真田信繁(幸村)と大坂の陣~「日本一の兵」・真田幸村へ~

真田信繁(幸村)と大坂の陣



真田丸の戦い

大坂城へ入城した真田信繁は、明石全登、後藤基次、長宗我部盛親毛利勝永とともに、浪人衆を率いる一軍の将に任命された。
10月中旬の軍議で信繁は、豊臣秀頼自ら天王寺まで出撃し、信繁・勝永・基次らが宇治・瀬田に陣を構え、徳川方の大軍を迎え撃つという積極策を主張する。
しかし、大野治長木村重成、渡辺糺ら豊臣家の首脳陣は信繁・基次らの積極策に反対し、籠城策を主張して譲らなかった。





豊臣方が籠城策を採った背景には天下人豊臣秀吉が総力をあげて築城した大坂城に絶大な信頼をおいていたことが考えられる。
大坂城は天満川、平野川・猫間川を天然の要害とし、高い塁壁と幅の広い堀をめぐらした本丸・二の丸・三の丸、それに加えて惣構をもつ堅固な巨城であった。
豊臣方は籠城に備えて武器・弾薬・兵糧を大量に確保するとともに、城の周りに砦を築いた。
とくに弱点とされていた城の南側の惣構に、塀・矢倉を設け鉄砲・弓狭間をきり、約1町ごとに石火矢(大砲)を配置するなどの補強をおこなった。
さらに、真田信繁の進言を取り入れて平野口の外側に「真田丸」と称する出丸を築き、信繁がその守備にあたったが、大坂城内では信繁の寝返りを危惧して反対意見も強かったという。

1615年11月半ばには、20万余の徳川方の大軍(以下、「徳川勢」と称す。)が大坂城を包囲した。城に籠る豊臣方は10万余の軍勢であったと伝わる。
11月19日の未明、徳川家康の命を受けた蜂須賀至鎮浅野長晟・池田忠雄らの兵が木津川口の砦を攻めたことで、大坂冬の陣の本格的な戦闘が始まった。
砦の守将であった明石全登は城内での軍議のため留守であったことなどから、砦は蜂須賀勢の手に落ちた。
11月26日には、大坂城の東北2㎞ほどの鴫野・今福で、徳川方の上杉景勝・佐竹義宣らと木村重成・後藤基次らの3,000の軍勢が激しい戦闘をおこない、豊臣方は基次が負傷するなど多くの死傷者を出した。
11月29日には、蜂須賀・池田・石川忠総らの軍勢が博労ヶ淵の砦を攻めこれを奪った。この砦は薄田兼相を将とする700の兵が守備していたが、兼相は前夜から神崎の遊女屋に泊まり込んでいて、その不在の間に砦が落ちたのである。
開戦から10数日が過ぎ、徳川勢は少しずつ前進、包囲の輪を縮めていき、「真田丸」にも攻め寄せたのである。

それ以前から「真田丸」に籠る真田信繁ら約3,000の軍勢(以下、「真田勢」と称する。)は前面の「篠山」などと呼ばれていた小山に柵を設けて徳川勢を狙撃していた。
12月4日、まず前田利常の先鋒本多政重らが「篠山」に攻め上ったところ、真田勢は一人もいなかった。
そこで、前田勢に加えて、井伊直孝松平忠直藤堂高虎の軍勢が「真田丸」に攻め寄せるが、真田勢の鉄砲による迎撃に阻まれた。
その最中に城内で突然、爆発が起こり、前田勢は城内から内応する合図だと勘違いし、井伊・松平・藤堂らの諸勢も城に向けて総攻撃をかけるが、爆発は豊臣方の石川康勝勢による誤爆であり、城内から前田勢らへの援軍はなかった。





信繁は突撃してくる敵兵を十分に引きつけて、矢倉や狭間から一斉射撃をおこなった。
前田・松平勢らは堀にはまったりして大混乱に陥り、東軍は開戦早々に大敗北を喫した。
この戦いは、公家や僧侶の日記に「十二月四日、大坂之城大ゼメ、今日迄ニヨセ衆一万五千人程打ルト云々」(『東大寺雑記』)とあるなど、上方では戦況を豊臣方有利と見ていたことがわかる。また、この戦いで父昌幸の陰に隠れていた信繁の武名は一気に高まったのである。

