「伏見城」の遺構~発掘調査状況と移築建造物の現状から~

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はじめに

豊臣秀吉が晩年の城郭である「伏見城」(「指月伏見城」と倒壊後の「木幡山伏見城」)の築城には、真田昌幸・信幸・信繁(幸村)父子もそれぞれ人夫や用材などを負担するなど築城に関わった。
その経緯については豊臣秀吉晩年の城・「伏見城」~築城経緯と真田父子が果たした役割~にまとめた。

本稿では「伏見城」の構造について整理し、城下町も含めた発掘調査状況や整備の状況、そして各地にのこる「伏見城」ゆかりの移築建造物について紹介する。

「伏見城」の構造

「指月伏見城」の縄張りは文書・絵図類が無く定かではないが、「木幡山伏見城」については「伏見城縄張図」(内閣文庫蔵)などから標高約105mの木幡山丘陵一帯に次のような構造をしていたことが分かる。
「本丸」は東西約200m、南北約300mの長方形を呈し、その西側に二の丸、北東側に「松の丸」、東側には「名護屋丸」、南側には「増田丸」を配している。
北側は堀を隔てて、北東から南西にかけて「弾正丸」・「大蔵丸」・「徳善丸」などの郭(くるわ)群が続く。
「二の丸」の南西側には「三の丸」、そこから北西側には「治部少丸」を配し、その南側に「大手門」が配されている。
また、南東端には「山里丸」・「御茶山」など、自然の景観を生かした学問所や茶亭が築かれた。




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これらの郭のうち、「本丸」の中央北に天守があり、「二の丸」には側室「淀殿」(浅井長政とお市の娘)、「松の丸」には側室「松の丸殿」(京極高次の姉か妹)、「三の丸」には側室「三の丸殿」(織田信長の娘)の御殿があったとされる。
また「増田丸」には増田長盛、「弾正丸」には浅野長政、「大蔵丸」には長束正家、「徳善丸」には前田玄以、そして「治部少丸」には石田三成と、豊臣政権の五奉行の屋敷があったことが、郭の名に官位名などを付していることから推察される。

「伏見城」の城下町の整備は1594(文禄3)年から急速に進み、徳川家康をはじめ全国各地の諸大名の武家屋敷や、寺社・町家・道路などが整然と区画された。

「伏見城」・城下町の発掘調査成果

最近の成果としては、2019(令和元)年9月、伏見区の<① 桃山町泰長老>の公務員宿舎敷地内で行われた発掘調査で、初期の「伏見城(指月伏見城)」の本丸を囲う幅30m以上の内堀跡が確認され、豊臣秀吉が多用した金箔瓦も出土したことがある。

現在、城下町を中心に発掘調査が進められており、武家屋敷の石垣や建物跡、門跡、町家街での町家跡やそれ に伴う道路跡などの遺構、金箔瓦や茶陶類など、往時を偲ばせる遺物も数多く出土している。
主な発掘調査の地区とその成果は以下のとおりである。
<② 鍋島町>
国道24号線と立売通交差点南東角の調査で、北側と西側に面を揃えた石垣が発見され、出土遺物の年代や石垣の位置などから、秀吉が最初に伏見に造営した「指月伏見城」のものと考えられている。
<② 桃山町永井久太郎>
伊達街道の路面・側溝犬行と街道に面した 武家屋敷の礎石列が発見され、少なくとも2回あった火災後の整地層から焼土や炭とともに、整理箱1箱分の焼けて黒くなった炊米(すいまい)が出土した。
<④ 福島太夫西町>
大和街道の東側溝の石組溝と、それに 沿った門跡・石垣基礎跡が発見されており、佐竹氏の家紋である五本骨扇に月丸紋の軒丸瓦が多数出土したいることから、佐竹修理大夫の屋敷地と推定されている。
<⑤ 桃山筑前台町>
住宅建設工事に伴う調査で、大量の瓦類と石垣が発見され、瓦類には多くの金箔瓦や大型の鬼瓦や飾あり、石垣は南北方向に続き、出土瓦や絵図から前田利家邸と松平八右衛門邸の南北境界付近と考えられている。
<⑥ 桃山町伊賀>
大名屋敷の一画にあたり、京都橘中学校・高等学校の新築工事に伴う発掘調査で、2時期に及ぶ遺構が確認された。
そのうち、古い時期のものは堀状の遺構から金箔瓦や巨大な鬼瓦・鬼板が出土し、付近に重要な建物があったこと、新しい時期のものは堀が縮小されて建物が造られていることが判明している。




