真田氏がこだわり続けた「沼田城」の歴史 ~北条・徳川氏との攻防から真田沼田氏の本城へ~


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沼田城(群馬県沼田市)は1540年代(天文年間)に沼田盆地の中央、利根川と薄根川の合流地点の東南、比高70m の崖上に築かれた。
この地は、東北方面は会津、東南は桐生、西は上田に通じるといった交通の要地である。
その一方、これらの方面から沼田に入る場合には、いずれも峠を越えなければならず、また、城の東から南に片品川が巡り、急峻な断崖のため渡河できる場所もきわめて少ないという、攻めにくい場所でもあった。

沼田城は、1540年代初めの天文年間に、平安末期から続く沼田氏の当代、顕泰(あきやす)によって築かれた。
顕泰は北条氏に従っていたが、1560(永禄3)年9月に上杉政虎(のちの謙信)が近衛前嗣(前久)・上杉憲政を伴い、関東に進出してくると、顕泰は政虎に降った。
それ以後、「沼田城」は上杉氏の関東進出の拠点となり、輝虎(政虎を改称)が北条氏康や武田晴信(のちの信玄)と争ったり、同盟を結んだりしたときの舞台となった。



1569(永禄12)年正月、沼田氏は相続争いにより没落する。
その後、北条氏康、武田信玄、上杉謙信(輝虎)が相次いで没すると、謙信の跡継ぎをめぐる争い(御館の乱)が起き、沼田でも藤田信吉が武田方の真田昌幸跡部勝資に通じて、1580(天正8)年5月に「沼田城」を昌幸に明け渡した。
1581(天正9)年3月には沼田景義が由良国繁の助けを得て「沼田城」を奪還しようとした。
景義は渡瀬谷から利根郡に進出し、真田方の矢沢頼綱を片品川で破り、藤田信吉・海野輝幸と田北の原で戦い、高王山城に入り、戸神に陣を敷いた。
こうした動きに対して、昌幸は密かに「沼田城」に入り、景義の伯父である金子家清を誘い、水の手から侵入した景義を討ち取った。
その際、昌幸が景義の首実検をおこなったという石が北郭に現存している。
「沼田城」を手に入れた昌幸は、海野輝幸を城代としたが、同年11月に輝幸を兄幸光(岩櫃城代)とともに誅したことから、叔父の矢沢頼綱を城代とした。

1582(天正10)年3月に武田勝頼が滅び、滝川一益織田信長重臣)が厩橋に進駐してくると、「沼田城」に一益の甥である儀大夫益氏を入れた。
しかし、同年月の本能寺の変後、一益は北条勢に神無川(上野・武蔵国境)で敗れ西に去って行った。
そのとき、一益は上杉景勝家臣の藤田信吉の要求を退けて「沼田城」は真田昌幸に返されたが、その後も「沼田城」を巡る真田・上杉・北条の争いは激化していった。

真田昌幸は嫡子信幸に「沼田城」を与え、矢沢頼綱に補佐させた。
頼綱は17歳の信幸を「岩櫃城」に残したまま、自身が「沼田城」の城代となった。
頼綱は中山右衛門尉に「津久田城」を攻めさせたが、右衛門尉は敗死した。
これに乗じ北条氏は長尾憲景(白井城主)に「中山城」を占領させ、「中山新城」を築いて赤見山城守(沼田顕泰の三男六郎頼泰とする説あり)を入れた。
これにより沼田・川田・湯川の小領主の多くが北条方に味方し、沼田・岩櫃間の連絡が困難になった。

1582(天正10)年9月、「箕輪城」にあった北条氏邦が「大戸城」を占領して「岩櫃城」に圧力を加えた。
1583(天正11)年2月(8月とする説あり)には「森下城」を攻略して「沼田城」に対する付城とし、黒川谷の五乱田にも城郭を築き、沼田進出を本格化した。
こうした北条氏の執拗な攻撃に対して、矢沢頼綱(沼田城代)は上杉景勝の支援を得て持ちこたえた。
以後、「沼田城」は真田・上杉氏と北条・徳川氏との対立の舞台となった。

1585(天正13)年、徳川勢が上田を攻撃すると、それに呼応して北条氏直が「沼田城」を攻めるが撤退する。
その後も真田勢と北条勢の攻防は続き、翌1586(天正14)年9月、真田昌幸は「中山城」を奪い、林弾左衛門も入れる。
この間、豊臣秀吉による天下統一事業が進んでおり、1587(天正15)年1月、昌幸は上洛して秀吉に属した。
その秀吉は北条氏直を上洛させる条件として沼田・吾妻領を氏直に渡した。
そのため、1589(天正17)年10月、「沼田城」は北条方に渡され、北条氏邦(鉢形城主)が城主を兼任し、猪俣邦憲が城代となった。
この邦憲が10月23日に昌幸のもとに残された「名胡桃城」を奪ったことをきっかけに、秀吉は北条氏攻めに踏みきって、翌1590(天正18)年7月に戦国大名北条氏は滅亡した(小田原平定)。
これにより「沼田城」は真田信幸(信之)のもとに戻された。

真田信幸は徳川家康に属し、2万7千石の領主として「沼田城」を近世城郭に改修していった。
二の丸、三の丸、大門等の整備を進め、1597(慶長2)年には天守も完成したという。
その天守は、幕府が1644(正保元)年に諸藩に命じて作成・提出させた「正保城絵図」や古文書から五層六階であることが分かっており、その模型が二の丸跡に建つ「旧生方家住宅」に展示されている。

1600(慶長5)年の関ヶ原の戦い後、信之は沼田領に加えて父昌幸の旧領を与えられ、1622(元和8)年には松代に移されたが、沼田領は真田氏に残された。
沼田の真田氏は信吉・熊之助・信政・信利(のぶとし)と続き、1681(元和3)年11月、信利のときに改易となり、「沼田城」も破却された。
その後、沼田領は幕府の天領を経て、本多氏が3代、黒田氏が2代と続き、土岐氏12代の頼知(よりおき)のとき明治維新を迎えた。

現在、城跡は本丸・二の丸・三の丸などの一部が公園(沼田公園)として整備されているが、遺構は土岐氏時代のものである。
平成27年8月27日からは、「正保城絵図」に描かれた本丸堀と石垣の寸法等の再検証などを目的として、発掘調査が断続的におこなわれていて、本丸堀やそれに伴う石垣等が検出され、本丸を中心に真田氏時代の遺物が出土している。
瓦は軒丸瓦や鬼瓦のほか、天守付近からは金箔瓦が出土している。
また、古伊万里や中国産陶磁のほか、瀬戸・美濃の陶器や泉州の焼塩壺なども出土している。



交通の要地にある「沼田城」は真田氏にとって、「岩櫃城」とともに上州支配のための重要な城郭であった。
真田昌幸のときに沼田氏から奪って以降、北条氏や徳川氏との対立の中で、「沼田城」を全力で死守したが、一時、豊臣秀吉の裁定により北条氏に渡された。
北条氏没落後は、昌幸の嫡男信幸が城主となり、以後5代にわたって沼田真田氏の居城となった。
現在の「沼田城」の遺構は真田氏改易を経て、1742(寛保2)年以降の土岐氏時代のものであるが、近年の発掘調査により真田氏時代の姿が明らかになりつつある。

(寄稿)勝武@相模

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