「鎌倉殿の13人」の由来
2022年(令和4年)のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も12月18日に最終回を迎えた。
そのタイトルにある13人は、2代将軍・源頼家の独裁を抑えるために1199年(建久10年)4月に発足した集団指導体制「十三人の合議制」から採られている。
この13人は源頼朝から厚く信頼され、鎌倉幕府の発展に大いに貢献した者たちであり、北条氏2人、有力御家人7人、京下(きょうくだ)り官人4人で構成された。
「十三人の合議制」は1199年(正治元年)に梶原景時が失脚し、翌1200年(正治元年)に安達盛長と三浦義澄が病没したことで解体したという。
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この13人のうち、梶原景時や和田義盛などは権力争いに敗れて脱落していき、最終的に最高権力者となったのが北条義時である。
以後、北条氏は得宗と呼ばれる嫡流を中心に一族で執権、連署、六波羅探題などの鎌倉幕府の要職や諸国の守護を独占した。
この北条氏も1333年(元弘3年)、鎌倉幕府の滅亡とともに北条一族の大半が討死か自害して歴史の表舞台から姿を消したが、大江広元の子孫から戦国大名として著名な毛利元就(もとなり)が出ているように、13人の子孫の中には鎌倉時代以降も活躍した人物が多く存在する。
北条氏出身のメンバー
【北条氏】
北条氏の2人は、伊豆国(静岡県)の小領主であった北条時政とその跡を継いだ北条義時である。
北条時政(1138年~1215年)は娘・北条政子が源頼朝の妻となったことから、その挙兵時から平家打倒に至るまで源頼朝を助け、源頼朝の没後は京都守護や初代執権となり鎌倉幕府の実権を握った。
しかし、1205年(元久2年)、後妻の牧の方と共謀し娘婿の平賀朝雅を将軍に擁立しようとしたことで追放された。
北条義時(1163年~ 1224年)は北条時政の次男として生まれ、兄・北条宗時が亡くなったことで北条時政の跡を継ぎ、有力御家人との権力争いに勝ち抜いて2代執権となった。
1221年(承久3年)には、後鳥羽上皇が北条義時討伐の兵を挙げた承久の乱で勝利し、乱後、六波羅探題を設置するなどして鎌倉幕府を全国政権とした。
それ以降、北条氏は初代・北条時政から16代にわたって鎌倉幕府の執権を務めたが、1333年(元弘3年)、鎌倉幕府滅亡とともに得宗(北条一族の長)の北条高時らの一族の大半が自害した。
その後、後醍醐天皇による建武の新政が始まると、政権の混乱に乗じて北条氏の残党が各地で散発的に反乱を起こした。
1335年(建武2年)には、北条高時の子の北条時行らが信濃国(長野県)で挙兵し、一度は鎌倉を占領するが、足利尊氏によって討伐された(中先代の乱)。
有力御家人出身のメンバー
有力御家人からは比企能員(ひきよしかず)・和田義盛(わだよしもり)・梶原景時(かじわらかげとき)・足立遠元(あだちとおもと)・三浦義澄(みうらよしずみ)・八田知家(はった ともいえ)・安達盛長(あだちもりなが)の7人がメンバーとなっている。
【比企氏】
比企能員(生年不詳~1203年)は、その妻が2代将軍・源頼家の乳母となり、娘の若狭局(わかさのつぼね)が源頼家との間に一幡を産んだことで、勢力を拡大していった。
しかし、1203年(建仁3年)7月、重い病を得た源頼家の跡を巡って北条時政と対立し、比企能は謀殺され、比企一族も滅亡した(比企能員の変)。
その中で唯一生き残った比企能本(ひきよしもと)は、出家して順徳天皇に仕え、承久の乱後に順徳天皇の佐渡国配流に同行するが、後に鎌倉に戻り比企一族の菩提寺となった妙本寺を建立したという(『新編鎌倉志』)。
また、埼玉県比企郡川島町にある金剛寺(真言宗)は天正年間に比企能員の末裔である比企左馬助則員(のりかず)が中興したと伝えられている。
金剛寺には「比企系図」や15代比企則員、16比企義久、17代比企重久、18代比企久員を含む歴代の墓があり、墓地の周囲には掘割が残り、比企氏の館跡との伝承がある。
【和田氏】
和田義盛(1147年~1213年)は三浦氏の一族で、源頼朝の挙兵時から従って武功を重ね、初代侍所別当に任じられ、比企の乱や畠山重忠の乱などでは北条氏側に立って活躍した。
