沼田城の見どころと小松姫の墓を偲ぶスポット~沼田城訪問記・写真集

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 沼田城(ぬまたじょう)は、1532年に沼田顕泰が築城し、以後、沼田家の拠点となりました。
 河岸段丘の台地上となる標高約400mの丘城であり、沼田駅は標高約330mですので、比高は約70mとなります。
 沼田氏の先祖は諸説ありますが、鎌倉時代に大友氏の一族・大友実秀が沼田氏を名乗り、の後、三浦氏系が入って、沼田氏を称したと考えられます。

 沼田城の利根英霊殿

 1560年以前には、 山内上杉家と北条家のどちらに属すかで内紛となり、山内上杉家に勝利した北条家側である北条綱成の次男・北条氏秀が沼田城主となり、北条康元(沼田康元)と称しました。

 沼田城の本丸にあった堀のなごり

 この時、沼田顕泰ら沼田家は没落します。

 沼田城の本丸

 1560年に長尾景虎(上杉謙信)が沼田城を落とすと「沼田三人衆」と呼ばれる上野家成、河田重親、松本景繁が沼田城に入ります。
 この時、敗れた沼田顕泰は天神城に隠居し、またしても、沼田家は北条家か上杉家を頼るのかで、1569年には内紛が激化し、沼田顕泰と沼田景義は会津の蘆名盛氏へ逃亡します。

 沼田城

 1578年、上杉謙信の死後、御館の乱となると北条氏政北条氏邦を派遣して沼田城を制圧し、猪俣邦憲藤田信吉金子泰清の3名が沼田城に入りました。

 沼田城からの眺め

 1579年、武田勝頼は、真田昌幸に命じて名胡桃城を落とし、沼田城へ迫ります。
 そして、真田昌幸は重臣の矢沢頼綱に沼田城を攻撃させると、金子泰清・藤田信吉らは降伏し、以後、真田家臣に加わりました。

 沼田城の西櫓脇の堀

 1581年、かつての沼田城主・沼田景義(沼田平八景義)が、由良国繁の力を借りて沼田城奪回の挙兵します。
 この時、沼田氏の旧臣・金子泰清らによって、沼田景義は沼田城へ迎えられます。

 沼田城の本丸跡

 しかし、これは真田昌幸の策略であり、沼田城内にて沼田景義は殺害されてしまいました。

 沼田城の平八石

 この時、首実検した際の石が、上記写真の「平八石」です。

 平八石

 沼田景義(沼田平八景義)の遺骸は小沢城に葬られましたが、後に首がここまで飛んで来たと言う伝承があります。

 沼田城の堀の名残

 1582年、武田勝頼の自決後、上野一国を領した滝川一益の重臣・滝川益重が沼田城主となりました。
 その後、明智光秀による本能寺の変で、織田信長が横死すると、沼田城は真田昌幸の支配下となります。

 沼田城の本丸堀

 そして、天正壬午の乱となり、和睦した徳川家康と北条氏直の間で沼田領の帰属問題となりますが、真田昌幸はいずれの提案も拒否し、上杉景勝を頼ったため、沼田城や名胡桃城は、北条家により何度か攻撃を受けますが、沼田城主・矢沢頼綱がいずれも退けています。

 1589年7月、豊臣秀吉が真田昌幸と北条氏直の沼田領争い問題を仲裁すると、沼田城は正式に北条氏直の領地としました。

 沼田城から名胡桃城方面を望む

 しかし、利根川右岸の拠点である名胡桃城だけは、真田昌幸に残されると言う中途半端な内容であり、沼田城から5kmしか離れていない名胡桃城が目障りな存在となります。
 上記写真は、沼田城から名胡桃城方面を望みます。

 北条氏邦の重臣であった沼田城主・猪俣邦憲(いのまた-くにのり)が、名胡桃城主・鈴木重則の家臣・中山実光(中山九兵衛実光)を買収すると、1589年10月23日、偽手紙を鈴木重則に送って城外へおびき出した間に、中山実光が名胡桃城を乗っ取ります。
 この名胡桃城奪取事件がもとで、豊臣秀吉は1590年に小田原攻めを行いました。

