【西洋式城郭】世界各地の「星形城郭」の解説~発展から衰退、そして文化遺産へ~

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星形城郭の概要

北海道函館の五稜郭や長野県佐久市にある龍岡城は、これまでの我が国の城郭とは異なり、五つの角を持つ星形をしている。
こうした城郭は15世紀半ば以降のイタリアで発生し、17世紀後半、世界各地で急速に発展・普及していった築城様式である。
その築城様式は「星形城郭」、「星形城塞」あるいは「稜堡式城郭(りょうほしきじょうかく)」などと称せられているが、本稿では「星形城郭」に統一する。

中世期の城郭は垂直で高い城壁を持つ円形が一般的であったが、火砲が開発・普及するとその脆弱性(ぜいじゃくせい)が明らかになった。
15世紀末から16世紀初めにかけてフランス軍がイタリア半島へ侵攻する。
フランス軍は新型の火砲を装備しており、中世以来の城壁を簡単に破壊することができた。
そのため、城壁を分厚くし、砲弾によって砕け散らないように土と煉瓦(れんが)を含む多くの材料で作り、死角を無くすことが城郭の防御力強化のために必要であった。
そこで、数学的に計算された多面体を組み合わせた構造物として理論化されたのが星形城郭である。




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16世紀には、ミケランジェロがフィレンツェの城壁の改良工事で星形城郭の理論を実践し、その後3世紀に渡ってヨーロッパ中に広まった。
特に、17世紀後半、フランスのルイ14世の技術顧問であった建築家のセバスティアン・ル・プレストル・ド・ヴォーバン(以下、ヴォーバンと略す)は3つのシステムからなる星形城郭の築城理論を提唱した。

第1のシステムは、城郭の角に槍の穂先のような五角形の稜堡を設け、また城郭本体から離れた所に稜堡に挟まれるように半月形の稜堡(半月堡)を置くというものである。
第2のシステムは、砲弾が城壁のはるか上を越えて内側に着弾することを見越して稜堡を二重にすることである。
前面の稜堡・半月堡の内側にも、より高く厚い防備がなされた堡塁を設けることで、上からの砲弾に対しても厚い防備を施すものである。
第3のシステムは、第2のシステムをより複合化したもので、半月堡を二重にしてその内側に稜堡と凹堡を置くことで、城郭本体が稜堡とその先に突き出した堡塁によって守られるというものである。

以上の3つのシステムを採り入れた星形城郭は、ヴォーバン様式とも称せられた稜堡式城郭の完成形であり、17世紀後半以降、ヨ-ロッパ各地の都市に築城された。

星形要塞の衰退

星形城郭の最大の特徴は、三角状の構造物を外に張り出して造ることで、大砲による攻撃の死角をなくして防御を強固なものにしたことである。
しかし、大砲が発達し砲撃能力が向上してくると、星形城郭は大仰角(だいぎょうかく)からの砲撃に対して無力となっていった。
また、星形城郭が強固な城壁を備えても、攻め手が多方向から砲撃を加えれば、城郭への命中率はしだいに上がって防ぎきれなくなる。
星形城郭の周囲に砲台を備えた要塞(台場)を配置し、そこからの砲撃で敵の接近を阻止して中心の城を常に射程外に置くことが、星形城郭にとって鉄壁な防御であった。

例えば、函館五稜郭の場合、当初の計画では出入り口を守るために、半月堡(はんげつほ)を5つ建設する予定であったが、財政面から最終的には1つだけになった。
また、五稜郭から一定の距離を隔てた周囲に7つの台場を配置して、敵の大砲の射程外に五稜郭を置く計画であったが、実際に配置されたのは函館湾に面した弁天岬台場のみであった。

その後、横穴状の防御施設である掩体壕(えんたいごう)が普及すると、複雑な凹凸がある星型城郭は衰退し、多角形の城郭(以下、「多角形要塞」と称す)が誕生した。
多角形要塞は、掩体壕がその多角形の辺の中心部分に突出して置かれ、機関銃の実用化とともに、それも掩体壕の中に配置された。
そして、多角形要塞への移行が進む中で要塞そのものの価値が低下したのである。
それは、軍隊の機動性が高まったことで、要塞の存在を無視しての軍事行動が可能となったこと、また、大砲や機関銃の発達、有刺鉄線(ゆうしてっせん)の実用化により、本格的な要塞ではなく塹壕(ざんごう)でも十分防御が可能となったことによる。

