波多野氏の館の探究~「波多野城址」と「東田原中丸遺跡」

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概要

神奈川県秦野市は神奈川県央の西部に位置し、東・北・西の三方を丹沢山塊の山々に囲まれた盆地である。
この地に平安時代末期から鎌倉時代にかけて勢力を誇ったのが、2022年(令和4年)NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にも登場している波多野氏である。
波多野氏の館については従来、『新編相模国風土記稿』の記事から秦野市寺山の「波多野城址」が館跡と伝えられてきたが、近年、秦野市東田原の「東田原中丸遺跡」が波多野氏の館跡として有力となってきている。
本稿では、波多野氏の系譜を整理した上で、波多野氏の館跡について探究する。

波多野氏の出自と動向

波多野氏は、佐伯経資が相模守に任じられた源頼義の目代として相模国へ下向したのが始まりとされている。
佐伯経資の子・経範は源頼義に仕えて前九年の役に参加し、1057年(天喜5年)に戦死している。
佐伯経範は、妻が藤原秀郷流藤原氏の出身であることから、のち佐伯氏から藤原氏に改め、藤原秀郷流の波多野氏を称した。




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波多野氏は相模国波多野荘(秦野市)を本領とし、在地支配を続けながら天皇家にも仕え、佐伯経範の曾孫・波多野遠義(とおよし)は筑後守に任じられている。
波多野遠義の子孫は河村(足柄上郡山北町)・松田郷(足柄上郡松田町)などと称し、相模国余綾(よろぎ)郡・足柄上郡に勢力を拡大した。
源氏との縁も深く、波多野遠義の子・波多野義通(よしみち)は源義朝に仕え、その妹は源義朝に嫁してその間に生まれた源朝長(ともなが)を松田亭で養育した。
波多野義通は保元の乱(1156年)後、源義朝と不和となり、所領の波多野荘に下向したと伝わるが、平治の乱(1159年)では再び源義朝の軍に参加している。

波多野義通の子・波多野義常は京の朝廷に出仕し官位を得て相模国の有力者となる、1180年(治承4年)8月に源頼朝平氏打倒のために挙兵すると、波多野義常は源頼朝の呼びかけに応じず、討手を差し向けられて自害した。
その子・波多野有常(ありつな)は叔父の波多野義景(よしかげ)とともに許されて鎌倉幕府の御家人となり、波多野有常は松田郷を領して松田氏の祖となる。

また、波多野義常の甥にあたる波多野義重(よししげ)は承久の乱(1221年)の功績により越前国志比荘を与えられて越前波多野氏の祖となり、後に道元に帰依し永平寺の建立に尽くしたことでも知られている。

波多野氏の館については『新編相模稿風土記稿』(巻之五十二 村里部 大住郡巻之十一)の「寺山村」の項に「城蹟 村の西境、金目川の傍、字小附古津久惠、に在、少く高き地にして、空塹を廻らせし蹟あり今畑一町四五段、となる、波多野次郎の城跡と云傳ふ、按ずるに次郎は築後權守遠茂の次男義通なるべし、……」と記されている。
この記述によると、館の場所は秦野市立東小学校の西側、金目川やその支流に囲まれた舌状に南北に伸びた台地に所在する。
台地は北から南へ緩やかに傾斜し、その南端近くに現在、「波多野城趾」と刻まれた石碑が建てられている。
城址の付近一帯は蜜柑畑などが広がっているが遺構らしきものは認められず、1987年(昭和62年)から1990年(平成2年)にかけて行われた7次にわたる発掘調査においても、館に関する遺構や遺物は発見されていない。

『神奈川縣中郡勢誌』では、波多野城址は城跡の石碑が建っている地点から南西に約200mの「前原」・「下原」を城跡としている。
それによると、地形上は、東側が金目川の断崖、他の三方は水田に囲まれ、前原の北部から南方向にかけて次第に隆起し、下原の中央部が最も高いという。
また、「南北の中央線は五三五間(936m)東西九〇間及び一二五間(225m)北方」の小字「大口」は大手口の遺名であり、「前原」は二の丸、「下原」は本丸に当たるとしているが、現状では館に関連する遺構は認められない。

