九度山とはどんなところ 真田庵・真田屋敷

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 九度山は、高野山への入口にあたる北谷にある。
 北側に紀ノ川の流れを望み、高野山の東北を繞って、紀ノ川へと注ぐ丹生川を見下ろす「丘」の中腹に、真田屋敷があった。
 
 上田城にいた際の居館とは比べ物にならないが、大台所のまわりに、家来・小者や侍女たちの部屋があり、その東側には広い板敷きの間を隔たて、四間の一郭が真田幸村夫妻と、子たちが生活する場となったようだ。
 さらに東へ、廊下をへだてて九畳敷の二間があり、ここに、真田昌幸が寝起きしていた。




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なぜ九度山になったのか?

 徳川家康の裁定は「高野山」への蟄居で、当初は高野山に入った真田昌幸と真田幸村は、真田家にゆかりある「蓮華定院」に滞在。
 そのあと、高野山を降りて、九度山に定住することになったのには諸説ある。

 当時の高野山は女人禁制であったため、妻子と別居する事となるために九度山にしたとか、高野山は冬寒いので九度山にしたなどと言われる。
 しかし、小生の考えの場合、一緒に従った家臣の数が多かったからだと推測する。

 真田昌幸だけで16名の家臣が従ったと言う。
 たった16名かと思われるかも知れないが、その家臣を世話する妻子や、はたまた家来・小者・女中も多少は同行したものと考えるので、その数は少なく見積もっても50名となる。
 一説によると、九度山に入った真田家関係は、総勢275人だったとも言う。
 そのため、高野山では家臣らの妻子もいるため、当然、入山できず生活は不便であり、また山の上ですので屋敷を建てるにも土地も限られた為、2人を預かった紀州藩より九度山にて蟄居することが許されたものと考えられる。
 もちろん、紀州藩も勝手な事はできないので、江戸幕府の許可を得たうえでの判断であっただろう。

九度山・真田庵

 池田綱重・原出羽守・小山田治左衛門など、家来の中でも身分が上の家臣らは、九度山の真田屋敷の北面に住居を設けた。
 しかし、低い石垣と板塀によってへだてられているだけであり、お互いの出入りは自由であったようだ。

真田庵

 敷地内には三頭の馬をおさめた馬屋もあり、庫も一棟、納屋も二棟ほどあったと言われている。

 外出もある程度は許されており、監視の目もそんなに厳しい物ではなかったようだ。
 理由としては、ここで謀反でも起こせば、松代藩の真田信之も取潰しになることがわかっていたからだろう。
 その為、真田昌幸も、無茶な事はできずに、ひたすら許されるのを待ったようだ。

 なお、生活費は紀伊藩からの支給金は年50石だけであったため困窮し、国元の真田信之からの仕送りも得て、何とか生活をしたようだ。

九度山

借金と仕送りの催促

 ある日、真田昌幸は、松代藩の真田信之に対して40両を送るよう頼んでいる。
 そして、その半額20両を真田昌親(真田昌幸の4男)が九度山まで届けにやってきたのだが、更に書状を出し「こちらは借金が多く困っている。残りの20両を一日も早く届けて欲しい。出来ないなら5枚でも10枚でもよいから」と催促をしている。
 このように 家臣らの人数も多かった為、常に金は不足し、かなり苦しい生活であったようである。

九度山の真田井戸

真田昌幸の死後

 1611年に真田昌幸が亡くなると「公儀御はばかりの仁」として、正式な葬儀は行わなかった。
 しかし、一周忌が済むと真田昌幸に従っていた家臣の多くは、松代に帰国し真田信之の家臣に加わる道を選択した。

 残った、真田幸村の家臣は高梨内記ら2~3名であったと伝わり、周囲も寂しくなったその後の真田幸村(真田信繁)の生活ぶりは不明な点が多い。

真田昌幸の墓と真田幸村の供養碑

 上記は真田昌幸の墓と、真田幸村の供養碑。

 ※ここまでの写真類はライセンス取得したものを使用致しておりますが、ここより下記の写真類は追加した独自撮影のものとなります。

 と言う事で、九度山へ訪問致しましたので、その際の記録と多数の写真などご参考までに残しておきます。

九度山観光の無料駐車場

 まず、真田庵がある九度山への行き方・アクセスですが、電車の場合、南海電鉄・高野線にて、南海なんば駅から約65分の「九度山駅」を下車して、観光しながらで徒歩約10分といったところです。
 ただし、橋本駅~極楽橋の区間は、単線で電車本数もちょっと少ないので、私の場合には、高野山にも行く関係で時間効率を重視し、レンタカー(カーシェア)で訪れました。
 真田庵には駐車場がありませんし、大通り以外の道は軽自動車向けの狭い道路で走行も大変です。
 下記の地図ポイント地点が、その町営の無料駐車場がある場所となりますので、そこから3分歩いて真田庵に行くと良いです。
 地図は縮尺を変えてご覧願います。

