真田父子が攻略に参加した「鉢形城」~歴史・構造・整備状況~

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概要

豊臣秀吉小田原攻めの際、北国勢に属した真田昌幸と信幸・信繁父子は、「松井田城」(群馬県安中市松井田町)・「箕輪城」(群馬県高崎市箕郷町)など上野(こうずけ)にある北条氏の城攻めで活躍した。
その後も「鉢形城」(埼玉県大里郡寄居町大字鉢形)・「忍城」(埼玉県行田市)といった武蔵の北条氏の有力支城の攻略にも参加している。

「鉢形城」は深沢川が荒川に合流する断崖上に立地する天然の要害で、1590(天正18)年の小田原攻めのときは、後北条氏3代目の北条氏康の四男、北条氏邦が城主を務め、後北条氏の北関東支配の拠点であった。




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「鉢形城」へのアクセスは、JR八高線・秩父鉄道線・東武東上線の寄居駅から徒歩約25分、あるいは寄居駅から東秩父村営バス「和紙の里」行きで「鉢形城歴史館前」を下車して徒歩約10分である。

歴史

「鉢形城」の歴史は関東管領山内上杉氏の家宰であった長尾氏をめぐる相続争いの中で、1476(文明8)年に長尾影春が築城したことに始まる。
その後、後北条氏3代の北条氏康の五男・北条氏邦によって整備拡張され、上野国支配の拠点として、また甲斐・信濃からの侵攻への備えとして重要な役割を担った。

「鉢形城」をめぐる主な出来事を整理すると次のようになる。
1488(長享2)年、 扇谷上杉定正が「鉢形城」に攻め寄せるが、上杉顕定が守る「鉢形城」を落とせず撤退
1494(明応3)年、定正が再度「鉢形城」を攻める途中、落馬して死去
1512(永正9)年、上杉憲房(顕定の養子)の軍勢により「鉢形城」が落城、城主の上杉顕実(顕定の養子)は逃亡
1546(天文15)年、北条氏康が上杉朝定・上杉憲政に勝利して武蔵国における覇権を確立
1564(永禄7)年、北条氏邦(氏康五男)が藤田康邦の婿になり 「鉢形城」へ入城、以後、後北条氏の北関東支配の拠点
1569(永禄12)年、武田信玄による攻撃1574(天正2)年、上杉謙信が城下に放火

以上のように、「鉢形城」は扇谷・山内の両上杉氏の対立の舞台となり、後北条氏の有力支城として整備・拡張がおこなわれた。




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そして、1590(天正18)年の秀吉による小田原攻めにおいて、前田利家上杉景勝、真田昌幸ら3万5千の北国勢が「鉢形城」に攻め寄せ、このとき、真田昌幸と信幸・信繁父子は城周辺の砦を攻略した。
「鉢形城」の守りは固く、約1か月の籠城戦の末、守将の氏邦は城兵の助命と引き換えに守開城した。

構造(縄張り)

「鉢形城」は東西約800m、南北約400mの規模で北側を流れる荒川の段丘を北限の防備としている。
「本曲輪」は荒川の段丘を背後にして「御殿曲輪」と「御殿下曲輪」からなり、「御殿曲輪」は東から西にかけて長くのび、城の最高地に位置する。
そこから南東側の一段低い位置に「御殿下曲輪」があり、その北側には、「御殿曲輪」からのびた高さ約4mの土塁が現存する。

「御殿下曲輪」の北側には「笹曲輪」、南側に「ニの曲輪」、さらにその南側には、秩父孫次郎が防備を請け負ったことから「秩父曲輪」と呼ばれる「三の曲輪」が続く。
「御殿下曲輪」の北東側には深沢川が流れるが、その対岸には、16世紀中頃に北条氏邦によって「外曲輪」が設けられ、家臣団の屋敷が点在し、その外側に城下集落が存在したと考えられている。
また、深沢川に沿って「御殿下曲輪」・「二の曲輪」から突起した場所には兵糧蔵が置かれていた。
そこは「兵糧曲輪」と呼ばれ、現在約3mの土塁が残る。

                            

調査・整備状況

「鉢形城」は堀や土塁、それらで区切られた曲輪も良好に残り、文献資料も豊富に残されていることから、1932(昭和7)年4月に国の史跡に指定されている。
1997(平成9)年度から現在まで継続的に発掘調査がおこなわれ、その成果をもとに、馬出や堀・土塁の復元整備が進められている。
1997(平成9)年度から2001(平成13)年度まで「笹曲輪」、「二の曲輪」、「三の曲輪」などで発掘調査がおこなわれ成果を得ている。主なものの概要は次のとおりである。

「笹曲輪」では、1999(平成11)年度の調査において、石組溝や井戸跡などが発見され、大きな石材を使用した石垣が一部確認されている。
「二ノ曲輪」では、1997(平成9)年度の調査において、掘立柱建物跡や鍛冶工房が、また「三ノ曲輪」との間にある堀に沿って、土塁の基底部が確認された
「三ノ曲輪」では、1998(平成10)年度から2001(平成13)年度の調査において、北側部分で石積土塁や庭園跡が確認され、南側部分で門跡が確認されている。
庭園については、池遺構や堀立柱建物跡16ケ所のほか柵列・土坑・溝などが確認されているが、礎石建物は確認されていない。
池遺構は立石の抜き取り跡や導水施設は確認できず、排水施設は素堀りの溝が確認されている。
南側の門跡は検出された礎石と石階段から四脚門と想定された。

他には、「二ノ曲輪」と「三ノ曲輪」との間にある「角馬出」において、門跡や石積土塁が確認されている。
ちなみに、「角馬出」は四角形を呈し、後北条氏系城曲輪の特徴の一つである。




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以上のような発掘調査の成果をもとに、馬出や堀・土塁の復元整備が進められている。
特に「三ノ曲輪」においては、石積み土塁や四脚門、池などが戦国時代の築城技術や絵画なとの各種資料を踏まえて復元されている。
例えば、四脚門や四阿(あずまや)の復元では「洛中洛外図屏風」に描かれている細川管領邸の板屋根の意匠を採用し、四脚門では土塀の一部も復元している。

なお、「外曲輪」には2004(平成16)年10月に開館したガイダンス施設の「鉢形城歴史館・寄居町埋蔵文化財センター」があり、「鉢形城」や周辺地域の文化や歴史を学習、体感できる。
また、「笹曲輪」には1/250の復元地形模型が設置され、鉢形城跡の全容を知ることができる。

まとめ

豊臣秀吉による小田原攻めにおいて、真田昌幸と信幸・信繁父子は「鉢形城」攻略にも参加した。
「鉢形城」は、1476(文明8)年に長尾影春が築城して以来、山内・扇谷の両上杉氏の対立など関東の戦国争乱の舞台となった。
北条氏邦の入城後は、城が拡張され後北条氏の有力支城としての役割を十分に果たし、小田原攻めでは、約1ヶ月の籠城戦によく耐えたが開城した。
徳川家康の関東入り後は、成瀬正一、日下部定好が代官として入城し周辺の統治をおこなった。




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「鉢形城」は1932(昭和7)年4月に国の史跡に指定され、1997(平成9)年度から継続的に発掘調査がおこなわれ、その成果をもとに史跡公園として整備されている。
今後も発掘調査をはじめ文献調査などの多彩な調査により、「鉢形城」の全貌をより探究することで、真田父子の活躍の様子も明らかになるであろう。

(寄稿)勝武@相模

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