豊臣秀吉晩年の城・「伏見城」~築城経緯と真田父子が果たした役割~

伏見城

概要

豊臣秀吉が晩年に京都市伏見に築城した「伏見城」(京都市伏見区)は、宇治川北岸の泰長老の辺りに築城した「指月伏見城」、その倒壊後に北方の木幡山(こはたやま)に築城した「木幡山伏見城」がある。

「指月伏見城」は1592(文禄元)年8月に、東山連峰の最南端桃山の地に隠居所として築いたのが始まりである。
その翌年からは、豊臣秀頼の誕生や明の講和使節の引見などを背景に、天守や殿舎などが築かれ、本格的な城郭となった。
しかし、1596(慶長元)年閏7月の慶長伏見地震で倒壊し、新たに木幡山(こはたやま)に築城されたのが「木幡山伏見城」である。





秀吉の没後、「木幡山伏見城」には豊臣家の五大老の筆頭である徳川家康が入城した。
1600(慶長5)年の関ヶ原合戦の前哨戦で落城したが、1602(慶長7)年に家康によって再建された。
家康は翌年に征夷大将軍に就任して以降、1605(慶長10)年までの将軍在任中の大半を「木幡山伏見城」で過ごすなど、近畿地方における徳川政権の拠点となった。
1615(慶長20)年、大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡した後は、京都に「二条城」と「木幡山伏見城」を維持する名目がなくなり、1623(元和9)年に三代将軍徳川家光の将軍宣下が行われたことを最後に「木幡山伏見城」は廃城となった。

本稿では築城工事の状況と真田父子の関わりについてまとめる。

「伏見城」の普請(築城工事)

「指月伏見城」の普請は1592(文禄元)年8月から始まり、翌1593(文禄2)年5月に天守閣や殿舎が完成、閏9月には豊臣秀吉・秀頼らが入城している。
1594(文禄3)年からは明の講和使節を引見するため、城域の拡張などの本格的な築城工事が始まった。
3月には「淀古城」(京都市伏見区)の天守と櫓が、翌1595(文禄4)年7月には豊臣秀次の没落によって解体された「聚楽第(じゅらくのでい)」の建物も移築された。

この普請には、佐久間政実以下6人の造営奉行の下、朝鮮へ渡海しなかった大名に対して、1万石につき24人の普請役(動員)が課せられた。
石材は讃岐国(香川県)小豆島から、木材は土佐(高知県)・出羽(秋田県)などの遠国からも調達された。





1596(慶長元)年潤7月に「指月伏見城」が慶長伏見地震によって崩壊すると、秀吉は指月の地から東北寄りにある小幡山(桃山)に改めて「木幡山伏見城」を再建した。
この普請は昼夜兼行でおこなわれ、同年10月10日に本丸、翌1597(慶長2)年の10月までに天守や殿舎、「舟入学問所」の茶亭などが完成している。
その後も工事は継続されたが、秀吉没後の1598(慶長3)年8月になっても未完成であったという。

「指月伏見城」の普請と真田父子

「指月伏見城」の普請には、朝鮮には渡海することがなかった真田父子も普請役を割り当てられている。関連する主な史料と概要は次のとおりである。

<1593(文禄2)年12月17日付「真田信幸宛豊臣氏奉行連署状」>
態(わざわざ)申し入れ候。
一 来年御普請の儀、最前御免成さるべき旨に候へ共、御城廻り御普請未だ相究めず候に付いて、御座成さるべきの旨に候事。
一 来年三月朔日より九月迄御普請に候間、二月中に京着候様に仰せ付けらるべく候事。
一 御普請役の義、御手前高の内五分の一人数引かれ仰せ付けらるべき旨に候。御持方下さるべく候間、右の通りに人数を定め出さるべき由に候。恐々謹言。
長大(長束大蔵大輔)正家(花押)
極月十七日 増右(増田右衛門尉)長盛(花押)
石治(石田治部少輔)三成(花押)
徳善(前田徳善院) 玄以(花押)
真田伊豆守殿 御宿所

長束(なつか)正家らの奉行が、領内開発のため普請役を免じられた信幸に「伏見城」普請を命じている。
城普請は来年(文禄3年)の3月から9月までなので、2月中に京都へ到着すること、普請の人夫は、定めに従い石高の5分の1の人数を出すようにとある。





<1594(文禄3)年1月18日付「真田昌幸・信幸・幸村宛佐久間甚四郎等連署状」
来る朔日より御普請の儀、堀普請と仰せ出だされ候。御役儀の事、千六百八拾人にて候。御心得の為申し上げ候。恐惶謹言。
佐久間甚四郎正実(花押)
正月十八日  山城少兵衛 一久(花押)
伏屋小兵衛 為長(花押)
石尾与兵衛 治一(花押)
真房州様
真伊豆様
同左衛門様 人々御中

普請奉行の佐久間正実らが真田昌幸・信幸・信繁(幸村)父子に堀普請の人夫として、1,680人を負担するように定めた旨を通知している。

<1594(文禄3)年6月1日付「真田昌幸宛豊臣秀吉書状」>
急度仰せ遣はされ候。伏見御作事の御用に候の条、柾板百五十駄、国本に残し置き候人数を以って、木曽より朝妻迄相届け、即ち石川兵蔵奉行に相渡すべく候。急の御用に候条、由断すべからず候。尚石川兵蔵申すべく候也。
六月朔日(朱印)(豊臣秀吉)
真田安房守とのへ

秀吉が昌幸に「伏見城」築城の用材として、柾板を秀吉直轄領である木曽から近江(滋賀県)朝妻まで運搬するように命じている。





以上の史料から、「伏見城」の築城に際して、真田昌幸・信幸・信繁(幸村)父子がそれぞれ、堀普請等のために人夫や用材などの負担を命じられている。
昌幸・信幸に加えて信繁(幸村)も「左衛門佐」に任じられて秀吉の家臣として遇されていたことが確認できる。

おわりに

豊臣秀吉が晩年に居住した「指月伏見城」、倒壊後の「木幡山伏見城」の築城には、朝鮮に渡海することがなかった諸大名が動員され、真田昌幸・信幸・信繁(幸村)父子もそれぞれ人夫や用材などを負担した。
「指月伏見城」には「淀古城」の天守や「聚楽第」の建築物等が移築され、豪華絢爛の城郭となった。
それを引き継いだ「木幡山伏見城」の建物は、1623(元和9)年の廃城後、天守は「二条城」櫓(やぐら)は「福山城」(広島県福山市)など、また多くの建築物が各所に移築され、現存しているものも多い。

こうした「伏見城」の調査状況、移築建築物の現状などについては次稿でまとめる。

(寄稿)勝武@相模

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