相模武士団の概説~源平の争乱期・平安時代末期から鎌倉時代初期を中心に~

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概要

現在、放映中の2022年(令和4年)NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では土肥実平、大庭景親梶原景時三浦義村などの相模の武士が多数登場し重要な役割を演じている。
相模武士団の多くは藤原秀郷や桓武平氏の平良文・良兼、平貞盛の流れをくみ、他には武蔵七党の横山党に属するものもいた。

相模国は西から足上・足下・余綾(よろぎ)・津久井・愛甲・大住・高座・鎌倉・三浦の8郡に分かれ、現在の神奈川県から横浜市・川崎市を除いた地域が範囲であった。

相模武士団の分布を概観すると、相模国北側の山稜・平野部には藤原秀郷の系統や横山党の武士団が、足下・余綾郡から三浦郡に至る南側の地域には、桓武平氏の諸流が勢力範囲とした。




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本稿では、相模国を西部・中部・東部の地域ごとに、各地域の武士団が1180年(治承4年)8月の源頼朝の挙兵に始まる源平の争乱(「治承・寿永の乱」)に果たした役割やその後の動向について概観する。

相模西部の武士団

伊豆国(現静岡県東部)と隣接する相模西部(足上郡、足下郡、余綾郡の一部)は、良文流桓武平氏の流れである土肥(どひ)・中村・二宮氏などが湯河原町から平塚市方面を中心に勢力を誇った。

土肥・中村・二宮氏の一族はその挙兵時から源頼朝に味方し、中でも土肥実平は石橋山の戦いで敗走する源頼朝が房総半島に脱出する際の最大の功労者となった。
源頼朝が再起すると、土肥実平は源頼朝の側近として、源平の争乱では梶原景時とともに源範頼・源義経の奉行として遠征軍に派遣されて活躍した。
1184年(寿永3年)2月の一の谷の戦い後は備前・備中・備後国(岡山県)の惣追捕使(守護)に任じあれ、翌1185年(寿永4年)3月の壇ノ浦の戦い後には長門・周防国(山口県)の惣追捕使(守護)として長府(山口県下関市)に居館を構えた。

その後、土肥氏は孫の土肥惟平(これひら)が1213年(建保元年)の和田合戦で和田義盛に味方して処刑され、土肥一族は相模国内では衰退した。
しかし、養子として家を継いだ土肥茂平が安芸(広島県)沼田荘に移住し、以後、本拠早河荘の地名から小早川を名字としてその子孫は戦国大名として活躍する。

相模中部の武士団

相模中部(津久井郡、愛甲郡、大住郡、余綾郡の一部)は藤原秀郷流と横山党の武士団の勢力が強い地域であった。
藤原秀郷流に属した波多野・松田・河村氏などの武士団は、隣接する土肥氏らと開発領域をめぐって競合していたことから、源頼朝の挙兵時には敵対する武士が多かった。

波多野荘(秦野市)を本拠としていた波多野義常は、源頼朝の挙兵の際、加勢を求められるが拒否して討手を差し向けられ、1180年(治承4年)年10月に本拠地の松田郷(足柄上郡松田町)で自害した。
波多野義常の嫡男・有常は叔父の大庭景義に預けられるが、1188年(文治4年)4月に許されて松田郷を与えられた。
また、一族の河村義秀も平氏方の大庭景親に従ったため河村郷(足柄上郡山北町)を没収されるが、1190年(建久元年)に許されて本領を回復した。
波多野有常と河村義秀はいずれも源頼朝の参謀役であった大庭景義のはからいで、鶴岡八幡宮での流鏑馬において優れた技量を披露したことで許されたと伝わる(『吾妻鏡』)。




