阿梅【おうめ】とは? 真田幸村の娘・お梅のその後

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1604年生まれとされる阿梅(おうめ)は真田幸村の娘で、母は高梨内記の娘・采女(うめね)とも言われる。
※采女とは高梨内記と言う武将の事を差しているとも推定されていますし、母親に関してはもちろん諸説あります。

この高梨内記は、真田昌幸と真田幸村(真田信繁)が、九度山に幽閉された際に、同行した真田家臣16人の1人で、柳生清庵と高梨内記は真田幸村が大坂城に入った際にも同行し、大坂夏の陣で討死にしました。

真田幸村が大阪城に入った際には、真田大助(14歳)、阿梅(12歳)、阿菖蒲(8歳)、真田大八(4歳)も父と行動を共にしたとされています

そして、真田幸村が最後の決戦を挑んだ際、伊達政宗の家臣・片倉重長宛に手紙を書き、菅沼覚左衛門と永沼弥右衛門が片倉重綱の陣所に届けました。

真田幸村は、阿梅・阿菖蒲・おかね・真田大八(真田守信)と穴山小助の娘を引き取って欲しいと、後藤又兵衛を討ち取った猛将・片倉重長(片倉重綱)に依頼したのです。
この片倉重長(片倉重綱)は、伊達家を支えた片倉小十郎の嫡男となります。

阿梅姫は女籠に乗って、堂々と大坂城から出ると、片倉重長の陣に向かいました。

阿菖蒲姫は、粗末な籠にて、怪我人を装いました。関所ではうんうん唸ったり辛そうに演技したようで、徳川勢も気の毒がって、通したと言います。

幼い真田大八は、西村孫之進と我妻佐渡守に守られて大阪城を脱出しました。

大阪城落城後、伊達政宗の軍勢は5月9日から京都に7月23日まで駐屯しました。

この時、真田幸村の遺臣・三井景国の家臣である我妻佐渡(吾妻与惣左衛門)と西村孫之進は、阿菖蒲・おかね・大八と穴山小助の娘を片倉重長(片倉重綱)に送り届けます。
※阿菖蒲は後年に届けられたとも。

大八の母・竹林院は、娘・あぐり(あくり)と共に紀伊にて捕縛されて、京都の徳川家康に引き渡されましたが、無罪とされ以後、京都で暮らしました。

その後の阿梅




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さて、阿梅や大八、阿菖蒲、おかね、穴山小助の娘・菖蒲らは、その後、伊達政宗の軍勢に匿われて京都を出発すると、江戸の伊達藩邸を経て、9月5日に片倉重長の白石城に移りました。

その頃、阿梅は侍女として仕えていたようですが、真田家の旧臣・吾妻佐渡の主人であった三井景国(三井覚左衛門景国、三井奉膳?)らが白石城を訪ねると、片倉家の家臣に加わっています。

また、片倉重長の正室・指月院が妹のように可愛がった阿梅(お梅)に、かわって妻となるように頼んで亡くなっとも言われており、阿梅は片倉重長の継室となりました。
1620年、片倉重長(片倉重綱)37歳、阿梅17歳のときです。

真田大八(真田守信)は、阿梅の夫である片倉重長から養育を受け元服すると、片倉守信と名乗っています。
当然、徳川幕府は真田の遺児を預かっている伊達家を追及したようだすが、真田信尹の孫を養子にもらったなどと弁明し、うまく回避したようです。

阿梅は、1681年に78歳で没したとされます。法号は泰陽院殿松源寿清大姉。

奥州街道沿いの当信寺の本堂裏に、大八の墓と共に並んでいます。

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