武田氏の本拠「躑躅ヶ崎館」の特徴~現状観察から探る~

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躑躅ヶ崎館

山梨県甲府市に所在する躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)は、1519年(永正16年)の築城から1581年(天正9年)年に新府城に移転するまでの約60年間、武田信虎・武田信玄・武田勝頼の3代の居館となり、領国経営の中心であった。
武田氏滅亡後の織田信長・徳川家康の時代にあっても、躑躅ヶ崎館は甲府城が築城されるまでの間、甲斐国(山梨県)統治の中心として再び活用された。





1938年(昭和13年)には、戦国大名の居館の構造を今日に伝える重要な文化財として国の史跡「武田氏館跡」に指定された。
現在、躑躅ヶ崎館には1919年(大正16年)に創建された武田神社が鎮座しているが、土塁や堀・枡形虎口・馬出・石積みなど、往時の姿を彷彿とさせる遺構が随所に残されている。

本稿では、現在の躑躅ヶ崎館に残存している遺構等を観察しながら、館の特徴について探究する。
なお、館の築城経緯や構造(縄張り)等の変遷については、以下に整理しているので、参照いただきたい。

戦国大名・武田氏の「躑躅ヶ崎館」~真田氏ゆかりの館の変遷~

東曲輪・中曲輪(主郭)

躑躅ヶ崎館の主郭部である東曲輪・中曲輪の遺構の多くは、武田神社の造営により壊されているが、曲輪を巡る堀や土塁には往時の面影が残り、ある程度全体像を復元することができる。
大手口は東曲輪の東側にあり、その土橋は南北が石積みになっているが、南北では石の積み方が異なっている。
南側の石積みは大きさのそろった石材を高さ約4.7mまで積み上げ、その面は比較的平らで大きく、横目地(よこめじ)がそろう箇所が多い。
一方の北側は、高さが南側より1mほど低く、中段にテラスを設けて二段に分けて積んでおり、積み方の違いは構築した時期の差であり、南側は武田氏滅亡後の豊臣秀吉の時期、北側はそれ以前と考えられている。

大手口付近の堀は幅約17m、深さ約8mを測り、その堀には幅約8.6mの石積みによって脚部が補強された堅固な土橋が設けられている。
土橋を渡ると南北に現状の高さ約3mの土塁が残されており、この土塁が東曲輪・中曲輪の四面を囲んでいる。
土塁の間の通路の両脇には、大手門の土台であったと考えられる約70㎝四方の礎石が二つ現存している。
大手口の前には、馬出しが設けられ、その前方には土塁と幅12mを超える惣堀が北の御隠居曲輪まで続く。





東曲輪の北虎口も大手口と同様、土塁を切断して幅約5.4mの通路とし、外側は枡形(ますがた)の形状を呈している。
幅約14mの堀には土橋が設けられ、この土橋は下方約2mの所に他の土橋にはない段差があるが、これは補強のための工夫と考えられている。
東曲輪の北側の御隠居曲輪にも幅12mを超える土塁の痕跡がみられ、往時の姿を想像することができる。

東曲輪・中曲輪の内部は現在、武田神社が建っているため、かつて二つの曲輪を仕切っていた土塁は痕跡さえ残っておらず、三箇所に残る井戸が唯一の遺構といえる。
井戸はいずれも武田氏の時期のものと考えられており、中でも東曲輪に残る円形の石組井戸が武田信玄らの居館としての面影を伝えている。

中曲輪の北西隅には、四周を巡る土塁の角地を利用した天守台が残されているが、現在は非公開である。
天守台は東西約16m・南北約21mの広さと、東・南面が約8m、北・南面が約1mの高さを有し、登り口は北と南の二箇所に間口約3mの石段が設けられている。
石垣は、大きさが一定の自然石を積み上げた野面(のづら)積みで、1558年~1570年(永禄年間)の絵図に記載されている「太郎様御座所」が、1590年~1596年(天正18年~慶長元年)に天守台として改修されたものと考えられている。

