真田昌幸が築城に関わった「新府城」~築城背景を探る〜

新府城



新府城」の概要

「新府城」は韮崎市の北方、「七里岩」の台地南端の小山に築かれた戦国時代末期の山城である。
「七里岩」は八ヶ岳の火砕流によって形づくられ、長野県境から韮崎までの釜無川左岸に約30㎞にわたり高さ70m前後の急な崖が続く。
その台地上には100以上の「流れ山」と呼ばれる小高い丘や小山が連なり、その中の標高約524mの「西ノ森」と呼ばれた小山に、「新府城」は1581(天正9)年、武田勝頼によって築城された。
「新府城」は武田流の築城術の集大成と呼ばれる名城で、1973(昭和48)年7月に国の史跡に指定されている。

「新府城」の築城

1573(天正元)年4月、武田信玄が死去すると武田勝頼が跡を継ぐが、信玄の死により、これまで押さえ込まれていた織田信長・徳川家康が勢力を盛り返した。
勝頼は徳川領の遠江(静岡県)・三河(愛知県)に侵攻するが、1575(天正3)年5月、三河国「長篠城」(愛知県新城市)をめぐり設楽原(しだらがはら)で、信長・家康の連合軍に大敗する。
このいわゆる長篠の戦いの敗戦をきっかけに、武田氏はこれまでの攻撃態勢から防御態勢へ戦略を見直すことが急務となった。

1578(天正6)年、越後の上杉謙信が無くなると、勝頼は上杉景勝と甲越同盟を結ぶが、これにより北条氏との甲相同盟は破棄されて、武田氏は北条氏政・家康・信長と対立することになった。
こうした緊迫した情勢の中、勝頼は穴山信君らの意見を受け入れて韮崎に「新府城」を築城することとした。

普請奉行には真田昌幸と曽根昌世が任命され、1581(天正9)年1月から築城が始まった。
同年3月6日に勝頼が原隼人佑宛に出した文書には「其の地普請のため在陣、昼夜の労煩察せしめ候、然りと も、分国堅固の備え、此の一事にきわまり候の条、苦労ながら夜を以て日に継ぎ、いよいよ念を入れられ、相裃がるべき儀、たのみ入り候、………」とあり、昼夜兼行の突貫工事がおこなわれていたことが分かる。
この時期、勝頼は駿河・伊豆(静岡県)方面において北条氏と戦っており、3月22日には遠江の「高天神城」が落城している。

5月に入ると、「浜松城」を本拠としていた徳川家康の軍も武田氏領国をうかがうようになり、築城を急がなければならない状況であった。


                            




「新府城」の築城と真田昌幸

「新府城」の築城に際し、真田昌幸は普請奉行として重要な役割を担うが、それについて次のような文書が残されている(『信濃史料』第15巻)。
「上意示し預るに就いて啓せしめ候、仍って新御館に御居を移され候の条、御分国中の人夫を以て御普請なし置かるべく候、これにより近習の方に跡部十郎左衛門方、その表人夫御改として指し遺わされ候、御条目の趣御得心ありて、来月十五日に御領中の人々も着府候の様に仰せ付けられるべく候、何れも家十間より人足一人宛召し寄せられ候、軍役衆には、人足の粮米を申付けられ候、水役の人足差したてられるべく候の由、上意に候、御普請の日数三十日候、委曲跡十申さるべく候、恐々謹言
        真安
   正月廿日   昌幸(花押影)」

この文書は1591(天正9)年1月22日に普請奉行の昌幸が信濃の武士に宛てたものとされている。
その内容は、築城の人夫を2月15日までに現地に集合させること、人足は10軒に1人の割合で出すこと、軍役衆には人足の食料を提供させることなどの築城に関する細かな指示である。
また、築城の日数は30日間に限られていることも確認できる。

「新府城」は着工から5ヶ月たった9月には、ほとんどの工事が完了したと考えられ、勝頼は「新府城」の落成を友好諸国に報告している。
これに関連して、景勝に落成祝への返礼として送った11月10日付けの文書には、「新府城」に移転しようとしたところ、北条氏家臣の笠原新六郎が降伏してきた。その対応に伊豆(静岡県)へ出向いたので、帰国し次第、移転したいという内容がみられる。
そして1581(天正9)年12月24日、勝頼は「躑躅ケ崎館(つつじがさきやかた)」(山梨県甲府市)から「新府城」への移転がおこなわれた。

おわりに

「新府城」は1591(天正9)年1月22日付けの文書からも分かるように、真田昌幸らを普請奉行に武田氏領国中から人足を動員して、武田氏の命運をかけて築城された。
しかし、1592(天正10)年3月3日、武田勝頼は織田軍の侵攻を目前にして自ら「新府城」勝頼に火を放ち退去した。
そして同年3月11日、に田野(山梨県甲州市大和町)において、夫人と息子信勝ともに自害し、甲斐源氏の名門、武田氏は滅亡したのである。
なお、武田流築城術の集大成といわれる「新府城」の構造などについては別稿で紹介する。

<参考文献>
真田町誌編纂委員会 1998年『真田町誌歴史編(上)』真田町誌刊行会
西川広平 2008年「新府城の築城と地域社会」―城郭普請をめぐって『新府城の歴史学』新人物往来社





(寄稿)勝武@相模
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