土肥実平の館を探究する~土肥館と土肥城~

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概要

東海道線湯河原駅から徒歩5分ほどの所に万年山城願寺(湯河原町堀内)があるが、その付近一帯は土肥実平の館があったと伝えられている。
また、北西背後にそびえる標高約563mの城山山頂には土肥城跡が残されているが、土肥氏の城跡であるかは定かでない。
本稿では土肥実平の足跡と土肥館・土肥城について探究する。

土肥実平

相模武士団の土肥一族は、良文流桓武平氏の中村荘司宗平の次男・実平が相模国土肥郷(湯河原町)を有したことから始まり、現在、湯河原駅前には土肥実平夫妻の像がある。
土肥実平は1180年(治承4年)8月、源頼朝が平氏打倒の兵を挙げると当初から側近として支え、源平の争乱や鎌倉幕府創建に重要な役割を果たした。
石橋山の戦いで敗走した源頼朝を房総半島に脱出させ、源頼朝の再起後は富士川の戦い(1180年10月)、源義仲追討の宇治川の戦い(1184年1月)に参加し、一ノ谷の戦い(1184年2月)では一方の将として7000余騎を率いて勝利に貢献した。
戦い後、土肥実平は備前・備中・備後国(岡山県)の惣追捕使(守護)に任ぜられ、山陽道を守り、源範頼の進軍を支援した。
1185年(寿永4年)3月、壇の浦の戦いの後、長門・周防国(山口県)の惣追捕使として長府に居城を構えている。


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以上、土肥実平は梶原景時とともに源範頼・源義経の奉行として遠征軍に派遣され、1190年(建久元年)の源頼朝上洛の際には、拝賀の随兵7人の内に選ばれるなど、源頼朝の信任が厚かったと考えられる。
土肥実平の没年については1191年(建久2年)11月(「沼田小早川家系図」)や、1220年(承久2年)11月とする説がある(所領地・安芸の米山寺過去帳)。
また、『吾妻鏡』の1195年(建久6年)7月13日条には「土肥後家尼参上」とあり、この時以前に死去したとする説もある。

土肥実平の跡を継いだ土肥遠平(とおひら)は平氏滅亡後、その功により安芸国沼田荘(広島県三原市一帯)などの地頭に任ぜられた。
土肥宗家と相模国土肥郷(神奈川県湯河原町)の所領は、嫡男の土肥維平(これひら)に相続させている。
土肥維平は1213年(建暦3年)5月の和田合戦で和田義盛方に味方して敗北、子の土肥仲平・土肥左衛門次郎は討ち死にし、土肥維平も処刑された。

その一方で、土肥遠平は平賀義信(ひらがよしのふ)の子・景平(かげひら)を養子に迎え、小早川景平と名乗らせて沼田荘を相続させている。
土肥景平は和田合戦に参加することなく、安芸国沼田荘を引き続き所領とし、その系統は戦国大名・小早川氏へと続く。

土肥館

土肥館については『新編相模国風土記稿』(以下、風土記稿と略す)に「土肥堀ノ内村 按ずるに堀ノ内の地名は、多く城壕の遺名なり、當所も土肥實平の宅址あれば、地名となりしなるべし、」、また「土肥次郎實平宅跡 城願寺前の白田を云、宮上村に傳ふる古記に構内長百間、横七十間とあり、今遺跡の存するものなし、但此邊の字を御庭と呼るのみなり、」という記載がある。
これによると、土肥実平の館は「堀ノ内村」の城願寺前の田畑にあったと伝わっており、その敷地面積は約180m×126mとあるが、風土記稿が完成した1841年(天保12年)時点で、すでに伝承のみで遺跡は存在しなかったことがわかる。

ただし、地形的には三方を山に囲まれた谷戸(やと)の奥から海と平地をみおろす台地にあり、館の立地としては理想的である。
また、土肥館が所在した城願寺は、土肥実平が「萬年山」と号して持仏堂を建てたことから始まり、現在、五輪塔など約50基の石塔が並ぶ土肥一族の墓所がある。

土肥城

土肥城は箱根外輪山南部の主峰大観山(だいかんざん)から相模湾方面に下降する尾根の中腹に位置し、館とあったとされる城願寺とは距離にして約2㎞、比高差では約400mの隔たりがある。
縄張り(構造)は6つの郭が階段状に連なる連郭式で、最上段の第1郭(主郭)から最下段の第6郭まで全長約240m、高低差は約35mである。
また、最上段の第1郭(主郭)から第2郭の間に一重の堀切、第5郭から第6郭の間に二重の堀切、さらに第6郭から尾根先約150mにも一重の堀切が造られている。

