真田信繁(真田幸村)ゆかりの「春日山城」の諸問題~構造(縄張)と調査・整備状況から~

春日山城



春日山城」の構造(縄張)

現在、「春日山城」の遺構は春日山を中心に60万㎡以上の面積に広がり、きわめて大規模なものである。
標高約180mの山頂の「実城」(本丸)を核とする本城地区を中心に、その周囲の4㎞内を固めている砦・番所地区、城内家臣屋敷地区、城外地区からなる。

その構造(縄張)は、「実城」(本丸)から北東に向けて「御屋敷」「右近畑」「老母屋敷」などの広大な郭を配置する。
「黒金門」、「千貫門」などの城門は「春日山城」中、最大の規模を誇る門で、このルートの方が現在、南側の「上越市埋蔵文化財センター」から「柿崎屋敷」に至る大手道よりも門跡も多く複雑である。





城下から「実城」(本丸)への登城ルートは、次の5つが考えられている。
 (1) 林泉寺門前を通り、「黒金門」から「千貫門」に至り「直江門」を通る道
 (2) 林泉寺門前から愛宕谷を登り、「御屋敷郭」の北端部から西に回り「千貫門」に至る細道
 (3)「御大門」から正養寺山へ、尾根を通って大堀切を渡り、「老母屋敷」の南を「千貫門」に至る道
 (4) 中屋敷から但馬谷・対馬谷を経て「三之丸」に登り、「柿崎郭」「景勝屋敷」の南側を通り、「実城」下を東に回り「二之丸」から「実城」に至る道
 (5) 上正善寺から「柿崎郭」の南堀切に入り、以下(4)と同じ道
以上の5ルートであるが、元禄時代の古絵図では、(1)が追手道、(4)が大手道、と記されており、この2つが基本的なルートであったと考えられる。

本城地区の構造(縄張)

「春日山城」の中核は本城地区であり、標高182mの春日山の尾根の北先端に位置する「実城」(本丸)を中心に、複数の広大な郭が階段状に配置されている。以下、本城地区の構造(縄張)についてまとめる。

「実城」(本丸)は南北51m、東西17m~20mの方形を呈し、次の2区画に分かれる。
「御天上」と呼ばれている北側の東西24m×南北36mの方形の区画と、南西側の空堀を隔てた17m×15mのほぼ正方形の区画である。後者は「櫓台」と呼ばれ、天守に相当する櫓が設けられていたと考えられている。
「御天上」の西側には35m×19mほどの井戸郭があり、その中心には現在も径6mの大井戸が存在する。





北東側には「護摩堂」・「諏訪堂」・「毘沙門堂」・「御花畑」が一直線に続き、「直江門」を経た「直江郭」は上下2段の広大な郭からなる。
そこから堀切・橋台・堀切を経た「千貫門」から南へ下がると、1901(明治34)年に建立された春日山神社に至る。
現在、神社周辺は50m四方の郭を中心に複数の郭が存在するが、神社建立前は大きな郭が2段存在したという。
この一帯の郭については、『頸城郡誌稿』に上杉謙信・景勝、堀久太郎屋敷とあり、現在も「老母屋敷」と呼ばれていることから歴代城主の居館があった場所と考えられる。

春日山神社の北側下方には「黒金門」を経て、「御屋敷」・「右近」などと呼ばれる広大な郭群が階段状にある。
ちなみに「黒金門」に通じる通路は、その途中にカギ型や直角に曲がるなど、防御のための工夫がみられる。

「実城」の西側は、井戸郭の西側の「景勝屋敷郭」が西から北西方向に階段状に郭を配置し、城壁の高さが不足する西側は堀と土塁を設けるなどの工夫がみられる。
さらに「景勝屋敷郭」より10mほど低いところに「柿崎郭」が位置し、「三ノ丸」
及び「山里郭」」との間に本城地区では最大級の空堀と土塁でもって固めている。

「春日山城」をめぐる諸問題

「春日山城」は春日山の山頂尾根の北先端に位置する「実城」(本丸)の周辺に多くの郭を階段状に配し、全山にわたり城郭化した大規模な山城である。
また、近接する東城・長池山・正養寺山・愛宕山・権現堂などには砦や番所を置いて四方の防備を固め、山の裾野には堀氏の時代に造られたと考えられる、延長1.2kmに及ぶ「惣構」も巡る。

しかしながら、文献史料や絵図類、遺構の表面観察などからは、各遺構が造られた時期を明らかにできず、遺構の変遷を追うことは困難である。
それを補うのが考古学であるが、「総構」の一部を除き、ほとんど発掘調査は実施されておらず、
現時点では「春日山城」全体の1%に過ぎないという。

数少ない発掘調査に基づく整備・復元例として、1996(平成8)年に城の北東端、楼門があったとされる周辺が「春日山城史跡広場」として整備された。
ガイダンス施設「春日山城跡ものがたり館」も併設され、1.2kmにもおよぶ「監物堀」や土塁、東城砦の番小屋などが復元されているが、これらは上杉謙信・景勝の時期ではなく、「監物」という名が示すように堀氏時代のものである。

2002(平成14)年には大手道入口に「上越市埋蔵文化財センター」がオープンし、「春日山城」で出土した遺物を展示しているがきわめて少ない。
前述したように、発掘調査が「春日山城」全体の1%しかおこなわれておらず、出土品もきわめてされていないためであろう。





「春日山城」は1935(昭和10)年8月に国の史跡に指定されており、中世から近世へかけての築城法の移り変わりを探究することのできる、全国でも屈指の貴重な城跡である。
文献資料や絵図類をもとにした研究成果は蓄積されているので、今後、計画的・継続的に発掘調査を実施してその成果を蓄積し、文献史学・考古学など学際的な研究成果を踏まえた整備・復元が進展することを期待したい。
なお、本稿の前編・中編は以下を参照願いたい。

真田信繁(幸村)が人質・家臣として過ごした「春日山城」~人質の経緯と「春日山城」の概要~

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