真田信繁は真田昌幸の次男として上田で生まれたが、出生年については1567(永禄10年と1570(元亀元)年とする説がある。「幸村」の名で知られているが、当時代の確実な資料では確認できないので「信繁」を使用する。
真田一族は武田信玄に仕えていたが、武田氏滅亡後、信繁は人質として赴いた「春日山城」で上杉景勝に仕えた後、1586(天正14)年に豊臣秀吉の臣となった。その間、父昌幸や兄信幸とともに第一次上田合戦等で活躍している。
1594(文禄3)年に従五位下左衛門佐に叙任され、大谷吉継の女を正室に迎えた。
秀吉の死後は父昌幸、兄信幸とともに徳川家康に臣従したが、1600(慶長5)年の「関ヶ原」の戦いでは、当初は昌幸・信幸とともに東軍(家康方)に属し上杉攻めに向かった。その途中石田三成らの挙兵を犬伏で知るとすると、「犬伏」(栃木県佐野市)で激論の末、兄信幸と袂を分かち(「犬伏の別れ」)、父昌幸とともに西軍(三成方)に味方した。
「上田城」に戻ると、昌幸の卓抜な戦略のもと、中山道を西上する徳川秀忠の3万8千の大軍を「上田城」に引き留めた。そのため秀忠の大軍は関ヶ原の戦場に間に合うことができなかったのである。
しかし、関ヶ原で西軍が敗北したために、 昌幸・信繁父子は信之(信幸から改名)の必死の助命嘆願もあって一命をとりとめ高野山に追放となった。
昌幸・信繁父子は真田氏と関係の深い「蓮華定院」に落ち着いた後、麓の九度山に居館を築き配流生活をおくった。現在の「善名称院真田庵」と伝えられており、境内には昌幸の墓がある。
九度山での生活は、監視役の浅野家からの年50石の支給と兄信之・母山手殿からの仕送りに頼らなければならない苦しいものであったという。昌幸が国元(上田)へ借金を頼む書状が何通も残されている。
父子は赦免を期待しており、配流になってまだ2年余りの1603(慶長8)年3月、昌幸が家康の重臣本多正信に赦免について家康への取りなしを頼んでいる書状も残されている(「慶長8年3月15日 信綱寺宛真田昌幸書状」)。
1611(慶長16)年6月、昌幸が配所の九度山で没した後も信繁は家族と数少ない家臣とともに14年間、九度山で窮乏生活を送った。
1614(慶長19)年になると、江戸幕府と豊臣秀頼方との対立は避けることができない状況になり、豊臣方は牢人を盛んに募集した。
九度山の信繁のもとにも誘いの使者が来て、信繁は九度山を抜け出して「大坂城」に入城したのである。
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ただし、現在、復元整備されている「大坂城」は、大坂の陣の後に徳川家が再建したものを基にしており、豊臣時代のものではない。現在、そびえ立つ天守閣も1931(昭和6)年に市民の手で復元されたものである。 豊臣時代の「大坂城」の様子は文書、絵図、考古学資料などから知ることができる。
秀吉は1583(天正11)年から「大坂城」の築城を始めるが、1584(天正11)年1月にルイス・フロイス(Luis Frois)がイエズス会総長にあてた報告書(以下、「フロイス報告書」とする)には築城開始当初の様子が記されている。
それからは、築城工事に日々2、3万人から5万人が動員されたことや、強制的に大坂へ移住させられた諸大名とその家臣達の邸宅が40日間で7千軒も建てられたことなど、突貫工事の状況を知ることができる。
1583(天正11)年11月には天守の土台が完成し(『柴田退治記』)、引き続き本丸御殿や山里丸の茶室なども完成し、秀吉は1585(天正12)年8月8日に山崎城から大坂城へ正式に移っている。また1586(天正13)年4月27日には大坂城を訪れた本願寺の下間頼康を天守に案内している(『貝塚御座所日記』)。
本丸については、1585(天正13)年10月1日付のフロイス報告書に、「安土城」より広大で各城門が鉄で覆われていること、建物は宏大で精巧で、その中でも塔(天守)は金色及び青色の飾りが付され荘厳に見えることなど、豪壮・華麗さを余すことなく記している。
本丸の規模は「天正年間大坂城本丸小指図」によると、周囲の堀を含めて東西約300m ×南北約450mの長方形に収まる程度であり、徳川時代と比べると少し小さい 。その形態は、東・西・北の三面を水堀が鉤形に囲み、南面と西南部は空堀となっている。
大手の虎口(入口)は南面中央より西寄りにあり、土橋を渡って西向きに城門(「桜門」)を入り塀に沿って右折すると「表御殿」に至る。
その「表御殿」には「御遠侍」・「御対面所」・「御台所」・「御料ノ間」・「御黒書院」・「御文庫」・「御風呂」・「御座ノ間」などと名付けられた建物が見られる。「表御殿」の東側を区切る南北方向の長大な「多聞櫓」(長局風の櫓)は、本丸東南隅の隅櫓と接続している。
「表御殿」は豊臣政権の政庁として、朱印状等の公文書の発行や命令、指示の伝達、公的な応接などが行われ、また、一番奥まった所の「御座ノ間」で政治に関する議論が行われていたものと考えられる。
「表御殿」の北側には二重の石垣で囲まれた100mほどの一画が描かれており、その「詰の丸」には「奥御殿」を構成する建物が並ぶ。この「奥御殿」には「御遠侍」・「御広間」・「御対面所」・「小書院」・「御焼火ノ間」・「御納戸御殿」・「御風呂屋」・「御物土蔵」などの名称の建物が見られ、名称が記載されていない建物もいくつか見られる。
「奥御殿」の東北部、「詰の丸」の東北隅には、東西十二間、南北十一間の規模を誇る「御天守」が描かれている。
「大坂城」は、二の丸・三の丸・総構も含め、秀吉が1583(天正11)年から1598(慶長3)年までの15年余をかけて築城した「天下人」としての権力・財力を象徴する豪壮・華麗な城郭であった。
しかし、1614(慶長19)年の大坂冬の陣で、すべての堀が埋められ、翌1615(元和元)年の大坂夏の陣で本丸も壊滅した。1620(元和6)年から1629(寛永6)年まで江戸幕府による再建がおこなわれたが、石垣をはじめ遺構すべてが地上から消滅し、秀吉時代の大坂城は地中に埋没している。
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こうした「大坂城」に、信繁は子の真田大助(幸昌)や上田以来の旧臣らとともに入城したのである。
※豊臣時代の「大坂城」については「城郭からみた豊臣秀吉の権力 ~秀吉の城と城郭政策(著作・武井政弘)を参照
(寄稿)勝武@相模
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