稲姫・小松姫とは~良妻賢母・小松姫の素顔に迫ってみたまとめ

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 稲姫(いなひめ)/小松姫(こまつひめ)は1573年に誕生。小松殿とも本多於稲とも呼ばれる。
 父は、徳川家康の家臣・本多忠勝で、その長女(第1子)として生まれた。
 母は側室・乙女の方(松下弥一娘・月量院)。
 幼名は稲姫(いなひめ)、または於小亥(おねい)とも称されている。

 妹に、もり姫(奥平家昌室)、弟に本多忠政、本多忠朝らがいる。

 1584年7月、武田滅亡後に独自勢力として上田城を本拠とした真田昌幸を討つために、徳川家康は8月に真田討伐を開始し、徳川勢は上田城を攻撃した。

 徳川勢7000に対して、真田勢は1200と劣勢であったが、見事に僅かな手勢で徳川勢を撃退した。

 その大将は真田昌幸で、子に真田信幸(真田信之)、真田幸村と言う「真田家」の名は天下に轟き、父に劣らず、巧妙な戦術を駆使した真田信幸も、将来を有望視される。

 その後、豊臣秀吉の仲介で、真田家は徳川家康とも和睦すると徳川の与力大名となった。
 
 上田城の戦いにて、真田の軍略に惚れ、また恐れたいた本多忠勝は、真田家を徳川家に取り込もうと、徳川家康に本多忠勝の娘・小松姫と婚姻させることを提案する。

 徳川家康も、和睦の際に面会した真田信幸の器量を感じており、家臣にしておきたいと思っていた事から、小松姫を徳川家康の養女にして、真田家へ嫁がせた。

 なお、小松姫と真田信幸(真田信之)の孫である松代藩3代藩主・真田幸道が江戸幕府に提出した由緒書では、小松姫は「台徳院(徳川秀忠)」の養女と記されている。

 徳川家康は、駿府城に真田信幸を出仕させて小松姫と結婚させたが、その年代は1586年、1589年、1590年と諸説ある。



小松姫とは

 小松姫は、勇敢な父・本多忠勝に似て武家の女性として気性も非の打ち所がなく、また容姿端麗であったようで、武家の美女と呼ぶにまさしく、秀でた女性であったようだ。
 1586年に嫁いだとしたら、小松姫は14歳。1589年説だと小松姫は17歳、真田信幸は24歳となる。

 本当かどうかはわからないが、徳川家康が小松姫の婿候補をズラリ並ばせて「選ぶが良い」と言うと、小松姫は婿候補の若者の1人1人のマゲを掴んで、顔を覗き込んだと言う。
 皆、家康と忠勝の威厳を恐れて、黙ってじっとしていたが、真田信幸だけが「御免」と言い放ち、失礼な事をする小松姫の手を鉄扇で払いのけたため、小松姫が気に入った?と言う逸話もある。

 徳川家康のことが大嫌いだった真田昌幸も、婚儀の前は小松姫の事も快く思っていなかったと言う。
 しかし、真田信幸の「徳川と縁を持つのは悪いことではありません」と言う言葉もあり、承諾した。
 そして婚礼の際に並んだ夫婦は、すでに似合っており、周囲もうらやんだと言われる。
 その後、嫁入りした小松姫を見ると、真田昌幸は小松姫をたいそう気に入って「信幸(真田信之)には過ぎたる嫁じゃ」と言ったと伝わる。
 しかしながら、既に真田信幸には正室がいたので、その正室を側室にしてまでの婚礼であった。

 1590年、豊臣秀吉の小田原攻めにて、真田信幸は松井田城攻めで戦功をあげ、成田長親が籠城した忍城攻めにも、石田三成勢の援軍として加わり活躍した。
 その後、徳川家康が江戸城に入ると、沼田領は真田家の所領として確定し、真田信幸が沼田城主となった。