しかし、1213年(年)、2代執権・北条義時の挑発を受けて挙兵し、鎌倉幕府の大軍を相手に鎌倉で戦うが討ち死にし、和田一族の大半も敗死した(和田合戦)。
その中で生き残ったのが、鎌倉幕府方として活動した和田重茂(しげもち)の系統で、和田時茂(ときもち)が越後国奥山荘(新潟県胎内市)を領した。
和田時茂の子孫は後に中条氏を名乗り、戦国時代には長尾景虎(上杉謙信)に仕え家臣筆頭として活躍している。
【梶原氏】
梶原景時(1140年~1200年)は石橋山の戦いで源頼朝を救ったことから重用され、鎌倉幕府では侍所所司を務めるなど源頼朝の寵臣として権勢を振るった。
しかし、源頼朝の没後に御家人と対立して追放され、1200年(正治2年)1月、一族とともに滅ぼされた(梶原景時の変)。
その中で梶原景時の3男・梶原景茂(かげもち)の子孫は戦国時代に讃岐国(香川県)で梶原水軍を率いて活躍するが、1579年(天正7年)12月、豊臣秀吉によって滅ぼされた。
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【足立氏】
足立遠元(1130年代前半~1207年以降)は生年については定かでないが、平治の乱(1159年)で源義朝に従って武名を高め、源頼朝の挙兵(1180年)の際にも武蔵武士団のなかで最も早く源頼朝の陣営に馳せ参じている。
鎌倉幕府では1184年(元暦元年)10月に公文所(くもんじょ)が設置されると、別当の大江広元らとともに寄人(よりうど)の1人に選ばれ、源頼朝の没後は「十三人の合議制」の一員となった。
足立遠元は1207年(承元元年)3月の記事(『吾妻鏡』)を最後に史料には見られず、その直後に没したと考えられる。
足立遠元の孫・足立遠政(とおまさ)は1209年(承元三年)に本領がある武蔵国(東京都)から丹波国(京都府)に移住し山垣城や小和田城などを築いた。
この丹波足立氏は、南北朝の動乱期に南朝方に属して全盛期を迎え、戦国時代の戦乱を絶え抜いたが、1579年(天正7年)5月、織田信長による第2回丹波攻めにおいて、羽柴秀長の大軍と戦って敗れ、足立一族の大半が討死した。
【三浦氏】
三浦義澄(1127年~1200年)は相模国(神奈川県)の名族・三浦氏の嫡流で、源頼朝からの信頼厚く、宿老として平氏追討や奥州合戦で武功を挙げた。
1199年(正治元年)、源頼朝の没後に一族の和田義盛とともに十三人の合議制に加わると、三浦一族は鎌倉幕府内で大きな権力を持つこととなった。
三浦義澄没後も三浦氏は、跡を継いだ三浦義村が北条義時の盟友としてライバルの有力御家人を排斥して権力を高めた。
三浦義村の子の三浦泰村の代に宝治合戦(1247年)で北条氏と対立して敗れ、三浦氏の嫡流は滅んだが、三浦義明の十男・佐原義連(よしつら)の系統である三浦盛時(もりとき)により再興された。
この佐原系三浦氏は南北朝の動乱を機に勢力を回復し、その後、足利氏と対立して衰えたりしたが、15世紀半ば以降の関東の争乱に乗じて、扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の重臣となり、三浦半島から相模国中部へと勢力を拡大していった。
しかし、三浦義同(よしあつ)、法名・道寸(どうすん)の代になると、伊勢宗瑞(いせそうずい・北条早雲)の侵攻を受けた。
三浦義同・三浦義意(よしおき)父子は1516年(永正13年)7月に本拠の新井城(三浦市)が落城し、佐原系三浦氏も滅亡するが、その一族の子孫には戦国時代から江戸時代を経て明治維新まで続いた系統もある。
例えば、佐原義連の孫で奥州会津(福島県会津若松市)に移住した三浦光盛(みつもり)の系統は、蘆名(あしな)氏を称して戦国大名へと成長するが、1589年(天正17年)、奥州統一を目指す伊達政宗に摺上原(すりあげはら)の戦いで大敗し蘆名氏は没落した。
また、三浦氏滅亡の際に安房国(千葉県)に逃れた一族の子孫には、徳川家康の側室となり、紀伊家・徳川頼宣(よりのぶ)、水戸家・徳川頼房(よりふさ)を生んだお万の方がいる。
