鬼小十郎の城「白石城」の謎に迫る~石垣の調査と発掘調査から~

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はじめに

真田信繁(幸村)の遺児である阿梅は、大坂の陣ののち伊達政宗の重臣・片倉小十郎の側室となり、その弟の真田大助も伊達家の家臣となった。
片倉家が代々城主を務めた白石城は謎の城と言われるほど、築城主や築城時期、二階櫓から三階櫓への改築の有無など不明なことが多く残る。
本稿では石垣の調査や発掘調査の成果を基に、白石城の謎の解明を試みる。

石垣の調査

白石城では1992年(平成4年)から1995年(平成7年)の復元工事において、石垣の調査が行われた結果、石垣の積み方は年代の古い順に野面(のづら)積み・打ち込みハギ・切り込みハギの3種であることが判明した。
野面積みは自然石をそのままに石の奥行きを長く深くして積み上げる技法で、古くから近江国滋賀郡穴太(あのう)村(現・滋賀県坂本市)の石工集団が技法を受け継いでいて穴太積みともいわれている。
打ち込みハギは石の表面をたたいたり割ったりして、不揃いな大きさの石を平らにして積み上げる技法である。
切り込みハギはタガネで四角に整形して、隙間なく整然と積み上げる技法である。





野面積みは永禄から天正年間(1558年―1593年)に、安土城(滋賀県近江八幡市)・豊臣期の大坂城(大阪府大阪市)などで使用された。
打ち込みハギは文禄年間(1593年―1596年)に現れ、熊本城(熊本県熊本市)・姫路城(兵庫県姫路市)・名古屋城(愛知県名古屋市)など慶長末年(1615年)頃までの城に多用された。
切り込みハギは徳川期大坂城(大阪府大阪市)・江戸城(東京都千代田区)など寛永年間(1624年―1645年)頃までの城や、江戸時代の石垣の修理などに使用された。

自石城の石垣には、野面積みが三階櫓と櫓から南に延びる石垣部分に、打ち込みハギが3階櫓北側端から大手門を含めた東側の石垣部分、切り込みハギ技法が白石高校裏門付近から大手―の門までの間に部分的にみられる。
その中でも3階櫓の野面積みは大きな自然石を積み上げ、裏込めの栗石もしっかり詰めている。

また、打ち込みハギによる大手門までの石垣は、平石を使用して表面は大きくみえるが厚みがなく、石垣の裏側の切断した断面をみると、古い時代の土塁であることが判明し、この上塁の表面に単に石を張り付けた石壁状の打ち込みハギ技法によるものであった。

発掘調査で発見された遺構

発掘調査は1990年(平成2年)10月から三階櫓跡と周辺の調査から始まり、その後、大手門周辺まで調査範囲が拡大され、1994年(平成6年)11月まで続いた。

遺構は、東西17m、南北13mほどの平場となっていた三階櫓跡において掘立柱建物跡、礎石を持つ建物跡、大石を据えこんだ建物跡などが発見されている。
白石城の近世以前の遺構には、三階櫓跡の南側土塁と石列(土塁)部の断面に溝跡と思われるものが確認されている。
また、大手ニノ門跡のトレンチ調査で積み手の異なる堆積土が確認され、本丸周辺の上塁が複数の盛り土を経ていることが判明した。
この場からは13~14世紀代の中世陶器をはじめとする遺物が出土しており、近世以前の遺構の存在が考えられる。

発掘調査で出土した遺物

発掘調査では1,000点を超える中近世から近現代までの陶磁器、瓦、近世の土師質土器、ガラス製品等が出土している。
その中で出土点数が最も多い近世陶磁器には、肥前、中国(明・清の時期)の青花、瀬戸・美濃に加えて、大堀相馬、小野相馬、切込など白石に近い地方窯のものもある。
これらは三階櫓跡、石列周辺(土塁部)、大手門跡周辺などで出土しており、地点により違いがあるものの、白石城全体では17世紀から19世紀にかけて出土数は増加している。
産地別にみると、17世紀代は肥前が3割を超え、18世紀代は肥前が4割弱であるが、大堀相馬及び小野相馬の地元窯産が5割を超えて急激に増加する。
19世紀代になると、大堀相馬が全体の4割弱を占め、次いで肥前、切込、瀬戸・美濃となるが、瀬戸・美濃は18世紀代と比較すると急増し、切込は19世紀に一定の割合を占めるようになる。

