諸国古城之図』所収の絵図「摂津 真田丸」や、科学分析による「地形復元図」、現地調査などをもとに復原を試みている(千田嘉博 2015)。
それによると、真田丸本体(主郭)は現在の明星学園を中心に、東西約220m、南北約280mの範囲を堀で囲み、北側にある小曲輪をもつ、二重構造であったと、と想定している。その詳細は次のとおりである。
 ・真田山小学校西側の南北道路が真田丸本体の東側の堀跡である。
 ・南北道路の西側、明星学園のグラウンド崖下を回り込む道路が、真田丸北側の堀の痕跡を伝える。
 ・南側の堀は餌差町交差点に続く東西道路より南側にあり、大阪府立高津高校の北端のテニスコートがそれに近接する。
 ・円珠庵周辺が真田丸の南西角にあたり、現状の地形が西側に下がっていくところに西側のラインがあった。
 ・三光神社や宰相山公園がある高台は外郭の一部で、絵図「摂津 真田丸」に描かれている大坂城惣構南堀との間の小曲輪は善福寺周辺に比定できる。
以上のことから、千田氏は真田丸を惣構の外側に新たに築いた「一個の独立した城」と捉えている。




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こうした千田氏の説に対して、積山 洋氏は「真田出丸を南北に並ぶ二郭構造とする見解〔千田嘉博2015〕があるが、その北郭は現明星学園の北、惣構南堀との間を想定されている。だが、そこはこの周辺ではもっとも低所であり、防衛上、極めて不利なので、現実的とはいえない」と反論している。
そして、発掘調査成果や史料・絵図類の検討、地形復原などをもとに、次のような説を提起している(積山 洋 2018)。
それは、「真田出丸」を半円形の主郭と両翼の曲輪からなる複郭構造とする絵図にしたがい、最大で東西約800m、南北約600mの規模に復原できる、とするものである。その詳細は次のとおりである。
 ・「永青文庫図」や「尊経閣文庫図」では主郭の東西に柵で仕切った曲輪を設けている。
 ・「真田出丸」は字「真田山」(明星学園の敷地)に主郭を置き、「宰相山」(真田山陸軍墓地)に東郭を築いたとするのが妥当である。
 ・主郭の東西は上町台地の東に張り出す高台全体を柵で囲み、南は「小橋山」にいたる舌状台地を断ち切り空堀をめぐらせていた。
 ・西限については、円珠庵付近に西郭の柵が築かれたとみる。
以上のことから、積山氏は大坂城惣構の南側の「弱点を克服するために築かれた不可欠の防衛拠点」であったとしている。
そのことは、積山氏は「真田出丸」という名称を使っていることからも理解できる。

両氏の説の違いは、真田丸本体(主郭)の周辺の捉え方の違いによるものである。
千田氏は、「摂津 真田丸」図をもとに、真田丸は本体(主郭)と、その北側の大坂城惣構南堀との間に位置する「小曲輪」からなる南北に連なる二重構造であったとしている。
一方の積山氏は、「永青文庫図」や「尊経閣文庫図」をもとに、真田丸を字「真田山」(明星学園の敷地)の主郭と、その東側の「宰相山」(真田山陸軍墓地)に東郭を築き、円珠庵付近に西郭が築かれた、としている。

真田丸の解明

真田丸の規模や範囲、構造などについては、前述したように、近年、発掘調査の成果や史料・絵図類の再検討、現地調査などにより、新しい説も出されているが、確定するには根拠が不足している。
筆者は2018年12月に、真田丸の推定地とその周辺を歩いてみた。
確かに、真田丸本体とされる明星学園の周辺や、真田山小学校の西側、高津高校グラウンドの北側などには、往時に堀があったと考えられる地形ではあったが、それを示す明確な痕跡は、地表からは分からなかった。

今後、真田丸の実態を解明するためには、発掘調査、史料・絵図類の発見や検討、現地調査などによる総合的な調査がより一層必要と考える。
絵図類については、2016年12月に松江歴史館(松江市)が市所蔵の『極秘諸国城図』の中から「大坂 真田丸」と表題が付いた絵図を発見した、と公表した。
この絵図では、「摂津 真田丸」図と異なり、南側にある堀を「惣構堀」と記載したり、
南側の堀に下る傾斜路や、周囲の崖の外側に堀が回り込む構造などが新たに判明し、北側にあった小さな曲輪が真田丸の出城だったことも分かった、という。
発掘調査については、様々な制約がある中、無理は承知であるが、明星学園とその周辺の学術的な発掘調査に期待したい。

註)千田氏、積山氏の説の紹介及び、地図の「真田丸本体(主郭)推定範囲」は筆者が参考文献をもとに整理したものであり、文責は筆者にある。




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<引用・参考文献>
千田嘉博 2015『真田丸の謎 戦国時代を「城」で読み解く』NHK出版
積山 洋 2018「豊臣氏大坂城惣構南堀と真田出丸の再検討」(『大阪文化財研究所 研究紀要』第19号)

(寄稿)勝武@相模

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