 その町営駐車場は広いのかと思っていたら、駐車台数は僅か約20台ほどです。
 トイレも完備されており、きちんと整備なさっているのですが、雨の平日でも観光には関係がないと思われる仕事に車で来て止めている、ワゴン車・2トントラックなども止まっていて満車でした。
 出て行く車がたまたまいて運よく止められましたが、駐車場が満車の割には、真田庵はすいていて先着は1組様だけでしたので、駐車場利用方法に関しては問題がありそうですね。
 大河ドラマ「真田丸」が放送される2016年は、恐らく混雑すると思いますので、その先にある道の駅「柿の郷くどやま」に車を止めると良いかと存じます。
 道の駅からは直接で真田庵まで徒歩5分となります。

真田庵(善名称院)

 雨天での写真ばかりとなりますが、よろしければご覧ください。

真田庵(善名称院)

 真田庵(善名称院)は、真田昌幸・真田信繁(真田幸村)の九度山屋敷跡に建立されたお寺で、本尊は延命子安地蔵菩薩です。

真田庵(善名称院)

 真田信繁(真田幸村)は、父・真田昌幸の供養のため、森の中に宝篋印塔を建てました。
 下記の真田昌幸の墓などがそうですね。

真田昌幸の墓

 その後、大安上人が九度山ほ訪問した際に、ご本尊がここに善名称院(真田庵)を建てよと現れたとされ、松の木だけを残してお寺を建立したと言います。
 そして、真田一族の宝篋印塔も追加されたそうです。

真田庵(善名称院)

 また真田庵の敷地内には「雷封じの井戸」があります。

雷封じの井戸

 また、境内の中にある「真田宝物資料館」(200円)には、真田家や大安上人に関するものなどが展示されています。
 いくつか写真を載せておきます。

真田宝物資料館

真田宝物資料館

真田宝物資料館

真田宝物資料館

真田地主大権現

 真田昌幸の怒った姿の霊が、たびたび出るようになったため、大安上人が真田昌幸の霊を大権現の神様にして祀ったと言います。
 すると、穏やかな顔になった真田昌幸の霊が現れて、祀ってもらった礼にこの地を守ると約束してくれたとされます。
 それが真田庵(善名称院)の境内にある真田地主大権現です。

真田地主大権現

 その後、稲荷大明神、金比羅大権現、天満宮、住吉大社も、真田庵(善名称院)の境内に加わっています。

真田庵(善名称院)

真田古墳

 九度山の真田庵付近の道路は非常に狭く、昔のままなのでしょう。
 本当に軽自動車専用道路のような感じです。

九度山

 真田庵から東へ170mほど行くと、坂道の途中に真田古墳があります。

真田古墳

 言い伝えでは「この穴の向こうは大坂城に続いていて、かつて真田幸村はこの抜け穴から大阪に向かった」とされています。
 しかし、九度山町の発掘調査によると古墳時代後期(4世紀頃)の古墳と言う事です。

真田古墳

 ただし、真田伝説があると言う事で真田古墳と名付けられました。

対面石

 おまけで「対面石」もご紹介致します。
 対面石は街中にひょっこりあるような感じでして、九度山郵便局から東に20mほどのT字路の角にありました。

対面石

 弘法大師が子供の頃に、毎月九度は和泉の槇尾山に参詣に行ったとされ、ある時、吉野川が増水し渡りかねていると、弁財天が姿を現したとされます。
 そして「和泉の国まで参詣するのは大変だろう、この九度山に遷して参ればいい」と、弘法大師に告げたとされ、そのお告げを聞いた場所が、この対面石の前であったとされています。
 他にも弘法大師のお母様が、はるばる四国からやってきたと言う史実もあることから、この石の前で再会・対面したとも言われています。
 ただ、史跡なのに目の前が「ゴミ収集場所」となっており、ちょっと残念に感じました。




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 以上、九度山の真田幸村関連の観光所要時間は、駐車場に止めてから、もしくは九度山駅からで往復30分~50分といったところです。
 真田幸村が約13年間も過ごした九度山の地を訪問した事で、このような環境のもと、苦労をしながら生活していたのかと、感じずにいられませでした。

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