伊木遠雄~真田丸における真田幸村の軍監


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伊木遠雄(いき-とおかつ/いき-とおたけ)は、尾張の出身・伊木忠次の長男で1567年生まれ。通称は伊木半七。伊木七郎右衛門。
なお、伊木家は平清盛の末裔とされている。
豊臣秀吉の近習として仕えると、賤ヶ岳の戦いで戦功を挙げ、野々村雅春、青木一重、速水守久らと黄母衣衆の1人になった。
賤ヶ岳では活躍したことら三振太刀(みふりだち)の1人と称されているが、他の近習と比べると余り出世しておらず、御馬廻七頭組には抜擢されていない。

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1592年の朝鮮出兵では御馬廻組として名護屋城に滞陣した。

1600年、関ヶ原の戦いでは石田三成に協力したため、浪人となっているが、浪人中は動向は不明。

その後、1614年、豊臣秀頼の呼びかけに応じて大坂城へ入城。
豊臣秀頼の代でも七手組は野々村雅春らが務めており、伊木遠雄は大阪の陣においては真田信繁の軍監として配置された。
これは、真田信繁(真田幸村)が裏切らないよう、伊丹正俊らと真田信繁を監視させたと考えられている。

大坂冬の陣にて前田利常・井伊直孝松平忠直藤堂高虎らが真田丸に殺到した際には、伊木遠雄は真田大助(真田幸昌)と共に500を率いて城外に撃って出て軍功を挙げており、大坂夏の陣の道明寺の戦いにも参加した。

しかし、天王寺・岡山の戦いで伊木遠雄は七手組頭・真野頼包と刺し違えて討死したとも、行方不明になったとも言われている。
この時、亡くなったとしたら、享年49。

共に参加していたとされる子の伊木庄次郎は、大坂城から脱出してたあと、伊木三郎右衛門と改名し、のち松代藩主・真田信之に仕えたと伝えられている。

真田丸とは~大阪冬の陣~日の本一の武将の意地を掛けた真田丸の戦い
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