田村宗顕(たむら-むねあき)は、田村氏顕の子として1574年に生まれ、その後、伯父・田村清顕の養子となった。
この叔父・田村清顕の娘には愛姫がおり、1579年、12歳の頃、伊達政宗に嫁いでいる。
その後、1588年、伊達政宗によって田村宗顕が田村家の当主とされ三春城主になった。
田村定広(たむら-さだひろ、田村定廣)は、三春城主・田村宗顕の嫡男として生まれたが、生没年や生母は不詳。
1590年、豊臣秀吉の小田原攻めの際、伊達政宗が小田原城へ出向いて豊臣家に臣従。
この時、父・田村宗顕(17歳)は伊達家の家臣と言う認識だったため、参陣しなかったのだが、豊臣秀吉は独立大名であるとして改易する。
その後、父・田村宗顕は牛縊定顕と改名して伊具郡に隠棲したが、愛姫が片倉重長に願い出ると白石城下に屋敷を与えられた。
恐らくはこの前後に嫡男・田村定広が誕生したものと推測される。
田村宗顕は片倉金兵衛と改名し、嫡男・田村定広は成人すると、片倉景綱の異父姉である少納言喜多(片倉喜多)の片倉家名跡を相続し、片倉定広と名乗り、真田信繁(幸村)の六女である阿昌蒲と結婚しました。
1648年10月6日、田村宗顕が死去。のち1652年に、伊達政宗と愛姫の嫡男・伊達忠宗の三男・伊達宗良が田村家を継いだ。
片倉定広(田村定廣)の生没年は不詳だが、墓は妻・阿昌蒲(菖蒲)とともに、白石市の田村家墓所にある。
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阿昌蒲(菖蒲)
阿昌蒲(菖蒲、おしょうぶ)は真田幸村の6娘で、母は竹林院とされ、大坂夏の陣のあと、阿梅・おかね・真田大八・穴山小助の娘と共に伊達政宗の家臣・片倉重長の保護を受けて、白石城に身を寄せていた。
姉・阿梅は片倉重長の継室となり、阿昌蒲(菖蒲)は青木次郎右衛門の妻になるが、のちに片倉定広と再婚したとされる。
なお、阿昌蒲(菖蒲)は1635年死去とされる。
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