第一次世界大戦(1914年-1918年)においては、長大な塹壕による防御線が主体となった。その後は戦車や航空機の実用化により、塹壕も含めて長大な防衛線は必要性がなくなり、星形城郭のみならず要塞そのものが衰退したのである。

17世紀以降、ヨ-ロッパをはじめ世界各地で築城された星形城郭は、大砲の発達や機関銃の出現、掩体壕の普及などにより防御施設としての役割を終えた。
そして、現在、世界各地に残る星形城郭は貴重な文化遺産、あるいは観光名所として役割を果たしている。

文化遺産としての星形城郭

1997年(平成9年)の夏、8ヶ国9都市(函館市を除く)が北海道函館に集まり、第1回「世界星形城郭サミット」が開催された。
この第1回サミットでは、星形城郭の歴史をたどりながら、その文化的意義を再認識するとともに、
町づくりにおける城郭の役割などについて、情報交換や意見交換が行われた。
「世界星形城郭サミット」は1997年(平成9年)の第1回以降、3年ごとに開催され、星形城郭の復元と再構築や、星形城郭都市における居住方法とその活性化、星形城郭の長期的な維持・管理などをテーマに活発な議論が行われたという。

なお、筆者が確認することができた開催都市・参加都市などは以下のとおりである。
 *第2回:2000年(平成12年)、パルマノバ市(イタリア共和国)、8カ国9都市が参加
 *第3回:2003年(平成15年)、ハミナ市(フィンランド共和国)・サンクト・ペテルブルグ(ロシア)市の共催、5カ国5都             市が参加
 *第4回:2006年(平成18年)、ヘルビーツリュイス市(オランダ王国)、7カ国7都市が参加

以下、第1回「世界星形城郭サミット」に参加した都市(国名)と、そこに所在する星形城郭の概要について紹介する。

【リ-ル(フランス共和国)】
リールはフランス北部の都市で、1667年のネーデルラント継承戦争でフランス軍によって包囲・占領、また1708年のスペイン継承戦争でも攻略され(リール包囲戦)、1713年までヨーロッパ同盟の下にあった。
星形城郭は1667年から1670年にかけてヴォーバンによって築かれ、ヴォーバン様式の城郭として高い評価を得ている。
五角形の城内にはロック調とクラッシック調の混在する正門(王道門)や兵器庫、城壁内のサント=バルブ間道、見事な丸天井の礼拝堂があり、建築の質の高さや保存状態は見るべきものがある。

【カレー(フランス共和国)】
カレーはドーバー海峡の北海の出口に面している都市で、その地理的環境から12世紀ころから港町として繁栄したが、その後、イギリス、スペイン、ドイツなどに占領された。
市内にある3つの星形城郭は16世紀から17世紀にかけてヴォーバンによって築かれ、現在は都市公園や多目的運動場として利用されている。

【ハリファクス(カナダ)】
ハリファクスはカナダ大西洋岸地方最大の文化・経済の中心都市で、1996年に旧ハリファックス市とダートマス、ベッドフォード、ハリファックス郡が合併して誕生した。
旧ハリファックスは1749年、ノバスコシア植民地の新総督府として建設されたが、1917年12月、軍用火薬を積んだ貨物船の衝突事故により大爆発が起き、市の大半が廃墟となった。
星形城郭は、イギリス政府がアメリカ合衆国からの攻撃に備えるために築き、1856年に完成した。
1951年には国定史跡に指定されるなど、カナダにおいて最も重要な歴史的建造物の一つである。
毎日、正午に空砲が鳴り響き、夏期にはビクトリア朝時代の軍隊の行進や訓練が再現されている。

【ミュンスター(ドイツ連邦共和国)】
ミュンスターはドイツ北西部に位置、ノルトライン・ウェストファーレン州第2の都市で、5万以上の学生が生活する大学都市でもある。
司教都市として栄え、中世にはハンザ同盟の有力都市として繁栄し、1648年にはこの地で「30年戦争」を終結させたウェストファリア条約が結ばれている。
ミュンスターは、市街全体が城壁で囲まれ、その西の端に17世紀中頃に星形城郭が築かれた。




