真田信繁の墓~白石にある真田幸村の墓と阿菖蒲の墓【田村家墓所】


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宮城県白石市の白石城から外れた郊外にある、片倉家墓所と片倉喜多の墓、田村家墓所を訪問・お参りさせて頂きました。

田村清顕の墓

片倉喜多の墓から約70mほど離れた別の場所に「田村家墓所」があり、田村清顕の墓などがあります。

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下記の駐車スペースのところから、山に入って行くとありますが、徒歩1分といったところです。

田村家の墓の配置図をよく見て訪れないと、どれがどの方の墓なのか?、分からなくなってしまいます。

中央の目立つ墓碑が田村清顕の墓となります。

田村清顕の墓の右脇には、田村孫七郎の墓があります。

下記は右端となる田村猿男の墓と、梅津勘十郎良門などの墓です。

三春城主であった田村宗顕は、1590年、豊臣秀吉小田原攻めに参加しなかったため、領地を没収されてしまいました。
もっとも、田村宗顕は愛姫が嫁いだ伊達政宗に臣従しており、伊達家の家臣と言う立場であったと考えられ、豊臣秀吉に直接挨拶に行くと言う事までにはならなかったのですが、豊臣秀吉は独立大名とみなしていたようです。

その後、田村宗顕は、しばらく牛縊り(うしくびり)と姓を変えて、伊具郡金山(丸森町)に隠れ住んでいましたが、愛姫が招いて2代目の白石城主・片倉重長に仕えました。
そして、300石となった田村定広は、真田幸村の娘・阿菖蒲を妻に迎えて、片倉氏に改姓したのです。
この田村定広が田村家墓所を作りました。

上記の右が阿菖蒲の墓で、左が真田幸村の供養碑となり、この田村家の墓所内に、真田幸村の墓(真田信繁の墓)もあるのです。

真田信繁の墓は、刻銘のない自然石となっており、この真田幸村の供養碑が建立された由来は不明ですが、田村定広が真田幸村の娘・阿菖蒲を妻にした事から、供養の為に建立したのでしょう。
しかし、名前を入れてしまっては、片倉家や仙台藩に迷惑を掛けることにもなり兼ねませんので、真田信繁とは分から無いようにしたものと推測されます。

白石の田村家墓所への行き方・アクセスですが、東北新幹線の白石蔵王駅から宮城交通バスの「関」行きで約10分、滝の下のバス停下車で、徒歩10分となります。
白石城の麓からだと徒歩15分となります。
下記の地図ポイント地点が駐車スペースになっており、その駐車スペースからは、片倉喜多の墓へ通じる遊歩道があり、徒歩約1分です。

近くにある片倉家墓所へは、別に無料駐車場がありますので、自動車の場合、車で移動すると良いでしょう。

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