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一方、横山党に属する武士団では、海老名・愛甲・渋谷・土屋の諸氏が武蔵国南部の多摩郡(東京都八王子市)から南へ勢力を拡大していった。
高座郡を本拠とした海老名氏や愛甲氏は、鶴岡八幡で行われる流鏑馬神事に一族の名がしばしば登場する(『吾妻鏡』)。
渋谷荘(大和市・綾瀬市・藤沢市)を本拠とした渋谷氏は、渋近江源氏の佐々木義秀と、その子息で源頼朝の山木兼隆攻めで活躍した「佐々木4兄弟」を保護したことで知られている。
渋谷重国は石橋山の戦いでは平氏方の大庭景親の軍に属したが、後に源頼朝に従い御家人となった。
1184年(寿永3年)1月の木曽義仲追討では、子の渋谷高重とともに源範頼の軍に加わり活躍した。
大住郡土屋郷(平塚市土屋)を本拠とした土屋氏は、土屋宗遠(むねとう)が源頼朝の挙兵時から兄・土肥実平とともに源頼朝に側近として仕え、石橋山の戦い後は源頼朝の使者として甲斐源氏・武田信義のもとに赴くなど活躍した。

相模東部の武士団

相模東部(高座郡、鎌倉郡、三浦郡)の有力武士団は、平安時代末期以降、鎌倉郡を拠点とした大庭・梶原氏、長尾氏などの鎌倉党、そして三浦郡を中心に勢力を拡大した三浦氏である。

大庭氏は後三年合戦で知られる鎌倉権五郎景正(政)の末裔で、伊勢神宮領である大庭御厨(みくりや)の下司(げし)職を代々つとめた。
鎌倉景正の曾孫にあたる大庭景親は、源頼朝が挙兵すると、平氏方の総大将として相模・武蔵2ヶ国の3,000騎ほどを率いて抵抗し、石橋山の戦いで源頼朝側を敗走させた。
安房国(千葉県)へ逃れた源頼朝が再起して多くの東国武士とともに鎌倉に入ると抵抗ができなくなり、富士川の戦いで平氏方が敗北すると捕えられ処刑された。

大庭氏と同族の梶原景時は、大庭景親とともに源頼朝に敵対したが、石橋山の戦いで敗走した源頼朝が洞窟に隠れていたのを見逃した。
再起した源頼朝が富士川の戦いで平氏の大軍を撤退させると、大庭景親は斬首されたが、梶原景時は土肥実平を通じて源頼朝に降伏し御家人に列した。
以後、源義経と対立するが、豊かな教養や優れた能力から源頼朝の信頼を得て、鎌倉幕府では侍所所司などとして権勢を振るった。
1199年(正治元年)1月に源頼朝が死去した後も2代将軍・源頼家に重用され、同年4月に源頼家の政務停止に伴い「13人の合議制」が設置されると梶原景時もこの一員となったが、不満を高めた御家人により排斥され、一族とともに滅亡した。

鎌倉郡長尾(横浜市戸塚区)を本拠とした長尾氏も、源頼朝の挙兵時は他の鎌倉党の武士団と同様に平氏方として敵対した。
平氏滅亡後は同族の三浦氏の配下となり、長尾新六定景は3代将軍・源実朝を暗殺した公暁(くぎょう)を討ち取るという功績をあげるが、1247年(宝治元年)6月の宝治合戦で衰退した。

三浦郡を本拠とした三浦氏は、平安時代末期から相模国の有力な在庁官人として三浦介を称し、相模東部と安房で権勢を誇った武士団である。
三浦義明は保元の乱以降、源氏と密接な関係を保ち続け、源頼朝の挙兵に応じて源頼朝軍に合流しようとしたが、石橋山の戦いの敗戦を知り、衣笠城に籠城して一族を安房国に逃した後に自害した。
その跡を継いだ三浦義澄千葉常胤上総広常・土肥実平らとともに源頼朝の側近として平氏追討や奥州合戦で活躍し、源頼朝の死後は「13の合議制」の一員となった。
三浦義澄の子の三浦義村以降も三浦氏は権力を維持・拡大し、一時は北条氏をしのぐほどであったが、三浦義村の子の三浦泰村・三浦光村兄弟が1274年(宝治元年)の宝治合戦で北条氏と安達影盛らに滅ぼされた。