東田原中丸遺跡

波多野氏の館については「東田原ふるさと公園」周辺の「東田原中丸遺跡」が有力となっている。
遺跡は「波多野城址」から西約1kmの舌状微高地の先端部に位置し、隣接して源実朝の首塚とされる石造五輪塔(以下、「源実朝首塚」と略す)がある。
発掘調査は2000年(平成12年)9月から翌2001年(平成13年)2月にかけて発掘調査が行われ、縄文時代や古墳時代、平安時代及び鎌倉時代の遺構や遺物が発見された。




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鎌倉時代の主な遺構は掘立柱建物21棟、段切遺構2基、柵列4基、焼土群1基である。
掘立柱建物は21棟のうち、7棟は鎌倉時代前期建物で主軸方向が真北からやや東に傾き、14棟は後期のもので、主軸が真北を向いている。
遺物は「かわらけ」や国産陶磁器、白磁・青磁などの中国産陶磁器、釘・鉄滓・銭などが出土している。
それらの遺物のうち、建物周辺から多数の「かわらけ」が出土しており、出土例が少ない13世紀の「白かわらけ」1点と破片数点が含まれている。

「かわらけ」は、公家や上級武士などが儀式や宴(うたげ)の場で、食器や灯明皿として大量に使われ、使用後はまとめて廃棄された。
「白かわらけ」は京都の「白土器」の模倣と考えられており、神奈川県内では鎌倉で出土しているが、出土量は少ない。
なお、「東田原中丸遺跡」の「白かわらけ」をはじめとする出土遺物の一部は「はだの歴史博物館」に展示されている。

波多野氏の館を探る

波多野氏の館の場所については、『新編相模国風土記稿』に記載されている寺山の「波多野城」であると考えられてきたが、そのことを示す遺構や遺物は確認されておらず、波多野氏の館とすることに疑問が生じていた。
その一方、「東田原中丸遺跡」の発掘調査(2000年~2001年)において、鎌倉時代の掘立柱建物群や段切遺構、柵列などが確認された。
掘立柱建物群の周辺からは、公家や上級武士が儀式や宴で使い捨てにされた「かわらけ」が多数出土し、その中には京都の「白土器」の模倣とされる「白かわらけ」もある。
その他、当時の庶民が持つことがなかった中国産の白磁・青磁の破片なども出土しており、この建物の主はかなりの財力や権力をもった有力武士と考えられる。

「東田原中丸遺跡」の周辺を見ると、隣接して所在する「源実朝首塚」は、武常晴(つねはる)という三浦の武士が、鎌倉の鶴岡八幡宮で甥の公暁(くぎょう)によって暗殺された三代将軍・源実朝の首を葬った場所と伝わる。
また、遺跡の近くに所在する金剛寺は、1250年(建長2年)に波多野忠綱が源実朝の菩提(ぼだい)を弔うために伽藍を整備している。

以上、「東田原中丸遺跡」で確認された掘立建物群や「白かわらけ」を含む多くの「かわらけ」や白磁・青磁などの出土遺物、遺跡周辺に所在する「源実朝首塚」や金剛寺などから、波多野氏の館跡は「東田原遺跡」である可能性が極めて高いと考えられる。




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<主な参考文献>
蘆田伊人 編集校訂 1980年『新編相模国風土記稿 第三巻』雄山閣
神奈川県中地方事務所 1953年『神奈川縣中郡勢誌』神奈川県中地方事務所
関 幸彦 2017年『相模武士団』吉川弘文館
平井 清、他 1980年『日本城郭大系 第6巻』新人物往来社

(寄稿)勝武@相模

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