松代真田家の本拠「松代城」の歴史~武田・上杉時代から現在・未来~

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【「海津城」としての歴史】

松代城」は善光寺平の南東部、千曲川東岸の微高地に築かれた平城で、1560(永禄3)年頃に、武田信玄の命により「海津城」として築かれた。
『甲陽軍艦』では、1553(天文22)年に清野屋敷を召し上げて、山本勘介の縄割りにより築かれたとしているが、史料上では1560(永禄3)年の「海津在城云々」の文書が初出である。
築城工事は屋代氏、香坂氏ら川中島四郡の国衆が担ったといい、武田氏家臣の香坂(高坂)弾正が城将を務めている。
「海津城」は「尼巌(あまかざり)城」とともに上杉氏への最前線に位置し、1561(永禄4年)年9月の第四次川中島の戦いでは、妻女山に陣を置いた上杉政虎(謙信)軍への前線基地としての役割を果たした。

武田氏没落後は織田信長家臣の森長可(ながよし)が入城するが、信長の死後は上杉氏の持城となった。上杉時代は、村上景国(義清の子)、上条義春、須田満親が城将を務めた。
1583(天正13)年、徳川家康と対立した真田昌幸は、次男の信繁(幸村)を人質として満親のもとに送り、上杉景勝の支援を得た。景勝は第一次上田合戦が起こると、北信四郡の軍政・民政のすべてを「海津城」の城将に任せている。
豊臣秀吉の時代、この地は蔵入地となり、田丸直昌が「海津城」に入り支配した。
1600(慶長5)年、関ヶ原の戦いに勝利した家康は、森長可の弟、忠政を「海津城」の城主とした。その後、松平忠輝家臣の花井吉成、その子の主水、松平忠昌、酒井忠勝と景勝の会津移封後は短い期間に何人もの城主が交代した。




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【「松代城」としての歴史】

1622(元和8)年に真田信之が「上田城」から移封されると、以後、約250年にわたり、真田氏の居城となった。その間、1711(正徳元)年に3代藩主幸道のとき幕府の命によって「松代城」と改名されたが、松代藩の公文書以外では「海津城」という記載もみられる。
明治維新を経て1872(明治5)年に廃城になると、城内の建物や土地の払い下げが行われた。「松代城」は石垣が壊され、堀が埋め戻され、城の跡地の大半が桑畑や麦畑になるなど荒廃した。
この姿を憂慮した旧藩主真田家は1886(明治19)年に本丸跡地を購入して当時の松代町に寄附し、その後、町は「松代城」本丸跡遊園地として整備して一般に開放した。

【「松代城」の構造】

「松代城」の縄張は本丸を二の丸・三の丸が囲むシンプルな輪郭式で、周囲は堀で囲まれ、その規模は東西約260m×南北約200mである。
本丸は東・南・西側をコの字状に掘で囲った方形郭で、築城当初は芝土居であり、のちに石垣積みに改められたという。
本丸内部には殿舎・御殿が置かれ、塁線の四隅には櫓台が構えられた。享保年間や廃藩時の絵図によると、北・東・南側に入り口である虎口(こぐち)が開く。大手は南虎口の太鼓門、搦手は北不明門(きたあかずもん)で、いずれも桝形(ますがた)を採り入れている。
二の丸は本丸の東・南・西を囲むコの字状の郭で、外部とは土塁と外堀で遮断されている。虎口は南側に南御門、東側に石場御門が設けられ、前面には丸馬出が構えられ、三日月堀が掘られていた。
三の丸は東側の桝形が付随する大御門を入口としていた。1770(明和7)年には三の丸の西に「花の丸御殿」が造られ、本丸御殿が移転された。また1864(元冶元)年には更に東側に新御所である真田邸が造られている。
松代真田氏の本拠である「松代城」は1560(永禄3)年頃に武田信玄が「海津城」として輪郭式の平城として築城された。そのため、三日月堀や丸馬出しなどの甲州流築城術の特徴ある遺構が現存している。




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【「松代城」の調査と整備】

「松代城」は、1964(昭和39)年に本丸部分が県の史跡になり、1981(昭和56)年には本丸を中心とした旧城郭域の一部が新御殿とともに国の史跡に指定された。
長野市(松代町と合併)は1995(平成7)年度から2004(平成16)年度まで10年間の保存整備事業を実施し、発掘調査では「海津城」の構造や建造物が次のように明らかになっている。
・築城当初の「海津城」は、砦のような簡易な施設であったが、次第に土塁から石垣に築造し直された。
・二の丸や三の丸の整備も行われ、梯郭式(ていかくしき)の縄張りが整えられた。
・本丸や二の丸、花の丸では御殿風の建物の礎石や井戸跡が確認され、複数回にわたる火災の痕跡が確認された。
・絵図と合わせると、本丸の三方には、二重の隅櫓(すみやぐら)が幕末まで建てられていたことを示す痕跡が確認された。
・天守台として築かれた可能性が指摘されていた本丸北西の戌亥隅櫓台(すみやぐらだい)について、天守の存在を裏付ける資料は確認できなかった。
・江戸時代後期に本丸北側の千曲川の流路をより北方に変更して、帯状の曲輪や新堀・百間堀を拡張整備したことが確認された。
また「松代城」の石垣や堀の修理箇所を記載した縄張図、建物の寸法を記載した平面図・姿図、城の景観を描いた眺望図などの豊富な絵図類をももとに文献調査も進められている。

こうした発掘調査や文献調査などにより「松代城」は江戸時代末期の姿への復元が進められている。2018(平成30)年9月現在では太鼓門・北不明門の復元、石垣の修復、土塁・堀等が整備されている。
例えば、本丸南側の大手(正面)に位置する太鼓門は、高さ11.8mの櫓門と高麗門、続塀が再現され、正門とは反対側、本丸北側の搦手に位置する北不明門は高麗門と続塀が復元されている。  
史跡指定地外においても、開発事業に伴って1993(平成5)年に桜の馬場と百間堀、1994(平成6)年には大御門跡、2008(平成20)年にも花の丸の御殿跡が調査されて遺構が確認されている。




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2015(平成27)年には、二の丸南東外側の長野電鉄屋代線跡地などが国指定史跡に追加指定された。
長野市は2017(平成29)年2月、史跡に追加指定された範囲を発掘調査した結果、三日月堀の護岸の遺構を確認している。三日月堀が実際に確認されたのは初めてのことで、城跡の東側、縦10m、横10m、深さ2mほどを発掘し、石や盛土を確認、堀の水で浸食されないように石を粘土で固めたとみられるという。

今後も国史跡に追加指定された地域や城の南側に広がる城下町の整備が行われ、江戸後半期の「松代城」の姿が復元されることは魅力的なことである。しかし、9月に現地を訪問した際、地元の方から次のような話を聴いた。
それは、追加指定範囲の「三日月堀」などの整備・復元が進むと、旧松代駅舎はどうなるのか、城の南側の駐車場がなくなると観光客が不便になる、などである。
現在、文化財保護法改正で文化財の保存と活用のあり方が話題となっているが、国指定史跡「松代城」の整備がその手本となることを期待したい。

(寄稿)勝武@相模
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