講和から再戦へ

徳川家康は開戦当初から講和することを考えており、すでに11月20日には豊臣方の織田有楽・大野治長らを相手に和議の交渉をおこなっている。
家康は「真田丸の戦い」の敗北を受けて、力攻めではなく神経・心理戦術を駆使して講和にもっていくことにし、12月16日には300挺の大砲で砲撃するよう指示した。
大坂城内では織田有楽・大野治長らの和議派と真田信繁・後藤基次らの主戦派とが対立していたが、淀殿・秀頼母子が主戦論を唱えていた。
東軍は16日から19日頃にかけて連日おこなわれ、「……淀殿の居間の櫓を打崩したり。……側に侍りし女房七、八人たちまちに打殺され、……」(『徳川実記』)という状態となった。
戦意を喪失した淀殿・秀頼母子は和議を受入れることにし、12月20日に和議が成立、22日にかけて誓書を交換した。
その主な条件は、大坂城の堀の埋め立て、淀殿を人質としないこと、秀頼の罪を問わないこと、であった。
信繁は講和成立後も基次ら浪人衆とともに、大坂城にとどまり徳川方の動きを見定めていたと考えられる。





徳川方は講和の成立直後から外堀の埋立てに加えて、惣構や二の丸・三の丸を徹底的に破却した。
その結果、大坂城は本丸だけを残し、城郭の機能をほとんど失ったのである。
この間、信繁は、叔父の真田信伊を通じて徳川家康から10万石の所領を与えられることを条件に、徳川方への随身を持ちかけられるが断っている。
1615年2月に入ると、家康・秀忠父子は大坂城の破却の目途が立ったことで、駿府と江戸に帰還した。
一方、豊臣方は、内堀の埋立てや城郭の破却を講和条件の違反として再戦の準備を始めた。
この情報を得た家康は3月末頃、淀殿・秀頼母子に対して大坂城から大和郡山城への退去を勧告するが、豊臣方は4月4日に軍議を開き、退去を拒否して再び戦うことを決した。

大坂夏の陣

5月5日、徳川方は、豊臣恩顧の大名も含めた15万余の軍勢を、奈良を経由する「大和方面軍」と淀川沿いを南下する「河内方面軍」に分けて大坂城に向かった。
大坂城を「裸城」とされた豊臣方は出撃せざるを得ず、5月6日、道明寺と八尾・若江付近にて両軍が激突した。
道明寺付近では、後藤基次・真田信繫・毛利勝永の軍勢が「大和方面軍」を迎え撃つことになっていたが、真田・毛利勢が濃霧で遅れたために後藤勢は撃退され、基次は討死にした。
八尾・若江方面においても、長宗我部盛親・木村重成勢が「河内方面軍」と衝突し、激戦の末、長宗我部・木村両勢は敗北した。
5月7日、真田勢は茶臼山に、毛利・大野勢は四天王寺周辺に布陣して徳川方の大軍に対した。
その中でも真田勢3,000余は、松平忠直勢を蹴散らし、後方の家康本陣に三度突撃した。
家康の命を奪うまで肉薄したが、三度目の攻撃で力尽き、信繁も安居神社付近で忠直の家臣西尾仁左衛門によって討ち取られたと伝わる。
徳川勢は岡山口・天王寺口から大坂城に攻めかかり、翌8日、淀殿・秀頼母子は本丸北方の「山里曲輪」において大野治長・毛利勝永・真田大助(幸昌、信繁嫡男)ら30人とともに自害し豊臣家は滅亡した。

大坂の陣と真田信繁

大坂入城直後の真田信繁に対する評価や期待は、上田城で徳川勢を2度も破った父昌幸の勇名に隠れ、それほど高くなかった。
そのことは、大坂城から出撃して徳川勢を撃つ積極策が却下されたり、また「真田丸」を築いたことで、兄信幸を通じて徳川方への内通を疑われたことが示している。
それが、「真田丸」での緻密な攻防戦や、大坂夏の陣における徳川家康本陣への果敢な突撃などの華々しい活躍や悲劇的な最期が、真田の武名を高めることになった。
例えば、東軍方の細川忠興は真田勢の働きを「古今これなき大手柄」(『細川家記』)と褒め、同じく島津忠恒は「『真田日本一の兵』いにしえよりの物語もこれなき」(『薩摩旧記』)と絶賛している。
江戸時代になると、幕府に対する反発もあり、家康を苦しめた信繁は庶民の間で英雄扱いされ、いつしか「幸村」と呼ばれるようになったという。





信繁の評価を高めた大坂の陣については、ここ数年、新資料の発見や発掘調査事例の蓄積されている。
例えば、平成30年4月4日に広島県立歴史博物館(福山市)が、大坂冬・夏の陣の詳細な陣形を記録した最古級で最大級の陣図が見つかったことを発表した。
また、「真田丸」の立地や規模、構造などについては、近年の城絵図や地形、発掘調査成果の緻密な分析などの見直しがおこなわれている。
これら新資料の分析や研究が進めば、新しい信繁像が明らかになるであろう。
なお、「真田丸」に関する新しい知見については別稿で紹介したい。

(寄稿)勝武@相模

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