 沼田城の西櫓跡

 小田原攻めのあと、真田信幸(真田信之)が沼田城主となると、1597年頃に5層天守や3層櫓などを建てたとされ、当時の関東では江戸城に次ぐ天守を持つ城郭となりました。




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 鐘楼は、大手外側の脇にあったのですが、現在は、本丸内に復元されています。

 沼田城の西櫓跡

 上記写真は天守台と思いきや、本丸北側にある西櫓跡です。

 沼田城の西櫓跡にある石垣

 沼田市では天守閣を再建しようなんて話も、ちらほらと出てきているようですが、天守台は高さ15mの石垣になっていたとされます。
 公園の中央部にその位置と推定される場所がありますが、発掘調査はされていないようですので、現状としては不明と言えます。

 沼田城の石垣

 関ヶ原の戦いの際、上田城主・真田昌幸と真田幸村石田三成の西軍に味方し、真田信幸(真田信之)は徳川家康の東軍に味方する選択をします。

 沼田城の西櫓跡

 この時、真田昌幸は上田城に向かう際、桐生辺りで「沼田城に寄って孫に会いたい」と言い出して、沼田城を訪れました。

 沼田城の古い石垣

 恐らくは、あわよくば沼田城を乗っ取ってしまおうと考えたのかも知れません。
 沼田城の留守を預かっていた、真田信幸(真田信之)の正室・小松姫は、そんな意図を察してか「たとえ舅であっても、主人の留守中に城に入れる訳にはいかない」として、武装した姿で城門を開けずに追い返します。
 そのため、真田昌幸と真田幸村はは、一晩、城下の「正覚寺」に泊まりましたが、翌朝、小松姫は自ら子供をつれて正覚寺を訪れ、子供らと面会させたと言う逸話があります。

 正覚寺の山門

 上記写真は正覚寺の山門です。

 関ヶ原の戦い以降、外様大名である真田信之が関東にいると言う事は、徳川幕府にとっては悩みの種てあり、1616年に上田城へ移させましたが、それでも沼田領は長男・真田信吉が入っていました。
 更に、1622年、真田信之は信濃松代藩10万石に移されますが、引き続き沼田領2万7000石は真田家が領しましたが、ついに1681年、真田信澄の代に改易されると、1689年には沼田城の天守も取り壊されてしまい、堀も埋められました。

 沼田城の鐘楼

 そのため、現在の沼田城は本丸と捨曲輪付近のみが沼田公園となっています。

 沼田城への行き方・アクセスですが、下記の地図ポイント地点が無料駐車場となっています。
 トイレは随所にあります。

 

小松姫の墓と正覚寺

 なお、沼田城から伸びている道を、約700m南下すると、歩いて10分くらいのところに「正覚寺」があります。

 あの名胡桃城主・鈴木重則(鈴木主水正重則)が切腹したお寺でもありますが、ここには小松姫(稲姫)の墓があります。

 小松姫の墓

 江戸時代になると正室は江戸藩邸に住みましたので、小松姫は江戸にいましたが、1625年頃ら体調を崩し、1626年に草津温泉へ湯治に出掛けました。
 しかし、武蔵国の鴻巣で亡くなったため、その遺骸は沼田城の正覚寺に運ばれて、荼毘にふされたてここに埋葬されたと言います。

 小松姫の墓

 小松姫の墓は、墓地の内にあるお堂の左脇にあります。

 その近くに鈴木重則(鈴木主水正重則)の墓とされるものもありますが、最近では全く関係ない人の墓なのではとされ、現在、案内板も撤去されてます。

 沼田・正覚寺のお堂

 なお、小松姫の墓は、真田信之の移転に伴い分骨されて、上田城の近くと、松代城の近くにも小松姫の墓があります。




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 正覚寺は下記のポイント地点から入れます。

 

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