紀州九度山での真田昌幸・信繁(幸村)父子~史料から見る生活~

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はじめに

1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いで、真田昌幸・信繁(幸村)父子は西軍(石田三成)に与し、「上田城」(長野県上田市)で東軍(徳川家康)の徳川秀忠の西上を阻止するなど貢献したが、西軍は敗れた。
戦後、昌幸・信繁父子は死罪に処せられるところ、東軍に与した真田信之本多忠勝の助命嘆願により死罪を免れ、高野山へ蟄居されることになった。
同年10月、真田父子は真田家の菩提寺である高野山「蓮華定院(れんげじょういん)」に身を寄せ、
その後間もなく、妻子との生活を許された昌幸・幸村父子は、その年の冬には高野山麓の九度山(くどやま)に移り住むが、その屋敷跡は現在「真田庵」として伝えられている。
んだ。

本稿では九度山における昌幸・信繁父子の生活の様子について、残されている史料から考える。

九度山での真田父子

真田父子の九度山での生活は、信繁の妻子や上田から随行した池田綱重・原出羽守・小山田治左衛門らの家来とともに、比較的自由であった。
しかし経済的には、信之や山手殿などからの仕送りが頼りで、昌幸が国元へ送金をせがむ手紙が何通も残されているなど、非常に困窮したものであったことが次の史料からわかる。

【1603(慶長8)年3月15日 信綱寺宛真田昌幸書状】
なほなほ、銀子二匁目出珍重に候。
度々尊礼に預り候。恐悦の至に候。仰の如く、それ以来は申し承はらず候。この方替る儀なく候。御心易かるべく候。よって内府様当夏中関東下向の由風聞候の間、拙子こと本佐州定めて披露に及ばるべく候か。下山に於いては面排を以って申し承はるべく候。恐惶謹言。
安房
卯之三月十五日 昌幸(花押)
信綱寺
〔解説〕
高野山で蟄居中の昌幸が長兄・信綱の位牌所である信綱寺(長野県上田市)に返信した書状である。
昌幸が家康側近の本多佐渡守正信(史料では「本佐州」)に赦免について家康への取り成しを頼んでいることがわかる。

【(年次不詳)正月5日 真田昌幸書状】
追て、お蔵金両人の衆に相預け進ずべく候。先ず此の口留め候て何方定めて相届くべく候。先ず残り二十両の金、早々指し上げられるべく候。以上。
極月十九日の書状披見せしめ候。蔵人所(真田昌親)より臨時の合力四拾両の内二拾両、原半(原半兵衛)手前より指し上げ候。慥かに請取り候。爰元借儀あまた候間、如何共当年の仕合成らず候条、残二拾両の事一日も早く上げ候様に、請取り候て、池長門(池田長門守)者に□□必ず/\油断有るべからず候。尚々残二拾両上げ候とも、爰元借儀多く候間何方へも相届け間敷く候間、池長門談合有り当年の合力、先ず/\春内に十枚分も上げ候様に肝煎尤に候。調候は、先ず五枚も六枚も其の方持参致すべく候。委細角右衛門・半左衛門申し遺すべく候。恐々謹言。
安房
正月五日     昌幸(花押)
〔解説〕
九度山での生活費として真田昌親(昌幸の3男)より臨時の扶助金40両のうち20両は、原半兵衛から送られ確かに受け取ったが、借金が多いので、残り20両も一日も早く送ってほしいと、昌幸が国元へ催促している書状である。

【(年次不詳)4月27日 真田信之宛同昌幸書状】
尚々其の後御気相(合)如何候哉。承り候て飛脚を以って申し入れ候。我等煩の儀分別致さざる病に候間、迷惑御察し有るべく候。何様伝言を以って申し入るべく候。以上。
態飛脚を以って申し入れ候。春中は御煩散々の様に承り候間、案じ入り候へ共筆に尽し難く存じ候処、御煩平癒の由、御報に預り候ひつる間、満足これに過ぎず候。弥(いよいよ)御気相能く候由、目出此の事に候。申すに及ばず候へども、御油断無く御養生専一に候。然れば我等儀、去年病気の如く、当年も煩候間、迷惑御推量有るべく候。十余年存じ候儀も、一度面上を遂げ候かと存じ候処、只今の分は成り難き望に候。但し養生の儀油断無く致し候間、目出度く平癒致し、一度面談を遂ぐべく存じ候間、御心安かるべく候。
恐々謹言。
卯月二十七日     安房 昌幸(花押)
豆州参
〔解説〕
昌幸最晩年の1611(慶長16)年のものと考えられており、昌幸最後の書状であるが、筆跡は明らかに幸村のものである。
信之の病気回復を喜ぶ一方、昌幸自身が病気で困惑している状況を述べ、配流生活も十余年、一度は会いたいものだが、それもかなわない望みだと記しながら、養生して平癒し一度は顔を合わせたいと思っているので安心してくれ、と結んでいる。

