真田信之【真田信幸】とは?詳細版で詳しくわかる吉光のお長持


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真田信之(さなだ-のぶゆき)は、武藤喜兵衛(真田昌幸)の嫡男として1566年に生まれた。幼名は源三郎。
母は山手殿

父・武藤喜兵衛は、真田幸隆の3男であったことから、武藤三郎左衛門尉の養子となっており、騎馬15騎、足軽30人を率いる足軽大将として、武田信玄の奥近習衆を務めていた。

1567年に弟・真田幸村が誕生しており、真田信幸(真田信之)は1歳年上の兄と言う事になる。
また、1歳年上の姉に村松殿がいる。

真田信幸と真田幸村(真田信繁)は、2人とも武田家の人質として、母・山手殿と共に甲府の躑躅ヶ崎館にて暮らしたものと推測できる。

父・武藤喜兵衛(真田昌幸)は1569年の三増峠の戦いや、1572年10月からの武田信玄の西上作戦にも参加。

武田信玄が1573年に亡くなり、あとを追うように1574年には真田幸隆が亡くなり、真田家の家督は、父の長兄・真田信綱が継いだ。
しかし、1575年5月21日、長篠の戦いにて武田勝頼徳川家康織田信長の連合軍に大敗し、この時、父の2人の兄・真田信綱と真田昌輝が討死する。

高坂昌信の支援もあり、武田勝頼の命により、武藤家に入っていた武藤喜兵衛が真田本家を継ぐ事となり、真田昌幸と改名した。
この時、真田信幸(真田源三郎)と真田幸村(弁丸)は、この頃の真田の本拠地である岩櫃城に移ったと考えられる。

1579年11月16日、武田勝頼の嫡男・武田信勝が元服した際に、真田源三郎も同時に元服を許されたようで、真田信幸と称し、父の家臣らからは「若殿様」と呼ばれた。
その後、父・真田昌幸と共に沼田城攻略などに参加し、北条氏邦らと戦ったと考えられる。

高天神城へ後詰せず見捨てた武田勝頼の信望は失墜し、1582年2月、織田信長の甲斐侵攻が始まり、織田信忠・河尻秀隆や徳川家康が攻め込んでくると、木曽義昌や穴山信君は武田勝頼を裏切る。
そして、高遠城主の仁科盛信(仁科信盛)も壮絶な戦いのあと自刃し、高遠城が落城。

新府城から真田昌幸の岩櫃城へ逃れると決した為、真田昌幸・真田信幸(20歳)らは岩櫃城へ行き、迎え入れる準備をしたが、武田勝頼は小山田信茂岩殿山城を目指してしまう。
結果的に、小山田信茂にも裏切られて、天目山の戦いで武田家は滅亡した。

この時、真田昌幸らは上野の箕輪城に入った織田家の滝川一益に臣従し、上野国吾妻郡・利根郡、信濃国小県郡の所領を安堵された。
しかし、その3ヶ月後に、明智光秀による本能寺の変で、織田信長が横死。

北条氏直上杉景勝が、空白地帯となった信濃・甲斐に侵攻して天正壬午の乱となり、否応でも真田家もその勢力争いに巻き込まれる事となった。
真田信幸は川中島で上杉家の支配下となっていた海津城を何度も撹乱し、依田信蕃、叔父の真田信尹らの誘いを受けて真田昌幸が徳川家に寝返ると沼田城を奪還。
17歳の真田信幸も800騎を率いて、唐沢玄蕃鎌原幸重らと、北条勢の富永主膳ら5000が守備する手子丸城を僅か1日で陥落させている。

詳しくは天正壬午の乱をご覧願います

なお、この年に甲斐武田家の重臣だった小山田虎満の子・小山田茂誠に、姉・村松殿が嫁ぎ、小山田茂誠が真田信幸(真田信之)の家老に加わっている。

このように真田昌幸は、北条氏直に臣従したあと、徳川家康に寝返ったが、更に上杉景勝を頼ると言う生き残り術を取り、この時、上杉家の人質に、弟・真田幸村が春日山城へと送られている。