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【ヘレヴートスライス(オランダ王国)】
ヘレヴートスライスはオランダ西部の北海沿岸に位置し、17世紀初頭からオランダ艦隊の母港として発展した都市である。
戊辰戦争最後の戦闘である箱館戦争(1868年―1869年)に参戦した「開陽丸」の蒸気機関が、この都市の造船所で造られるなど我が国と縁が深い。
星形城郭は1696年から1715年にかけて、海軍の造船所と艦船を保護するために築かれた。
現在、ヘレヴートスライス市は観光客に魅力的な地域を目指して、歴史的な港と星形城郭の整備を進めている。

【ハミナ(フィンランド共和国)】 
ハミナはフィンランドの南東部、フィンランド海沿岸に位置し、スウェーデンによる統治時代の1653年に整備された都市である。
ロシアとの国境から約40kmであることから、スウェーデンやロシアによって統治・占領されていた時期があった。
星形城郭は1722年にロシアからの脅威に対抗するために築かれ、現在も旧市街地は城壁に囲まれており、フィンランド国内でも歴史的な貴重な文化遺産として知られている。
 
【パルマノバ(イタリア共和国)】
パルマノバはイタリアの北東部、アドリア海から内陸に約20kmの所に位置し、1593年にヴェネツィア共和国が東方のトルコ、オ-ストリアとの国境線の防備のために建設した都市である。
1797年にオ-ストリアに占領され、1805年にはフランスの支配下となり、1866年からはイタリア領になっている。
9つの稜堡を持つ星形城郭は、16世紀末にヴェネツィア共和国の軍事拠点として、ルネサンス期の建築家・ヴィンチェンツォ・スカモッツィにより築かれた。
街全体が城壁、土塁、濠で囲まれ、中心部の六角形の広場から6本の道が放射線状に延びるなど、ルネサンス期の理想都市論や建築文化の実践例として知られている。

【サンクト・ペテルブルグ(ロシア共和国)】
サンクト・ペテルブルグはバルト海に面したロシア第2の都市で、1703 年にピョートル 1 世によって建設され、2世紀にわたってロシア帝国の都として繁栄した。
1924年にレニングラ-ドに改名されたが、1991年、再びサンクト・ペテルブルグに戻った。
星形城郭は1703年、ロシア皇帝・ピュートル大帝によってスウェーデン軍の侵入を防ぐために築かれた。
城内中央には、イエス・キリストの弟子であるペトロとパヴロにちなんだ教会があり、「ペトロパヴロスク要塞」とも称せられている。

【フエ(ベトナム社会主義共和国)】
フエはベトナム中央部に位置し、19世紀に阮朝(ぐえんちょう)の都が置かれた都市である。
ベトナム戦争(1955年―1975年)で著しい被害を受けたが、王宮、寺院、皇帝廟などの歴史的建造物群は1993年に世界文化遺産に登録された。
星形城郭は19世紀初頭にフォン川に面した旧市街を城壁で囲んで築かれ、その内部には現在、阮朝時の王宮やフエ博物館などの史跡・名所が点在している。

【函館市(日本)】 ※以下のサイトを参照
「五稜郭」の築城~西洋式築城術を取り入れた城郭~

現在、世界各地に残る星形城郭の中には、世界文化遺産に登録されたものも多く、多くの観光客が訪れている。
観光客が増えることは、星形城郭の意義や歴史、魅力などを多くの人々に知ってもらい、経済効果も期待できるというメリットがある一方、オーバーツーリズの問題が生じる恐れもある。
オーバーツーリズムとは、観光地に対して多過ぎる観光客が集まることで、交通渋滞やゴミ、喧嘩等のトラブルなどが生じるこことである。

世界各地の星形城郭の中には、公園化されている函館の五稜郭とは異なり、城郭都市として城内の街でごく普通の生活を送っている人々が多くいる。
オーバーツーリズムによって、これらの人々の日常生活が脅かされたり、星形城郭の建造物が損傷を受けたりして、文化遺産としての価値が損なわれることもあり得る。




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今後、世界各地に残る星形城郭が文化遺産としての価値や魅力を減じることなく、後世に引き継がれていくためには、保存と公開・活用のバランスを配慮した取組が急務であろう。

(寄稿)勝武@相模

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