相模武士団の遺跡

平安時代末期以降、相模国では藤原秀郷や桓武平氏、武蔵七党の横山党などの流れをくむ武士団が各地域に進出して開発をおこなった。
1180年(治承4年)8月、源頼朝の挙兵から始まった源平の争乱は相模武士団にも大きな影響を与えることとなった。
源頼朝が挙兵すると、大庭景親を総大将として大庭・梶原・河村・波多野・渋谷氏ら多くの武士が平氏方に加わり、当初から源頼朝方に味方したものは土肥・土屋・三浦氏など少数の武士であったと考えられる。

源頼朝が平氏を倒し鎌倉幕府を確立すると、当初から源頼朝に従った土肥・三浦氏らは幕府の有力御家人として権勢を誇るが、北条氏と対立して没落していった。
ただし、土肥氏の末裔からは戦国大名・小早川氏が出て、三浦氏の傍流からも江戸時代に大名となった家系がある。




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一方、源頼朝に敵対した武士たちは、総大将の大庭景親は処刑されるが、同族の梶原景時は石橋山の戦いで敗走した源頼朝を見逃したことで許され、その側近として源頼朝を支えた。
また、波多野氏の一族である河村義秀は、鶴岡八幡宮での流鏑馬において優れた技量を披露して許され、南北朝の動乱期に河村一族は南朝方として活躍する。

現在、神奈川県内には本稿で取り上げた武士団の遺跡が随所に残されており、往時の相模武士団に思いを馳せることができる。以下はその主なものである。

【土肥氏:城願寺・墓所】
東海道線湯河原駅から徒歩5分ほどの所にある城願寺(湯河原町堀内)には土肥氏の館があったとされ,現在、五輪塔など約50基の石塔が並ぶ土肥一族の墓所がある。
【波多野氏・東田原中丸遺跡】
東田原中丸遺跡(秦野市東田原)は2000年(平成12年)の発掘調査で大型の掘立柱建物群が発見され、「白かわらけ」や中国産陶磁器、国産陶器などが出土した。
隣接して「源実朝公首塚」があり、この遺跡一帯に波多野氏の館があったとする説が有力である。
【渋谷氏:早川城】
早川城跡(綾瀬市早川)には大規模な堀切と土塁が現存しているが、発掘調査の結果からは14世紀から15世紀以降に使用された城だと考えられている。
【土屋氏:館・墓所】
大乗院(平塚市土屋)南側の段丘上に土屋氏の館があったと伝わり、館跡の一画には「土屋一族の墓」とされる墓域がある。
【大庭氏:大庭城】
大庭氏の館は現在の「大庭城址公園」(藤沢市大庭)に、大庭景親の父・大庭景宗が築いた「大庭の舘(たて)」であったと伝わる。
戦国時代に大田道灌や北条早雲によって大改修され、随所に戦国時代の大規模な空堀や土塁などがみられる。
【梶原氏:館】
JR相模線寒川駅の南西、徒歩10分ほどの天満宮の入口に梶原景時の館があったと伝わり、その跡を示す石碑が建っている。
【三浦氏:衣笠城】
衣笠城(横須賀市衣笠町)は1063年(康平6年)に三浦為通が築城し、1180年(治承4年)に4,000余の平氏方の軍勢に攻められて落城した。
その後、再び三浦氏の本拠となるが、1247年(宝治元年)の宝治合戦で三浦氏が没落すると廃城となり、現在、城址公園として整備され,わずかに土塁や空堀の跡、井戸がみられる。




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<主な参考文献>
神崎彰利、他 1996年『神奈川県の歴史』山川出版社
関 幸彦、他 2017年『相模武士団』吉川弘文館
野口 実 1983年『鎌倉の豪族Ⅰ』かまくら春秋社

(寄稿)勝武@相模
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