西曲輪

中曲輪の西側に設けられた土橋を渡ると西曲輪で、曲輪は東西約67m、南北約12mの広さを有する。
西曲輪の北側には味噌曲輪へ、南側には梅翁曲輪へと至る枡形虎口が各々設けられている。 
北側虎口は、土塁と堀によって内側に東西・南北とも約13mのほぼ正方形を呈する枡形を設けており、幅約10mの堀に架かる土橋と、南側の土塁対応部にそれぞれ門の礎石と考えられる石が残る。
また虎口の土塁の東・西面には低い石積みがみられるが、この石積みは土橋や天守台のそれとは異なり、鏡石が用いられており「見せること」を意識した工夫と考えられる。

また、北側虎口の外側には、馬出しの名残である幅約9mの土塁が残り、その北側が味噌曲輪である。
往時は土塁と外側を巡る幅約10m以上の堀によって防御されており、現在、その痕跡を畑や水田の中にみることができる。





西曲輪南側の虎口も北側虎口とは大きさは異なるものの、ほぼ同様の形態で、内部に土塁で造られた古い形態の桝形がみられ、水堀には木橋が架かる。
土塁は高さ約6m、基底部約20m、上部幅約6mを測り、基底部にはわずかに石積みが残されている。

梅翁曲輪

中曲輪と西曲輪の南にある梅翁(ばいおう)曲輪は宅地化が進み、西と南の一部にわずかに残された土塁と堀が往時の姿を伝えている。
この堀は、南側の門の近くで幅約12mを測り、内側の土塁は幅約21mを超える大規模なものである。

梅翁曲輪については、意林寺蔵の「 甲州古城勝頼以前図」の添書に「平岩七之介築添曲輪ハ・・」 とあり、平岩親吉(ちかよし)の時に付設されたことがわかる。
平岩親吉は武田氏の滅亡後、甲斐国を領有 した徳川家康の重臣として城代を務めた人物である。





恵林寺(山梨県甲州市)蔵の古絵図には、梅翁曲輪のある位置に「典厩(てんきゅう)」と記されている。
「典厩」とは武田信玄の弟に当たる武田左馬介信繁のことであり、往時、武田信繁の屋敷が存在していたことが推察されるのである。

特徴

現在の躑躅ヶ崎館は、武田神社が鎮座し、西曲輪には一時期、甲府市民俗資料館が建っていたこともあり、多くの遺構が壊されているが、土塁・堀・石垣・虎口などが随所に残されている。
館の外周を堀の形状や幅、土塁の残存状況を観察しながら一周すると、1519年(永正16年)の築城当初は東曲輪・中曲輪(主郭)の方形単郭で、その後、方形の曲輪を増設していったことが理解できる。
武田信虎から武田信玄・武田勝頼と代を重ねるごとに、御隠居曲輪、西曲輪、味噌曲輪、無名曲輪が順次増設され、武田氏滅亡後の平岩親吉の時に梅翁曲輪が付設されたのである。

遺構面からは、西曲輪の南北の出入口が、武田氏の特徴的な築城技術の一つである枡形虎口であること、また、中曲輪西北隅の天守台や大手口の土橋南側などの石積みが、豊臣秀吉の時期に構築されており、躑躅ヶ崎館は武田氏滅亡後も機能していたことなどの特徴がみられる。

躑躅ヶ崎館は1959(昭和34年)に史跡範囲の南側一帯が「居住地域」に指定されてからは、館跡周辺の宅地化が急速に進んだ。
そこで史跡保護のために1970年(昭和45年)以降、段階的に公有地化を推進し、1994年(平成6年)には地元住民の理解と協力を得て「史跡武田氏館跡保存管理計画」が策定された。
そして、2004年(平成16年)には「整備基本構想及び整備基本計画」が策定され、歴史的風土に根ざした保存・整備が進められている。





そして保存・整備の基になる資料を得ることを目的として、発掘調査が計画的に実施され、貴重な成果が蓄積されている。
今後も文献史料や絵図類、考古学資料などの多様な資料を基にした総合的な研究が行われることで、躑躅ヶ崎館が往時の姿に復元されることを期待できる。

(寄稿)勝武@相模

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