真田幸綱(幸隆)ゆかりの「箕輪城」~歴史・特色・史跡整備~

箕輪城



はじめに

真田幸綱(幸隆)は、1541(天文10)年5月の海野平の戦いで敗北すると、海野一族ともに上野(こうずけ)国に逃れ、「箕輪(みのわ)城」の城主・長野業正(なりまさ・業政とも)のもとで3年間ほど亡命生活を送ったとされている。
箕輪城」は榛名山東南麓の丘陵上に位置する西上野(にしこうずけ)地方の中核的な城郭で、関越自動車道前橋ICから11㎞ほど、 JR高崎駅からは群馬バスの箕郷(みさと)行に乗り箕郷本町で下車、徒歩20分ほどで到着する。
今から500年ほど前の戦国時代初期に、長野氏によって築城、武田氏・織田氏・北条氏・井伊氏の時代を経て1987(昭和62)年に国指定史跡に指定され、2005(平成17)年には日本城郭協会により「日本百名城」に選定されている。
以下、「箕輪城」の歴史や構造上の特色、現状などについてまとめる。

長野氏時代の「箕輪城」

「箕輪城」の築城年代については、長野業尚(なりなお)が1505(永正2)年頃や1512(永正9)年とする説、また、明応年間に業尚が「鷹留(たかとめ)城」を築き、1526(大永6)年に業尚の子憲業(のりなお)が「箕輪城」を築いたとするなどの諸説がある。
ちなみに「箕輪城」と「鷹留城」とは「別城一郭」の関係にあり、両城が連携して敵の攻撃に備えたという。

長野氏は関東管領・山内上杉氏に属して上野国西部で勢力を誇った。中でも長野憲業の次男・業正は関東管領・上杉憲政の重臣として、上野国西部の豪族ら(「箕輪衆」)をまとめて西上野周辺の盟主となり勢力を拡大させた。
1541(天文10)年5月の海野平の戦いに敗れ、「羽根尾城」に逃れていた真田幸綱らが「箕輪城」に身を寄せ、3年間過ごしたのはそのころである。
1544(天文13)年、幸綱は武田晴信(信玄)に臣従すべく密かに「箕輪城」を脱出するが、その際、業正は、幸綱一族を皆殺しにすべし、という家臣からの諫言を退け、城内に残っていた荷物を下仁田あたりまで届けたという逸話が伝えられている。

1546(天文15)年、業正の主君・上杉憲政は、河越の夜戦で北条氏康・北条綱成に敗れ「平井城」に退くが、1552(天文21)年3月にはそこを退去し越後国(新潟県)の長尾景虎(上杉謙信)の許へ逃れた。
その後も業正は西上野の盟主として北条氏との抗争を続けたが、1554(天文23)年に武田・今川・北条の三氏の同盟(「甲相駿三国同盟」)が成立すると、武田信玄による西上野の侵攻が激しくなった。
業正は1557(弘治3)年から断続しておこなわれた武田勢の攻撃をよく防いだが、1560(永禄4)年に没し、三男の業盛(なりもり)が跡を継いだ。

信玄による西上野侵攻は激しさを増して周辺の諸城が落城し、信玄に従う諸将が多くなるなど、1565(永禄8)年頃には「箕輪城」は孤立していった。
そして翌1566(永禄9)年、信玄の2万の大軍が「箕輪城」に押し寄せると、氏業は全兵力を「箕輪城」に集め籠城戦を展開するが、9月末に氏業以下一族・郎党は「御前曲輪」で自刃し「箕輪城」は落城した。





長野氏以降の「箕輪城」

武田氏の持城となった「箕輪城」の城代には、内藤昌豊らとともに真田幸綱が任じられた。1567(永禄10)年3月8日には、信玄が真田幸綱・信綱が「白井城」を攻撃したことをほめて「箕輪城」の普請と知行割りをおこなうように指示している。
1575(天正3)年の長篠の戦い後は、討死にした昌豊の子・昌月(まさあき)が城主となる。

