真田氏による上州支配の拠点「岩櫃城」~難攻不落の堅固な山城の歴史~

岩櫃城

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2016年(平成28年)放映のNHK大河ドラマ「真田丸」のオープニングで登場した「岩櫃城」(群馬県吾妻郡)は、1405年(応永12年)に斎藤憲行が築城した難攻不落の堅固な山城である。
1563年(永禄6年)に武田信玄の命により真田幸綱(以下、幸隆)が攻略した後は、真田氏による吾妻郡支配の拠点となった。

「岩櫃城」は標高 597m 、比高200mの岩櫃山東腹に立地する本城と、その北の平沢村落、「天狗の丸」そして東北の観音山にある「柳沢城」からなる。
本城は東方に延びる尾根上に立地し、西から東に本郭・第二郭・中城が並ぶ。
本城には第二郭を中心に6筋の竪堀が延びるが、敵の横方向の行動を妨げる役割に加えて、出撃の際には通路として利用されたとされている。
本郭(本丸)は 160m×70m で、「いだて」と呼ばれる北部には25m×12m、高さ2.5mの壇があり、これは天守台と考えられている。
また、西北郭と南面中央に桝形虎口跡が残る。
第二郭は60m×90mで北辺が3mほど高くなっており、南東面中央に虎口跡がある。
第二郭と中央との間には三段の小郭が挟まれ、中城は150m×200mの扇状の斜面になっている。
池波正太郎の「真田太平記」には、「地炉ノ間」という部屋で真田昌幸が草の者の頭(かしら)である壺屋又五郎に指示を与えたり、真田信之・信繁(幸村)兄弟と語り合う場面が描かれているが、この部屋はどこにあったかは定かでない。
平沢地区には長さ400m内外の堀が6本ほどあり、中には水堀や二重堀もみられる。
内側に土塁を伴うものも多く、何本かの横堀によって結ばれている。
「天狗の丸」は本城の東北にあり、出丸としての役割を果たしていたと考えられている。
その規模は70m×280mで、西北外側が6mから10mほど低くなっており、長さ200mの傾斜の緩い竪堀がある。
また、本城との間の「城の口」と呼ばれる場所は追手虎口(城の入口)と考えられている。

「柳沢城」は本城の東北1,100mの地に位置し比高120mの観音山に立地する。
「岩櫃城」の支城として機能した。
その規模は220m×200m、堀切により5郭を並べた梯郭式で、東南の最高所を本郭には東北から西南にかけて小郭が並ぶ。

こうした堅固な縄張構造をもつ「岩櫃城」は戦国時代末期から江戸時代初期にかけて、真田氏による吾妻郡支配の重要な拠点であった。
1563年(永禄6年)、真田幸隆は武田晴信(以下、信玄)の命により、 3,000の兵で「岩櫃城」に攻め入ったが、ときの城主の斎藤憲広らは奮戦した。
真田勢は「仙蔵城」を占領して「岩櫃城」の背後を脅かすが、城方の攻撃を避けて和議を結び、斎藤方の斎藤則実と海野幸光・輝幸兄弟らを味方につけたのち、10月14日に再度の攻撃をおこない攻略した。
憲広は嫡子憲宗とともに越後の上杉輝虎(謙信)を頼って逃れたが、末子の城虎丸は「嵩山城」にとどまり、岩櫃奪還の機会をうかがった。

1565年(永禄8年)10月下旬、越後から戻った斎藤憲宗が「岩櫃城」への攻撃を始めたが、真田幸隆は再び和議を結び、憲宗方の池田重安を味方につけて、斎藤勢が拠る「嵩山城」を攻撃し、11月17日にこれを攻略して斎藤氏を滅亡させた。
信玄は幸隆を吾妻郡代、海野幸光・輝幸兄弟を「岩櫃城」の城代とし、以後、「岩櫃城」は真田氏による吾妻郡支配の重要拠点となった。

1573年(天正元年)に武田信玄が没し、後継者の勝頼が織田・徳川連合軍と戦い敗れた長篠の戦いで、真田幸隆の嫡子信綱と次男昌輝が戦死すると、三男の昌幸が真田氏当主となった。
昌幸は1580年(天正8年)、上杉謙信没後の上野国(群馬県)の混乱の中で、「沼田城」を手に収め、海野兄弟の弟輝幸を城代とした。
しかし、海野兄弟の逆心が報じられると、昌幸は弟の信伊(のぶただ)に命じて1581年(天正9年)9月、兄の幸光を「岩櫃城」内で殺害し、輝幸も自害に追いやった。
1582年(天正10年)3月、昌幸は滅亡目前の勝頼を岩櫃に迎えて武田家の再起を支援しようと、岩櫃山南麓に居館の造営をおこなうが果たせず、勝頼は天目山で自害した。

武田氏滅亡後、真田氏は信濃(長野県)の「上田城」、上野の「岩櫃城」・「沼田城」を拠点に勢力の拡大をはかった。
1585年(天正13年)、徳川・北条勢が上田・沼田を攻撃するが、「岩櫃城」への攻撃はなされなかった。
それは、「岩櫃城」が難攻不落の堅城と知られていたためと考えられる。
1589年(天正17年)10月に豊臣秀吉の仲介により、昌幸は「沼田城」を北条氏に渡したが、「上田城」に嫡子の信幸を、「岩櫃城」には城代として矢沢頼綱をおき、領土の防御につとめた。
1590年(天正18年)、秀吉の小田原攻めにより北条氏が滅亡すると、「沼田城」が再び真田氏の持ち城となり、「岩櫃城」はその支城として吾妻郡の安定に重要な役割を果たした。
1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いの後、東軍(家康側)に加わった真田信幸(信之)の持城となったが、1615年(元和元年)に江戸幕府が発した一国一城令により、「戸石城」などとともに廃城となり破壊された。

「岩櫃城」は、城内の内応者を味方にして攻略できたという歴史が示すように、難攻不落の堅固な構造を持つ山城で、その景観を今に伝える貴重な中世城郭である。
この城については、築城時期や築城者、真田氏時代の「地炉ノ間」や武田勝頼を迎え入れるための居館の存在など、解明されていないことが多くある。
「岩櫃城」が所在する東吾妻町教育委員会では、2013年(平成25年)度より発掘調査や文献史料調査などに取り組んでおり、本郭(本丸)の調査では石垣や鍛冶場跡などが発見され、鉄砲玉などが出土しているという。
今後の詳細な調査と整備・保存が進展することを期待したい。

(寄稿)勝武@相模

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  1. 2018年 7月 25日

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