小野お通【小野於通、小野通】戦国時代に名を残す謎多き京の才女
小野お通とは大阪夏の陣の際、江戸藩邸にいた真田信之は、真田幸村(真田信繁)が討死したとの報を受ける。その後、真田信之が沼田城に戻った際、鈴木忠重(鈴木右近忠重)が京都の小野のお通から預かったとされる。真田幸村(真田信繁)の遺髪を、沼田に届け...
小野お通とは大阪夏の陣の際、江戸藩邸にいた真田信之は、真田幸村(真田信繁)が討死したとの報を受ける。その後、真田信之が沼田城に戻った際、鈴木忠重(鈴木右近忠重)が京都の小野のお通から預かったとされる。真田幸村(真田信繁)の遺髪を、沼田に届け...
稲姫(いなひめ)/小松姫(こまつひめ)は1573年に誕生。小松殿とも本多於稲とも呼ばれる。 父は、徳川家康の家臣・本多忠勝で、その長女(第1子)として生まれた。 母は側室・乙女の方(松下弥一娘・月量院)。 幼名は稲姫(いなひめ)、または於...
武田勝頼が頼った山城岩殿山城(いわどのやまじょう)は、山梨県大月市の標高約634mの岩殿山に築かれた山城で、登城口までは中央本線・大月駅から徒歩で約15分である。岩殿山は相模川水系の桂川と葛野川とが合流する地点の西側に位置し、南面は西から東...
高野山にある「蓮華定院」は真田昌幸と真田幸村が最初に高野山に幽閉された際に蟄居した真田家ゆかりの寺院です。蓮華定院(れんげじょういん)は、室町時代の1523年に長野の小県・佐久地方の豪族と宿坊契約が結ばれたと言う記録があります。その縁で海野...
真田幸隆とは真田幸隆(さなだゆきたか)は、戦国時代に武田家の重臣となった武将。信濃小県郡(長野県東御市)の豪族・滋野一族の本家筋となる海野棟綱(海野信濃守棟綱)の子(諸説あり)として、永正十年(1513年)に生まれた。そして、山家郷真田(長...
真田昌幸とは真田昌幸(さなだ-まさゆき)は、戦国時代の1547年に真田幸隆の3男として生まれた。幼名は真田源五郎。母は河原隆正の妹・恭雲院(または阿続方)。この1547年頃は、父・真田幸隆が、甲斐の武田晴信(のちの武田信玄)の軍門に加わって...
真田幸綱(幸隆)・信綱の屋敷跡躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)は、甲斐国古府中(山梨県甲府市)にあった甲斐国守護・武田氏の居館で、武田信玄らの領国経営における中心地であった。現在、館跡地には武田神社があり、「武田氏館跡」として国の史跡に指定...
深沢城とは深沢城(静岡県御殿場市)は馬伏(まぶせ)川と抜(ぬけ)川とが合流する地点、若干の起伏をともなう平地部に位置する。周囲の地形は城を築く場所としては相応しくなさそうだが、足柄地方や甲州から駿東方面へ入る交通の要衝であった。深沢城は15...
はじめに真田信繁(幸村)の遺児である阿梅は、大坂の陣ののち伊達政宗の重臣・片倉小十郎の側室となり、その弟の真田大助も伊達家の家臣となった。片倉家が代々城主を務めた白石城は謎の城と言われるほど、築城主や築城時期、二階櫓から三階櫓への改築の有無...
はじめに真田信繁(真田幸村)の遺児である阿梅や真田大八(片倉守信)が過ごした白石城は、明治維新を機に廃城となった。現在は1992年(平成4年)からの復元工事により、天守の代わりをつとめた三階櫓などが復元されている。築城から廃城まで主なものだ...