更科姫 韮山に晩年住んだとされる山中鹿之助の母


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 更科姫は、村上義清の重臣・楽岩寺馬之介の娘。
 文武両道でしかも美人だったと伝わる更科姫は、信州一の女性剣士といわれ「日本女性三傑」とも称された女性だ。

 相木城主・相木昌朝の子とされる相木信房(相木幸雄、相木森之助とも?)と、1534年に村上義清の武芸指南役・井上九郎の仲人により結婚した。
 この相木幸雄は、村上家に預けられた人質だったとも言われている。

 そして、見上城で生まれた男子が、のち尼子家再興で武名を馳せた山中鹿之助だと言う。
 相木森之助は1545年10月に馬場美濃守から名を賜り相木美濃守信房と改名し、遠州・諏訪原城主となった。
 馬場信房の影武者を務めたこともあるとされている。

 なお、江戸時代には「絵本更科草紙」とが発刊され、歌舞伎で更科姫が演じられるまでになった。

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絵本更科草紙と歌舞伎

 その内容としては概ね下記の通りとなる。

 更科姫は相木幸雄(相木森之助)と結婚したが、武田信玄が葛尾城主・村上義清を攻めた際に、相木幸雄は武田勢の捕虜となり馬場信春の家臣に加わるとその軍師となり、相木美濃守信房に改名したと言う。
 その後、1545年に、更科姫は夫を追って、相木の里にたどり着くと、男子を出産した。この子が山中鹿之助だと伝わる。
 そして、2人は再会すると、馬場信春の後任として遠州・諏訪原城主となり赴任したと。
 もっとも、物語では更科姫が美人が故に、牧島大九郎と言う人物が、相木森之助の命を狙ったりするなど、非常に面白く創作されている。

 武田勝頼の代になり、1581年に徳川家康高天神城を陥落させた際に、相木信房(依田信房)は、城外で討死したと言い、城から脱出した更科姫は、富士川沿いに甲斐・韮山に帰国。
 その後、住民らの優しい支援を受けて、館を建てると天満宮を祀り、夫や家臣などの冥福を祈ったとされる。

 平和な江戸では、蕎麦(そば)が大変好まれて、蕎麦屋は3000軒もあったと言います。
 そんな「そば」にちなんだ名として、さらしな(信州更科そば)から「更科姫」と言う名も生まれたものと推測致します。

 その更科姫屋敷跡(山梨県韮崎市上ノ山)とされる天満宮横には更科姫の墓と夫・相木信房のための石祠とされる物が現存する。

 

 (参考) 甲斐武田を探検っ!!
 引用元:更科姫

 

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