第1郭(主郭)は約30m・26m・36mのほぼ三角形の形態で、西端の角(すみ)から北西方向の大観山に続く尾根道が約20mの比高差で下り、途中に小さな平坦面や大石がみられることから、虎口(城の出入口)の存在が考えられている。
南の角から東南側の斜面に沿って約10mの比高差で城道が下り、堀切を土橋で横断して第2郭に至る。
また、南の角からは湯河原温泉方向に延びる尾根もあり、第1郭(主郭)は南端部で2方向の尾根筋を押さえる構造であるが、現状では主郭に虎口、土塁などの防御施設の形跡はみられない。
主郭と第2郭との間にある堀切は長さ約10m、幅約4m、深さは主郭から約3m、第2郭の土塁頂部から約1mである。

第2郭は不整台形の形態で、東面に長さ約8m、上部の幅約0.5m、高さ約0.5mの土塁があり、その南端部には第3郭に至る城道が開いている。
この東面の土塁は北面にも続き、幅約1mの痕跡が約20mにわたってみられ、城の背後にあたる西面の土塁は、長さ約8m、頂部幅約2m、高さ約5mである。
こうした大型土塁を背後に設けたのには、主郭への侵入を阻むことを徹底したものと考えられる。


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第3郭は約9m四方の方形で、東側には幅約1.5mの土塁の痕跡がみられる。
城道は第2郭の東南部から第3郭の西面中央部に下り、さらに北東隅から第4郭の西面中央部に至る。

第4郭は不整の方形で、郭の東面に長さ約7、高さ0.3m幅0.5mの土塁、城道は土塁南端の開口部から第5郭の西南部に至る。

第5郭は不整の長方形で、その北東側の4分の1を斜面と城道が占め、東南側は約1m高くなっており、長辺約15m、短辺約10mの広さをもつ櫓台(やぐらだい)がある。
この櫓台は第6郭より約5m、その内側の堀切より約8.7mも高く、この高低差と第6郭との間の二重堀切と連携して防御する構造となっている。
城道は西側平坦面の東北側から二重堀切の中心部を横断して第6郭に至る。
その二重堀切は、第5郭側のものが長さ約25m、幅約7m、深さ約2mであり、第6郭側のものは長さ約22m、幅約7.5m、深さ約1.5mである。

第6郭は不整形で、第1郭(主郭)と同じほどの広さを有して東側に土塁と堀切が設けられている。
土塁は、幅が下部で約9m、上部で約25m、高さ約2m、堀切は長さ約25m、幅約14m、土塁頂部からの深さ約3.5mを測り、この城で最大の規模である。

なお、1991年(平成3年)の確認調査で、城外と考えられていた第6郭の堀切から南東約の所に土塁と堀切が発見された。
土塁の規模は長さ約28m、幅は下部で約9m、上部で約1m、高さ約1mを測り、堀切は長さ約25m、幅約7~8m、土塁頂部からの深さは約1mである。
この遺構の性格は、堀・土塁の内側が自然地形のままで、郭の形態をなしていないことから、城の内外を区画する遠構(とおがま)えと考えられている。

土肥館と土肥城の関係

土肥館と土肥城を「館」と「詰城(つめのしろ)」の関係とすることについて考えたい。
土肥城の縄張り(構造)を概観すると、第1郭(主郭)から第4郭までは尾根の高低差を利用して階段状に造られ、特に第2郭から第4郭までは同時期に築かれ可能性が高いという。
第5郭・二重堀切・第6郭・遠構えは、緩やかな傾斜面に大規模の土塁・堀切を主体にしており、郭や城域の範囲を広くしている。
また、城道についても、第1郭(主郭)から第4郭までの道筋は左右に振りわけられているのに対して、第5郭から遠構えまでは中央部を通っている。

以上のことから、土肥城は室町時代に大森氏が築城し、戦国時代に後北条氏が改築や補強をしたものと推定できる。
土肥城の縄張り(構造)や位置関係などから、土肥館と土肥城を「館」と「詰城(つめのしろ)」であるとすることは、現時点では難しいであろう。


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蘆田伊人 編集校訂 1980年『新編相模国風土記稿 第二巻』雄山閣
平井 清、他 1980年『日本城郭大系 第6巻』新人物往来社
小田原市 1995年『小田原市史 別編 城郭』

(寄稿)勝武@相模

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