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<⑦ 桃山紅雪町>
区画整理地の造成工事中に緊急調査を行なった結果、城の東側に位置する武家屋敷のものと考えられる石垣が発見され、その一 部は桃山東小学校に移築保存されて市の史跡に指定されている。
<⑧ 鷹匠町>
伏見区役所建て替え工事に伴う発掘調査で、城下町の街区・街路が整備された時期と廃城後に市街地が拡大・充実した時期の遺構・遺物が多数、発見されている。
<⑨ 桃山町立売通>
JR桃山駅南のデイサービスセンターの建設に伴う発掘調査で、数回にわたり修復された路面の跡や、轍(わだち)とみられる窪み、15 間(約30m)の奥ゆきを持つ町家の跡など発見された。

「伏見城」の移築建造物

1623(元和9)年に「木幡山伏見城」が廃城となった際、例えば天守は「二条城」の天守へ、本丸御殿は「大坂城」の仮御殿として再利用されるなど、全国各地の城郭などに移築された。
中でも「福山城」(広島県福山市)には櫓(やぐら)、城門、殿舎、湯殿、多聞櫓、築地塀、土塀などの多くの施設が移築されたことが知られている。

京都市内の寺社の中にも「伏見城」の建造物が移築されたと伝えられているものが多く存在しており、以下、その主な寺社や「伏見城」とのゆかりなどを整理する。

【① 御香宮(ごこうのみや)神社】 伏見区桃山御香宮門前町
1594(文禄3)年に秀吉が「伏見城」を築城する際に一時的に現在地から大亀谷(現、伏見区深草大亀谷)に移して「伏見城」の鬼門の守護神とされ、1605(慶長10)年に現在地へ戻された神社である。
その表門が秀吉時代の「伏見城」の大手門と伝えられており、1622(元和8)年に寄進されて、現在、重要文化財に指定されている。
【② 豊国(とよくに)神社】 東山区正面通本町東入茶屋町
1598(慶長3)年、秀吉の遺体が東山の阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)山頂に葬られた翌年に社殿が山麓に創建された神社で、唐門が「伏見城」の遺構と伝えられており、現在、国宝に指定されている。
【③ 高台寺】 東山区下河原通八坂鳥居前下る下河原町
1605(慶長10)年に秀吉の夫人である北政所(高台院)が秀吉の菩提を弔うために徳川家康の援助を受けて創建した寺院で、表門や観月台、茶室の時雨亭(しぐれてい)・傘亭(からかさてい)が「伏見城」の遺構と伝えられている。
【④ 金地(こんち)院】 左京区南禅寺福地町
応永年間(1394~1428年)に足利義持の帰依をうけた大業徳基が洛北鷹峯に創建、1605(慶長10)年頃に南禅寺の以心崇伝(いしんすうでん)が現在地に移転した南禅寺塔頭の一つで、その方丈が「伏見城」の旧殿を移築したと伝えられ、現在、重要文化財に指定されている。
【⑤ 養源院】 東山区大和大路通七条下る三十三間堂廻り町
浄土真宗遣迎院派の寺院で、1594(文禄3)年に淀君が父・浅井長政の菩提を弔うため創建するが、1619(元和5)年に火災で焼失した。
その2年後、淀君の妹で徳川秀忠夫人である崇源院が「伏見城」の建物を移して再建し、その後、将軍家の位牌所、皇室の祈願所となった。
本堂正面と左右の廊下に張りめぐらされた天井は、1600(慶長5)の関ヶ原の戦いの時の「伏見城」落城の際に鳥居元忠らが自刃した廊下の板を用いたと伝えられ、「血天井(ちてんじょう)」と呼ばれている。




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なお、「伏見城」の建物が移築された際、鳥居元忠らが自刃した廊下の板を用いた「血天井」の伝承を持つ寺院には【⑥ 正伝寺】(北区西賀茂鎮守庵町)、【⑦ 源光庵】(北区鷹峯北鷹峯町)」が知られている。

おわりに

豊臣秀吉の晩年の居城である「伏見城」は、1592(文禄元)年8月から「指月伏見城」として築城が始まり、1596(慶長元)年閏7月の慶長伏見地震で倒壊した後は、新たに「木幡山伏見城」として再建された。
真田昌幸・信幸・信繁(幸村)も、他の諸大名とともに、人夫や用材などを負担するなど築城に関わり、壮大で複雑な構造(縄張り)を持ち、金箔瓦が施された天守・殿舎など豪華な建造物が配され、城下町も整備された。
秀吉の没後は徳川家康の持ち城となり、1600(慶長5)年の関ヶ原合戦の前哨戦で落城したが、1602(慶長7)年には再建され、1623(元和9)年に廃城となった。

「伏見城」と城下町では発掘調査も進められており、「指月伏見城」の内堀跡や武家屋敷・町家に伴う遺構・遺物が発見されるなど多くの成果を上げている。
真田昌幸・信幸・信繁(幸村)の伏見屋敷の場所は明らかでないが、今後の発掘調査の進展に期待したい。

また、「伏見城」から移築されたと伝わる建造物は、京都市内をはじめ全国各地に残されており、将来にわたり修築など保存・整備が行われることを期待したい。

(寄稿)勝武@相模

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