父・真田昌幸は上田城の築城を開始し、1585年、徳川家との第一次上田城の戦いでは、真田信幸は300を率いて砥石城(戸石城)に布陣し、勝利に貢献した。

上杉景勝がいち早く豊臣秀吉に臣従したことで、自動的に真田家も豊臣家の傘下となり、1589年に徳川家康と豊臣秀吉が和睦すると、豊臣秀吉の命にて真田家は徳川家の与力となった。
この時、徳川家康は本多忠勝の娘・小松姫(16歳)を養女とし、真田信幸を駿府城に呼ぶと婚約させて、真田信幸(24歳)は正室に迎えた。

長篠の戦いで戦死した真田信綱の娘(清音院)を真田信幸は既に正室に迎えていたが、小松姫を迎えた際に、その娘(清音院)を側室に格下げしたようだ。
その真田信綱の娘が産んだ真田信吉が、真田信幸の嫡男であり、1615年に真田信幸(真田信之)が沼田城から上田城に移された際に、この真田信吉が沼田城主3万石となっている。
なお、側室は他に右京の局(玉川秀政の娘)がいる。

名胡桃城奪取事件を機に、1590年、豊臣秀吉が小田原攻めを開始すると、真田昌幸・真田信幸・真田幸村らは、前田利家を総大将とする北国軍に加わり、前田慶次直江兼続らと碓氷峠を越えて関東に侵入。特に前田慶次(前田利益)とは懇意の仲になったと言う。
大道寺政繁が守備する松井田城攻めにて、真田信幸は戦功を挙げた。
その後、八王子城攻め、石田三成忍城水攻めにと転戦し、戦後、父・真田昌幸が上田城主となり、真田信幸は沼田城主として小松姫と共に入った。

朝鮮出兵の際には、肥前の名護屋城で守備し、石田三成や徳川家康と真田家との連絡役も務めた。
1597年頃、沼田城に5層天守や3層櫓などを建設したようで、当時の関東では江戸城に次ぐ天守を持つ城郭となった。

石田三成が挙兵した際には、父・真田昌幸、真田幸村と共に、上田城から徳川家康に合流するべく小山方面に出陣した。
しかし、石田三成挙兵の報を受けると、犬伏の別れにて親子は敵同士となる決断をし、真田信幸はそのまま小山評定にて徳川家康の東軍に味方することを表明した。
真田昌幸と真田幸村は西軍につくため、上田城へ戻る途中、沼田城に寄ったため、小松姫との逸話も残る。

中山道を進むことになった徳川秀忠の軍勢に加わった真田信幸は、上田城に籠城する真田昌幸と敵対する。
この時、真田信幸は、地勢に詳しい砥石城にて籠城していた真田幸村を攻略するように命を受けて、砥石城へ迫ったが、真田幸村との交渉で砥石城は開城となったため、そのまま砥石城に入城して守備する。
これにより、真田信幸は父の真田兵と戦わずに済んだが、関ヶ原に遅参することになった徳川秀忠は、真田家嫌いになったと言われる。

関ヶ原の戦いのあとの論功行賞で、真田信幸は3万石の加増を受けて、上田藩主9万5000石となったが、2度も徳川勢を撃退した上田城の大幅な破却を命じられたため、沼田城を本拠地とした。
また、西軍についた父と弟の助命嘆願を、小松姫の父・本多忠勝と共に行い、この時、名を信幸から信之に改めて、父との決別を表している。

母・山手殿は上田に留まったため、真田信之が世話をし、山手殿は1601年頃から大輪寺に入っている。
また、小松姫は、自費で九度山の父や弟への支援を行った。

父・真田昌幸が流罪先の九度山で死去した際には、葬儀を願い出たが徳川幕府から許しは出なかった。
1613年には母・山手殿が死去。
その頃から、真田信之は大きく体調を崩しており、1614年の大阪の陣に出陣ができず、豊臣秀頼への内通を疑われたが、長男・真田信吉と次男・真田信政が代わりに出陣した。