 その後、朝鮮にも出兵した真田信幸の留守は小松姫が守り、真田信幸も安心して任せられると、憂うことがなかったようだ。

 1600年、石田三成が挙兵すると、下野・犬伏の陣にて真田昌幸、真田信幸、真田信繁(真田幸村)の3人は、今後の方針を話し合った。

 真田昌幸の妻・山手殿羽柴秀長の家臣で13000石だった宇多頼忠の娘。
 その宇多頼忠のもう1人の娘が石田三成の正室になっており、山手殿自身、大阪で石田三成の人質になったとも考えらた。
 一方、真田信幸は本多忠勝の娘(徳川家康の養女)である小松姫が正室であり、徳川家康を裏切る事はできない。

 このような苦しい状況にして、真田昌幸と真田幸村と石田三成につくことを決め上田城に帰参。
 小松姫の夫・真田信幸はそのまま徳川勢として小山に進み、徳川秀忠に従った。
 徳川家康はこれを喜び、即日、真田信幸を賞して、離反した真田昌幸の所領に関しても、真田信幸に安堵させている。

 このとき、真田昌幸と真田幸村は今生の別れと、上田城に戻る際、沼田城に寄って孫(真田信幸の子)の顔を見ようとした。
 
 1600年7月25日夜半に沼田城に使者を出して入城を申し入れたが、城を守る小松殿は自ら武装して出迎えて

「例え義父であっても今は敵味方の間柄。主人の留守を預かる者として城の中には入れられませぬ」

 と沼田城への入城を拒否したと伝わる。

 沼田城の石垣

 真田昌幸は、うまくいけば沼田城も占拠してしまおうと考えていたとも言われるが

「さすがは本多忠勝の娘だ。武士の妻女たる者、ああでなければならん」

 と、沼田城に入るのを諦めて、近くの正覚寺に宿泊した。

 翌日、その寺を小松姫が子供を連れて訪ねると、護衛という名目で連れてきた兵たちに周囲を見張らせて、祖父と孫の最後の対面を果たしたと言う。

 関ヶ原の戦いで徳川家康に味方したで小松姫の夫・真田信之は、真田昌幸の旧領・沼田30000石を約束通り加増されて95000石として上田藩主となった。

 上田城

 しかし、徳川に因縁深い上田城は破却を命じらて、その後、沼田城を本拠としている。
 この真田信幸(真田信之)の子孫は、のち松代城(海津城)に入って松代藩として明治まで続くこととなった。

 真田信之は、死罪処分になった真田昌幸・真田幸村らの助命を嘆願する一方、西軍に付いた父との決別を表す為に、名を真田信幸から真田信之に改めた。
 小松姫の実父・本多忠勝の助命嘆願も重なり、真田昌幸と真田幸村は命は助けられて、紀伊・九度山へ流罪となった。

 九度山に謹慎された義父・真田昌幸と義弟・真田信繁(真田幸村)に、小松姫は自費から仕送りをした一方、真田家なおいては倹約に努め、献身的に夫を支えたと言う。

 こういった逸話などから、小松姫は戦国時代における「女傑」の一人に数えられ、良妻賢母としても誉れ高い女性である。

 晩年は、病にかかり、1626年な江戸の藩邸から草津温泉へ湯治に向かう途中、2月24日に武蔵国の鴻巣で亡くなった。

 夫・真田信之は「我が家から光が消えた」と大いに落胆したと言われ 生涯に渡り婦仲は極めて良好であったようだ。

 戒名は大蓮院殿英誉皓月大禅定尼。
 墓は鴻巣市勝願寺、沼田市正覚寺、上田市芳泉寺に分骨となっている。
 → 上田の小松姫の墓
 → 沼田の小松姫の墓
 → 鴻巣の小松姫の墓

 また、真田氏の松代藩(長野県長野市松代町松代)の大英寺に霊廟がある。
 上田城内には小松姫が用いたとされる「駕籠」が現存している。

 →小松姫と真田信之の詳細版
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