武田氏が1582(天正10)年2月の天目山の戦いで滅亡すると、「箕輪城」には織田信長の家臣で上野国を得た滝川一益が入城する。
一益は間もなく「厩橋(まやばし)城」に移るが、昌月も近隣の領主とともにこれに従っている。
同年6月、信長が本能寺の変で倒れると、北条氏政・氏直父子の大軍が上野国に侵攻、神流川の戦いで一益を破り、「箕輪城」には氏政の弟・氏邦が入城する。

1590(天正18)年、豊臣秀吉小田原攻めの際、「箕輪城」は前田利家上杉景勝連合軍の攻撃により開城した後、徳川家康が関東に入封すると、「箕輪城」には12万石を与えられた井伊直政が入城した。
直政は「箕輪城」を近世城郭に改変したが、1598(慶長3)年に「高崎城」に移り、それに伴い「箕輪城」は廃城となった。

「箕輪城」の構造

「箕輪城」は本丸や二の丸などがある丘陵部を中心に、西北の「新曲輪」、南側の平地からなり、城郭の範囲は東西約50m、南北約1,100mの面積約36ヘクタールにおよぶ平山城である。
その縄張は北西から南東方向にのびる尾根上に主要な曲輪(くるわ)を直線的に配置し、これらの両側にも多数の郭を配置している。
南北約50m、東西約100mの方形の本丸と、その北の「御前曲輪」が城の中心部で、その周囲を最大幅約40m、深さ約10mの巨大な空堀がめぐる。
「御前曲輪」は本丸の一部であり、古図などから「城の精神中枢」であったという説もある。 「箕輪城」が落城したとき、城主・氏業はここの持仏堂で自刃したと伝えられている。
二の丸の南東側、「郭馬出」との間には、幅約30m、深さ約15mの大堀切が丘陵部を南北に分断しており、「一城別郭」と呼ばれる縄張としている。
大堀切の北側は南側に比べて大規模な堀や馬出などを持つ精密な縄張となっており、北側部分は北条氏・井伊氏の時代に改修されたと考えられている。

「箕輪城」の整備

高崎市では、1998(平成10)年より史跡整備に伴う発掘調査をおこなっており、その結果、最後の城主・井伊直政の時期を中心に、門跡、石垣、石組の排水溝、土塁、堀、掘立柱建物が確認されている。
その中でも大規模な堀や「虎口(こぐち)」と呼ばれる出入口の周囲が良く残されており、こうした特色を活かすべく、2011(平成23)年度から史跡整備が進められている。

2002(平成14)年度の発掘調査では、「郭馬出」西側の「虎口」の場所で 16世紀末( 井伊氏時代)にあたる城門の柱の礎石が8個確認された。
この城門は、発掘調査がおこなわれた城門の中では幅5.73m、奥行3.48mと最大規模を誇るものである。
この「郭馬出」の櫓門(やぐらもん)は 2014(平成26)年度から伝統的工法による復元が進められ、2016(平成28)年11月23日から公開されている。





おわりに

真田幸綱が3年間、亡命生活を送った「箕輪城」は、1500年頃から100数年間、長野氏・武田氏・織田氏・井伊氏の主要な城郭として、西上野地方の歴史に重要な役割を果たした。
同じ時期に長野氏によって築かれた「鷹留城」とは「別城一郭」の関係にあり、二つの城の連携による強固な防御・攻撃体制を築いていた。
また、大堀切によって丘陵部の北側と南側とで「一城別郭」の縄張としており、城の構造に違いが見られる。
北側は北条氏・井伊氏時代に改修され、現在の「箕輪城」はその当時の姿に近いという。

国指定史跡である「箕輪城」は1998(平成10)年から発掘調査がおこなわれ、2011(平成23)年度からは史跡整備も進められており、「郭馬出」の櫓門が2016(平成28)年11月に復元・公開されている。
今後の発掘調査等の進展によっては、真田幸綱が3年間過ごした屋敷跡が発見される可能もある。

【参考資料】
 *高崎市ウェブサイト「真田幸隆の出奔見送る長野業政」
 *平井 聖 ほか(著)  1979年『日本城郭大系』第4巻 茨城・栃木・群馬
 *「日本百名城・箕輪城WEB散歩」

(寄稿)勝武@相模
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