外様大名である真田信之が関東にいるのは、徳川幕府にとっては大きな懸念事項であり、1616年に本拠地を上田城に移すように命じられた。

江戸の藩邸にいた小松姫は病気になり、1620年に草津温泉に湯治に向かう途中に死去した。享年48。
真田信之(52歳)は「我が家から光が消えた」と大変嘆いたと伝わる。
なお、真田信之には「小野お通」と言う女性が京都にいたようで、小松姫が亡くなる前に「そろそろ京の人を迎えてみてはどうですか?」と提案したとも言う。

真田信之を理解していた徳川家康が存命のうちは良かったが、真田に恨みをもつ徳川秀忠は、1622年に更に、上田城から松代城への移封を命じる。
不服にも先祖代々の地を去る事となる左遷であり、真田信之は藩政に関する書類全てを焼き払い、上田城の灯篭や植木さえも持って行ったとされる。
また、倹約に努めた小松姫らが蓄えた20万両と共に松代へ入ったと言うが、加増はされたので13万石となった。

体調も戻ると、当時としては珍しい93歳という長寿(現役最高齢大名)となっている。
しかし、跡取りの真田信政が60歳を越えているのに、徳川家光は「伊豆守は天下の飾りである」と言い再三の隠居願いをなかなか許さなかった。
1656年、91歳の時にようやく隠居の許可が出て、小松姫が産んだ次男・真田信政が家督を継いだが、1658年に真田信政は先立った。享年62。
その為、まだ幼い3代藩主・真田幸道を後見している。

晩年の頃には、戦国時代を戦い抜いた武将は、大変貴重な存在であり、徳川頼宣が自邸に招いて話を聞くなど、江戸幕府の中でも一目置かれる存在になっていた。

1658年10月17日に松代城外にある柴村の隠居所で死去。享年93。

辞世の句は「何事も、移ればかわる世の中を、夢なりけりと、思いざりけり」とされる。
また、着用していた着物や胴丸などから、身長は6尺1寸(約185cm)だったと推測され、かなりの長身だったようである。

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吉光のお長持

真田家には常に4人が不寝番(寝ずに24時間番)をして警護した「吉光のお長持」(吉光御長持)と言う、家老でさえ中身を見たことがない秘蔵品があった。
この中には、関ヶ原の戦いの際、真田信之の子・真田信政を徳川家康の人質として差しだした時の忠義を賞して、真田信政に与えた「吉光の短刀」が収められているとされていた。

明治になって、箱を開けてみると短刀と共に、真田幸隆以来の重要書類など多数の書簡が見つかったと言う。
また、関ヶ原に関する書状もあり、1つの書状は、1600年7月17日付で長束正家増田長盛前田玄以から、犬伏の真田昌幸の陣に届いたもので、追って29日付の書簡が3通あった。
1通は先の長束正家・増田長盛・前田玄以ら3名からのもので、1通は宇喜多秀家から、もう1通は毛利輝元からである。

これらの内容は、いずれも諸将の妻子などを人質として取り置いた事と、太閤秀吉の恩を忘れていなければ、豊臣秀頼への忠節を示すようにという内容だったと言う。

その後、真田昌幸・真田幸村は石田三成に味方すると決めるが、どうも、その事はハッキリと西軍には伝えていなかったようである。
恐らくは、どの程度の挙兵なのか、どの程度西軍につく諸将がいるのかまだよくわからなかったので、情報収集することにしたと考えられる。
更に、石田三成に対して、事前の相談なく挙兵したことを非難しているような節の返書が、7月21日に犬伏の陣から出している。
ちなみに、徳川家康が最初に石田三成挙兵を知ったのは7月19日であったが、そのまま7月21日に江戸城を発ち、伏見城が攻撃された事が7月24日に分かり、小山評定は7月25日とされている。
この返書を石田三成が見たのは7月27日とされ、石田三成は7月30日に言い訳めいた書状を、真田昌幸に送っている。
同じ7月30日、大谷吉継から真田昌幸・真田幸村宛てに、真田幸村の妻子は自分が預かっているので心配する必要が無い事と、豊臣秀頼のために尽力して欲しいと訴えた書状が出された。
これらの返書を受けて、おそらく真田昌幸と真田幸村は、正式に決断したものと推測される。

