真田大八は、1612年、真田幸村(真田信繁)の次男として、九度山で生まれた。幼名が大八。
母は正室・竹林院(安岐姫)とされていますが、この真田大八に関してもひとつの説としてご紹介する。
1614年、大阪冬の陣では、兄・真田大助(14歳)や、姉・阿梅(12歳)、阿菖蒲(8歳)らと共に、大阪城へ入ったとれるが、この時、真田大八はまだ僅か4歳であった。
1615年、大坂夏の陣にて、父・真田幸村(真田信繁)や兄・真田大助(真田幸昌)は討死。
真田大八は大切な男子として、三井景国の家臣・西村孫之進と我妻佐渡守に守られて落ち延び、伊達政宗の重臣・片倉重長に保護されたとされる。
これは、真田幸村が最後の決戦を挑む直前に、片倉重長に対して子供の事を託していたとも言う。
その後、阿菖蒲・おかね・大八と穴山小助の娘と共に伊達家の片倉重長の世話を受け、白石城にて養育された。
元服前の真田大八は、片倉久米介(かたくらくめのすけ)と名乗っている。
1619年には、京から旧臣の三井景国(三井覚左衛門景国)が訪ねてくると、そのまま片倉家の家臣に加わっている。
また、同じく養育を受けていた姉・阿梅が、片倉重長の継室になった。
伊達忠宗が2代目の仙台藩主になったあと、1640年、28歳になると真田守信(真田四郎兵衛守信)と名乗り、知行300石の召出二番座で、仙台藩士に列する。
この時、仙台城下の五ッ橋通りに、間口40間・奥行き30間の屋敷を与えられている。
真田幸村の子である武士が仙台藩にいることを知った幕府は、色々と仙台藩に問いただす。
そのため、仙台藩は、真田信繁(真田幸村)二男の大八は、7歳の時、京都で印字打ち(石合戦)の見学中に石が当たり、亡くなっている。真田守信に関しては、真田信尹の子・真田政信の子であると釈明し、家系図もそのように偽装したようだ。
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真田守信は六文銭の家紋使用を控えただけでなく、再び片倉姓に改めたと言う
なお、五十嵐氏の娘と結婚したようで、1656年に嫡男・片倉辰信が誕生。
1657年には監察。
1663年には武頭となり、老いてからは一貫斎と号した。
1670年10月30日、死去。享年59。
当信寺の本堂裏には真田守信と、姉・阿梅の墓標が並んでいるが、墓には密かに真田家を表す一文銭が刻まれている。
家督を継いだ片倉辰信が、1712年に「既に将軍家を憚るに及ばざる」の内命を受け、真田姓に復し真田辰信となったとされる。
奇しくも真田大八が生れてから100年目の事であった。
※歴史で知られている内容には諸説ありますこと、改めてご確認申し上げます。
・白石にある真田幸村の墓と阿菖蒲の墓【田村家墓所】
・片倉景綱と片倉重長~智勇と温情を兼ね備えた片倉小十郎
・伊達政宗【詳細年表】~独眼竜・伊達政宗
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