真田昌幸ゆかりの「新府城」~構造と調査状況~

新府城

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新府城」の構造

「新府城」は 1581(天正9)年、真田昌幸らを普請奉行として築城された。
築城経緯等については、「真田昌幸が築城に関わった『新府城』~築城背景を探る~」(https://sanadada.com/2986/)を参照

城の構造は、山頂の本丸を中心に、西に二の丸、南に西三の丸と東三の丸が配さている。
北から東にかけての山裾には堀と土塁、帯郭がめぐり、南端には大手桝形・丸馬出・「三日月堀」、北西端には搦手がある。

本丸は東西90m、南北120mの長方形で、周囲には土塁がめぐる。
本丸の南西隅には 細長い区画が土塁をともなってあり、 「蔀(しとみ)の構え」と呼ばれている。西側には防御機能を持つ植え込みもある。



二の丸は本丸の西、一段低い55m四方の区画で、南に馬出しが接している。
その西は釜無川と比高100m を超える急崖である。

三の丸は馬出しから大手へと南に下がった「坤(ひつじさる)門」の南東に、地形を一段下げて広がる。
その規模は東西100m、南北60mの長方形で、中央部を南北に貫く土塁によって西三の丸と東三の丸に分かれている。

東三の丸の南に一段下がって7.2m四方の「片山口望楼」があり、その南に大手口がある。
大手口からは南に大手門・大手桝形・大手馬出しが続いてあり、さらに長さ33mほどの「三日月堀」がある。
「三日月堀」は丸馬出に空堀と土塁がともなう武田流築城術の特徴の一つである。

搦手は二の丸の北方に位置し、その北西隅には急崖に面して約11m四方の「乾(いぬい)の望楼」がある。
搦手門の先には深い空堀があり、その先には横矢掛の構えがみられる。

本丸の下には、東から北にかけて腰郭が巡り、三の丸の下には、東から北にかけて帯郭が巡る。
北側の東西約300mにわたる帯郭部分の外側には、西堀・中堀・東堀、やや東側に首洗池などがある。
また、中堀と東堀を隔てる 「西出構」、そこから 110mほど離れて東堀と首洗池を隔てる「東出構」が位置する。
「出構」はいずれも幅7.2m 、長さ36.2m の長方形を呈し、北方向に付き出している。

発掘調査による解明

「新府城」では1998(平成10)年度から 2001(平成13)年度にかけて、遺構を確認するなどの試掘調査、 また2002(平成14)年度 から2011(平成23)年度 にかけて本格的な発掘調査がおこなわれ、顕著な成果を挙げている。
以下、調査をおこなった主な遺構について、概要と調査成果を整理する。

<乾門桝形虎口>
城跡北西の隅にあり、水堀と空堀によって区画されている。
入口の一之門側が低く、奥の二之門側が高い土塁に囲まれた六角形の桝形である。
虎口の規模は南北約3m 、東西約4mで径45㎝前後の柱穴が城の外側にある。
調査では2本の柱穴が検出されたが、門の形態や構造等の詳細は不明である。
桝形虎口は北から七里岩の崖と西堀とに挟まれた土橋を経て東に直角に曲がって入城する形である。
土橋から直線的に進み、一之門を過ぎた奥に不整円形の平坦な空間があり、防衛上の機能が考えられている。
一之門から二之門へは、桝形内部で2度の折れをもって入る形態であるが、実際には斜めに進入することが考えられる。
二ノ門では、厚さ20㎝前後、一辺40~60㎝の礎石が6個確認されている。
礎石の配置から、門の間口は2.5m、奥行2.8m、虎口の広さは南北約3m、東西約3.5mである。
礎石は桝形内部側にある最も大きなものを親柱とし、後ろのものが控え柱とされている。
また、門の部材とみられる炭化材が出土し、礎石上には柱の焼けた痕跡が残されていた。

<「乾門の郭」・木橋橋台部>
乾門の郭は城の北西に位置し、独立した郭になっているが、その名称は不明である。北辺が東西約100m、南辺が東西約80m、南北の幅が25~30mの規模である。
土塁と空堀に囲まれた長方形状を呈する平坦地と、その北側の通路部分からなる。
通路は幅3.5~4.5mで、乾門から郭東端の空堀に張り出した橋台部を経て、空堀を木橋で跨いで対岸の虎口に通じ、南側には城内と連絡する土橋が構築されている。
乾門の郭の通路が至る東端にある木橋橋台部は、土層観察の結果、版築状の造成であったことが判明している。
空堀部分の調査では、橋脚を支える柱穴等の遺構は確認できなかったが、堀底には崩落した土とともに礎石状の平石もみられた。
そのとから、乾門の郭の東端橋台部斜面には、小段上に突出した施設が存在し、橋の重みを支える工夫が施されていたと考えられている。



<井戸跡>
井戸の上端幅は32mと大きく、擂(すり)鉢状を呈する。調査では、底面まで掘り下げていないが、地山や岩盤を掘削した大規模な井戸と考えられている。
遺物は宝篋印塔の基礎が3点ほど出土しているが、そのうちの1点には「昌山」の文字が刻まれている。
「昌山」は室町幕府15代将軍の足利義昭の出家名であるが、武田信虎を除く信昌から勝頼までの武田氏直系の戒名にも「山」の字が使われている。

<北側堀跡>
新府城北側を巡る西堀(水堀)・中堀・東堀のうち、中堀・東堀の形状や規模等が明らかになった。
トレンチ調査の結果、中堀の幅は約8m前後、深さは2.4~3m、東堀は幅7~8m前後、深さ1.5~2.1m前後で、いずれも堀の外側の土手状の高まりを隔てて湿地が広がっていたと考えられる。
西堀の幅は15~20mほどと、武田氏館(山梨県甲府市)の主郭をとりまく堀幅の規模と同じである。
それに比べて中堀・東堀の幅は半分以下であり、城の防衛ラインとしては狭く、山際の深い堀とその外側の湿地帯を含めて、城北側の防御施設としたと考えられる。

<出構>
調査の結果、もとの山地形から沢に向かって土を盛り上げて水平の土手にした遺構であることが明らかになった。
二つの出構の城内側には、帯郭をとりまく土塁が開口しており、天端に出ることが可能である。
出構の機能については、従来から「鉄砲陣地」あるいは「ダム的な施設」と考えられてきたが、この発掘調査では結論は得られていない。



まとめと課題

「新府城」は自然の要害を利用して築かれ、「三日月堀」・「蔀(しとみ)の構え」・「出構」など、武田氏の城郭で最も優れた技術が随所に使われた、武田流築城術の集大成としてふさわしい城郭である。
1998(平成10)年度から発掘調査が城跡北側においておこなわれ、堀や「乾門」、「出構」などの構造が明らかになりつつある。
しかしながら、2011(平成23)年度までの調査範囲は史跡指定面積の1.63%と「新府城」の構造解明にはほど遠い。
中でも「出構」の詳細な構造や機能については、発掘調査の成果に加えて、全国の城郭における類例との比較・分析が必要である。
また、井戸跡から出土の宝篋印塔に刻まれている「昌山」についても人物の特定が必要であろう。
「新府城」の全容解明には、文献史学・考古学・自然科学など学際的な研究が期待される。

<参考文献>
2017年「史跡 新府城跡ー環境整備事業にともなう発掘調査報告書Ⅴー」韮崎市教育委員会

(寄稿)勝武@相模
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