8月5日付の、石田三成から真田昌幸・真田信幸・真田幸村の3名連名の宛名の書状では、大坂や伏見での戦況を報告し、会津の上杉景勝へ連絡もしてほしいと仲介を依頼されている。
また、信濃のうち小諸・深志(松本)・川中島・諏訪を与えるとの約束も記載されていたが、以降における書状は無かった。

第2次上田城の戦いは9月6日から3日間で、関ヶ原の戦いは9月15日となっている。

このように、もし徳川家に知られたら、取り潰しになってもおかしくない書状をずっと保管していたのを考えると、真田信之は関ヶ原では徳川家に味方したが、本当は父と共に戦いたかったのでは?と感じずにいられない。

真田信之の墓

1656年に家督を譲ったあと、真田信之は千曲川近くの柴村に屋敷を建設開始し、1567年7月に移り住みました。
その隠居所は、遣命により寺となり「真田林大鋒寺」と号して現在に至ります。

大鋒は真田信之の院号です。
3代・真田幸道によって大鋒寺の伽藍が建立されました。
かつて書院があった場所には、真田信之の霊屋があります。
本堂の左脇です。

また、上記の霊屋より更に左手の墓地の中には「大鋒院殿徹厳一当大居士」真田信之の墓もあります。

この場所は、荼毘に付した場所(灰塚)と言う事で、聖地となっています。
なお、真田信之は、死去したあと「神様」となっている関係で、墓所には「鳥居」もあるのが特徴です。

松代城下の長国寺にも、真田信之の墓が松代藩としては正式なものとなりますが、下記・大鋒寺にも真田信之の墓があるのです。

なお、その墓所の右端には、鈴木忠重の墓もあります。
鈴木忠重(鈴木右近忠重)は、真田信之が亡くなった2日後(1568年10月19日)に、自刃して殉死しました。享年84。

その当時、既に殉死が禁止されていましたが、生前より約束していたと言う事で、徳川幕府が特別に許可を出したと言われています。

また、真田幸村の碑も境内にありました。

松代城からはだいぶ離れていますので、大鋒寺まで訪れる方はほとんどいません。
しかし、真田信之が隠居して暮らした場所であり、墓もありますので、欠かせない戦国スポットです。
大鋒寺へのアクセスですが、国道403号の下記の地図ポイント地点から進入してください。バス停のところです。

地図では道が他にもありますが、上記の場所から以外では進入が困難です。
上記の進入経路でも狭い道でして、大きな車ですと曲がるのが困難ですが、境内には駐車スペースがあります。
帰りも入った道で帰らないと、他の道は細すぎて、軽自動車も進めません。
不安な方は、旧・金井山駅の前(柴の交差点から東に入ったところ)に無料の大きな駐車場がありますので、そこから徒歩で5分といったところです。
この無料駐車場に止めた場合には、大鋒寺の裏手にある千曲川の堤防の向こう側(河川敷)にある「山本勘助の墓」もセットでどうぞ。

バスで松代に来られた方は、松代物産館(真田宝物館隣)などで借りられるレンタル自転車(貸自転車)などもご検討下さい。
なお、夏場は「虫除け」あった方が適切です。

もうひとつ、松代・長国寺にある真田家墓所と真田信之の墓は、こちらにて別途ご紹介させて頂きます。

松代・長国寺の真田家墓所は見ておく価値あり
真田幸村(真田信繁)に関してはこちら
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