瓦は三階櫓跡、石列周辺、大手門跡、北側井戸間など、遺構外も含めて総計1,300kgを超える量が出上している。
種類ごとにみると、軒丸瓦は三引両文が5割、連珠巴文が4割をそれぞれ占め、九曜文、巴文は少ない傾向がある。地点ごとの出土点数は次のとおりである。
 〔三階櫓跡〕連珠巴文28点、三引両文31点、菊丸4点、九曜文1点
 〔石列周辺〕連珠巴文12点、三引両文8点
 〔大手門跡〕連珠巴文7点、三引両文14点
 〔北側井戸〕連珠巴文2点、三引両文5点
 〔勘定所〕 瓦当面のある軒丸瓦の出上なし
 〔遺構外〕 連珠巴文11点、三引両文18点、巴文1点 〔表採資料〕連珠巴文2点





軒桟瓦は主に遺構外から22点が出土しており、巴文と唐草文、九曜文と唐草文があるが、瓦当面の文様が明確に判断できる資料は少ない。
軒平瓦は、雪持笹系統が1点、唐草文が12点、その他3点が出土しているが、軒桟瓦との区別が付かないものが小破片を除くと24点出土しており、三階櫓跡、石列部、大手門で雪持笹系統のものが確認されている。
また、菊九瓦は三階櫓跡のみで4点出土し、板塀瓦は石列周辺で多く出上している。

こうした出土瓦について、仙台城二の丸跡から出土の瓦と比較すると、白石城では滴水瓦、T字瓦がないこと、白石城独自の瓦として棟込瓦があること、軒平瓦の雪持笹の文様が仙台城二の丸跡出土のそれとは異なること、が指摘されている。

陶磁器と瓦以外の遺物では、土師質土器が大手門跡周辺で最も多く出上しており、その中には焼塩壷と推定されるものもある。
また、板碑が1基出土しているが、白石市を含む刈田郡ではこれまで3基しか確認されておらず貴重なものである。

石垣調査・発掘調査からの謎の解明

白石城は前稿で述べたとおり、築城主や築城時期、二階櫓から三階櫓への改築の有無など謎が多い城である。
1992年(平成4年)から1995年(平成7年)にかけて行われた、石垣の調査や発掘調査により謎を解明する手掛かりが得られた。

まず石垣の調査により、その積み方は年代の古い順に野面(のづら)積み・打ち込みハギ・切り込みハギの3種であることが判明した。
野面積みは三階櫓と櫓から南に延びる石垣にみられ、その野面積みは穴太(あのう)積みとも称せられ、蒲生家の旧支配地である近江国滋賀郡穴太村とゆかりがある。
このことは、蒲生家が古白石城、すなわち「増岡城」を築城したという伝承を裏付けるものと考えられる。
ただし、石垣は櫓付近の一部だけであり、城の大半は土塁や空掘などの状態であり、増岡城は完成をみずに廃城となった。

その3年後に上杉家が伊達政宗に対する備えとして白石城を再建するが、本格的な石垣を積むことができず、脆弱(ぜいじゃく)な石壁状の石垣しか作れなかったのであろう。
そのために、2年後に城主となった片倉家は崩壊した石垣の修復に苦労したようで、江戸幕府に届け出た30回程の修復願いの大半は石垣であったことからも理解できる(『片倉代々記』)。
その修復は「いずれも先規の如く修復」という幕府からの指示通りにはできず切り込みハギの新しい技法で修復されたものと考えられ、その跡が東側石垣から大手―の門にかけてみられるのである。

次に発掘調査の結果については、絵図に描かれた三階櫓跡、大手一ノ門跡、大手ニノ門跡、枡形跡、土塁、井戸跡、石垣、勘定所跡の遺構が確認された。
白石城は1819年(文政2年)に全焼した記録が残るが、これを明確に裏付ける被災した大量の陶磁器、瓦は確認できなかったが、一部の遺構では焼土が確認されている。
1819年(文政2年)の火事の時点では、三階櫓は瓦葺きではなく、こけら葺き、檜皮葺であった可能性があることが指摘されている。
その三階櫓については、3時期の遺構の変遷があり、掘立柱建物跡、礎石建物跡、大石を用いた建物跡の順で新しくなることが確認されたが、二階櫓から三階櫓への改築についての知見は得られていない。





おわりに

復元工事に伴う石垣の調査や発掘調査の結果から、白石城の時期は1591年(天正19年)の奥州仕置に伴い領主となった蒲生家が増岡城として築いたとすることが妥当であろう。
二階櫓から三階櫓への改築については、発掘調査の結果から解明することはできなかった。その理由として、今回の調査の目的が復元のための基礎資料を得るということから、遺構の掘り下げがあまり行われず、遺構の時期別変遷を十分に追求できなかったことが指摘される。
今後、発掘調査の機会があれば、築城から最終期までの変遷をたどることができる調査を行なわれることと、考古資料や絵図、文献史料などの各種資料を基にした総合的な探究を期待したい。

<参考文献>
白石市文化財調査報告書第26集『「片倉小十郎の城 白石城跡発掘調査報告書』1998年3月31日 白石市教育委員会

(寄稿)勝武@相模

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