昌幸没後の信繁の配流生活

1611(慶長16)年6月4日に真田昌幸は65歳で没した。
真田信之は父の死を弔いたいと、本多正信に相談するが、正信は昌幸の死を悼む一方、昌幸は流罪人であり「公儀御憚りの仁」であるので、幕府の許可を得た上で弔うようにと諭している。

昌幸の死後、従っていた家臣の多くが上田に帰国し、信之の家臣になった。
残って真田信繁の家臣は高梨内記ら2~3名であり、信繁の生活は困窮し退屈なものであったことが次の史料から想像できる。

【(年次不詳)9月20日 真田信繁書状】
追って一度面を以て一折興行望み居り候。同心たるべしと存じ候。以上
其の後申し承らず候。仍ていづ殿(真田信之からも)より此の方堪忍の様子申し入るべきの由、仰せ遣わされ候間、書状を以て申達し、然るべき様仰せ入れられ給るべく候。爰許躰万事御推量有るべく候。いづ殿沼田へ越され候由承り候。此の節爰元堪忍の様子も仰せ付けられ下され候様に存ぜしめ候。御つゐで候は、御取成し頼み入り申し候。猶次郎左衛門より申すべく候。
恐々謹言
真左衛門佐
九月廿日       信繁(花押)
〔解説〕
宛名は欠くが、信之から九度山での生活の様子を知らせるように伝えてきたので手紙を出すが、貴方からもよろしく伝えて頂きたい、こちらは相変わらずの窮乏生活である、という内容の書状である。

【(年次不詳)極月晦日 木村土佐守宛真田信繁書状】
尚々御状祝着申し候。いつも/\御床敷く存ずる計りに候。其の元連歌しうしんと承り及び候。此の方にても徒然なぐさみに仕り候へとすゝめられ候かた候へども、はや/\老のがくもんにて成り難く
候。御推量有るべく候。彼是面上にて申し承りたき計りに候。
示に預り候。ことに歳暮の御祝儀として鮭送給候。扨々遠路御志共申し尽し難く候。仍て伊豆殿江戸に於て御前御仕合共の由、目出珍重に存じ候。次に此の方相替る子細にこれなく候。御心安かるべく候。去り乍ら当冬は万不自由にて一入うそざぶく御座候。爰元の為体御察し有るべく候。一度御面上に咄し申し度く候。猶此の人申すべく候。
恐々謹言。
真左衛入
極月晦日       信繁(花押)
木村土佐守殿
□返報
〔解説〕
昌幸没後の1613(慶長18)年頃のもので、真田家重臣の木村土佐守網茂が信繁のもとへ歳暮として鮭を送りくれたことについての礼状である。
信繁は書状の中で「当冬は万(よろず)不自由にて一入(ひとしお)うそざぶく」と配所での心細い様子を訴えている。

おわりに

九度山での真田昌幸・信繁父子の配流生活は、家臣16名を引き連れてきたことなど、ある程度の自由は認められていた。
しかしながら、その生活は真田信之・山手殿(昌幸の正室)の仕送りに頼らざるを得ず、昌幸が幾度か送金をせがむほど、窮乏していたことが史料からわかる。
また、昌幸は1611(慶長16)年に没するまで「公儀御憚りの仁」として流罪人であったことも知ることができる。
昌幸没後、従っていた家臣の多くが上田に帰国し、残された信繁が不自由なくたびれた生活を送ったことも史料から伺うことができる。

こうした九度山での窮乏生活を経て、信繁は1614(慶長19)年10月、九度山を抜け出し「大坂城」に入城し、真田丸を巡る奮戦などで「日本一の兵」と呼ばれるほど武名を高めた。
本稿で示した史料からは、一部で伝えられている、日ごろ家臣たちと剣術修行を続け、真田家再興のために徳川を倒す情念を燃やしていた姿を想像することができなかった。
また、信繁の妻・竹林院の考案した真田紐を家臣が手分けして行商して糊口を凌ぎ、この行商により各地の情報を集めることができた、ということも明らかにできなかった。

今後も史料を探し求めるとともに、考古資料や民俗資料、伝承などの各種資料から、九度山における真田父子の生活の実態について探究していく必要があると考える。

(寄稿)勝武@相模

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