龍口寺(藤沢市片瀬)にのこる旧松代藩邸の御殿~移築経緯を探る~

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「龍口寺」の大書院

江ノ島からみて北東の高台にある寂光山「龍口寺」は、1337年(延元2年)に日蓮宗の開祖である日蓮の弟子日法が、「龍ノ口法難の霊跡」として一堂を建立したのが始まりとされている。
「龍ノ口法難」とは、1271年(文永8年)に日蓮が処刑されそうになった事件の呼称である。
「龍口寺」へは、江ノ島電鉄「江ノ島駅」下車で徒歩3分、あるいは小田急江ノ島線「片瀬江ノ島駅」下車し徒歩15分で着く。

境内には1832(天保3)年竣工の本堂をはじめ、1910(明治43)年竣工の五重塔、仏舎利塔など多くの建造物が建つが、本堂の手前に大規模な御殿建築である「大書院」が位置する。
この「大書院」は昭和初期に信濃国松代藩(長野県)の藩邸を移築した建物であると伝えられている。
松代藩藩邸の建物が明治になって養蚕で財を成した窪田家に引き取られ、昭和初期(一説では昭和10年)に「龍口寺」に移築されたという。
「大書院」は欅(けやき)造りの瓦葺き屋根で、破風や梁の彫刻と十二間一本の杉桁は大変素晴らしいという。

松代藩(真田家)

松代藩(真田家)は1622(元和8)年に、真田昌幸の長男の真田信之が「上田城」から13万石で入封、1658(明暦4)年に3代幸道のときに3万石を分地し、以後10万石として約250年間続いた。
その間、財政難や百姓一揆などの危機を切抜けながら、幕末には8代幸貫が老中として幕政に関与し、また佐久間象山らの活躍もあって、松代藩は明治維新の際に大きな役割を果たした。
1871(明治4)年の廃藩置県により松代県となり、その後長野県に編入された。

居城の「松代城」は1872(明治5)年の廃城令で廃城になると、城内の建物や土地の払い下げが行われ、城の跡地の大半が桑畑や麦畑になるなど荒廃した。
これを憂慮した旧藩主の真田家は1886(明治19)年に本丸跡地を購入して当時の松代町に寄附し、町は「松代城」本丸跡遊園地として整備して一般に開放している。
その後、「松代城」は1964(昭和39)年に本丸部分が県の史跡になり、1981(昭和56)年には本丸を中心とした旧城郭域の一部が新御殿とともに国の史跡に指定された。
そして現在、長野市(松代町と合併)により発掘調査等に基づく復元整備が進められている。

松代藩江戸屋敷

江戸時代、諸大名は幕府から複数の屋敷用地が与えられた。屋敷の用途と江戸城からの距離により、上屋敷・中屋敷・下屋敷を設けたが、それぞれの性格は次のとおりである。

<上屋敷>
藩の政治的機構として機能、表御殿・奥御殿・庭園・長屋・藩の政務を行う施設・厩舎などで構成

<中屋敷>
上屋敷の控えとして、多くは隠居した主や成人した跡継ぎの屋敷として使用

<下屋敷>
下屋敷は主に庭園など別邸として機能、江戸城から離れた郊外に置かれ、上屋敷や中屋敷と比較して大規模

明治維新後、大名家の上屋敷は江戸城などとともに、明治政府に接収され、跡地は官庁や大学、後には企業の土地などに利用された。
一方、中屋敷や下屋敷は旧大名が所有し続け、邸宅として利用されたが、不要になったり維持が困難になったりした屋敷は政府や民間に売却された。

松代藩真田家は上屋敷と3箇所の中屋敷、それと下屋敷を持っていた。
上屋敷は現経済産業省別館(千代田区霞ヶ関)、中屋敷は現アメリカ大使館宿舎(港区六本木)・現参議院会館(千代田区永田町)・西新橋辺りの3箇所、下屋敷は佐久間象山砲術塾跡(江東区永代)である。
これらのうち、現在、アメリカ大使館宿舎が建つ中屋敷だけが場所や形を変えずに明治維新を迎え、 廃藩置県の折りにも取り壊されず、関東大震災のときにも奇跡的に残された。
この中屋敷は太平洋戦争の戦火から逃れるため、鉱山王である中島信吉氏の邸宅として、長野県佐久市野沢に移築された。
中島邸はその後、佐久市に売却されたが、中島公園として整備を進める中で、1984(昭和59)年に屋敷部分が鹿教湯温泉(小県郡丸子町)のホテル天竜閣に移築され今に至っている。

「龍口寺」の大書院の移築経緯

現在「龍口寺」にある大書院が、松代藩邸のどのような屋敷であったのかは不明である。
ただし、上屋敷は明治政府に接収されたと考えられる。
前述したように、虎ノ門にあった中屋敷は鹿教湯温泉( 小県郡丸子町 ) に移築されているので、それも除外できる。
残り二ヶ所の中屋敷か下屋敷、または江戸ではなく国元松代の藩邸が考えられるが、根拠となる資料を見つけられなかった。
「龍口寺」のホームページには「明治初年、信州松代で蚕糸業で財をなした窪田家が造った蚕糸御殿で、 昭和10年に移築された。」とあるが、移築に関する資料はなく、この記載からは「龍口寺」の大書院が松代藩邸の建物であったかも不明である。

(寄稿)勝武@相模
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