お万の方の兄である三浦為春(ためはる)は徳川頼宣の付家老となり、その子孫は明治維新まで代々紀伊徳川家の家老を務めており、三浦泰村の弟・三浦家村(いえむら)の子孫は江戸時代に大名に列している。
【八田氏】
八田知家(140年頃~1221年以降)は源頼朝の乳母を務めた寒河尼(さむかわに)の弟で、1203年(建仁3年)には源頼家の命で、謀反の疑いをかけられていた源頼朝の異母弟・阿野全成を誅殺している。
八田知家の鎌倉の屋敷は大倉御所の南門外にあり、1187年(文治3年)には源頼朝・源頼家父子年始めに外出する御行始(ごこうはじめ)の行く先や京都からの使者の宿所に充てられたという。
その後の八田氏は、八田知家の子の八田知重(ともしげ)の代から小田氏を名乗り、小田城(茨城県つくば市)を拠点として発展と衰退を繰り返しながら、常陸国(茨城県)南部などを支配した。
16世紀前半、小田政治(まさはる)の代には結城氏や古河公方などと争い、所領を拡大して最盛期を迎えたが、1569年(永禄12年)、小田政治の子・小田氏治(うじはる)の時に佐竹氏の侵攻を受けて小田城を失い、1590年(天正18年)、豊臣秀吉の小田原攻めに参陣しなかったことで所領を没収された。
【安達氏】
安達盛長(1135年~1200年)は比企尼(源頼朝の乳母)の長女を妻とし、源頼朝が伊豆国(静岡県)で流人生活を送っていた頃から側近として仕えた。
源頼朝はたびたび安達盛長の館を私用で訪れている記録が残されており、源頼朝の信頼は大変厚かったと考えられる。
源頼朝の没後は出家して蓮西(れんさい)と名乗り、十三人の合議制の一人として幕政に参画したが、生涯無位無官のまま1200年(正治2年)4月に没した。
安達盛長の曾孫・安達泰盛(やすもり)は8代執権・北条時宗の舅、9代執権・北条貞時の外祖父として有力御家人として、元寇の際に越訴奉行・恩賞奉行を務め、「弘安徳政」と呼ばれる幕政改革を主導した。
安達泰盛は1285年(弘安8年)、北条得宗家の内管領の平頼綱と対立してその讒言(ざんげん)によって討たれ、一族の多くも殺害された。
京下り官人のメンバー
源頼朝は朝廷で実務を行っていた下級貴族や官人を鎌倉に招いて、鎌倉幕府の実務担当者として優遇した。
彼らは「京下り官人」と呼ばれ、大江広元(おおえのひろもと)、中原親能(なかはらのちかよし)、二階堂行政(にかいどうゆきまさ)、三善康信(みよしやすのぶ)が「十三人の合議制」のメンバーとなった。
【大江氏】
大江広元(1148年~1225年)は公家の中原家の出身で下級貴族(官人)として朝廷に仕えていたが、兄の中原親能が早くから源頼朝に従っていた縁で鎌倉へ下り源頼朝に仕えた。
大江広元は公文所(のちに政所)の別当として主に朝廷との交渉にあたり、守護・地頭の設置を献策するなど(『吾妻鏡』1185年11月12日条)、実務化として活躍した。
源頼朝の没後も北条政子や執権・北条義時と協調しながら政策決定や施行に大きな影響力を行使し、鎌倉幕府の安定のために尽くした。
大江広元の嫡男・大江親広(ちかひろ)は京都守護の要職にあったが承久の乱(1221年)で失脚し、相模国毛利荘(神奈川県厚木市)を受け継いだ四男・毛利季光(としみつ)も宝治合戦(1247年)で三浦泰村に味方して討たれた。
毛利氏の名跡は、毛利季光の四男・毛利経光が引き継ぎ、その子孫は南北朝の動乱期に安芸国吉田荘(広島県安芸高田市)に定着し、その系統から後に中国地方の覇者となった戦国大名・毛利元就(もとなり)が出ている。
【中原氏】
中原親能(1143年~1209年)は弟である大江広元より前から源頼朝に従い、側近として公文所の寄人や政所の公事奉行人などを務めた。
また、朝廷と幕府の折衝役を務めて京都守護と称せられ、特に鎌倉幕府の対朝廷・公家対策に大きな功績を残した。
キリシタン大名として著名な大友宗麟を輩出した大友氏が九州で大きな勢力を持つことができたのは、その初代・大友能直(よしなお)が養父の中原親能から豊後国(大分県)の広大な所領を相続したことに起因するという説もある。
【二階堂氏】
二階堂行政(1130年代後半~不明)は源頼朝の生母の従弟に当たることから、源頼朝に仕えたと考えられるが詳細は不明である。
1184年(元暦元年)8月、三善康信とともに公文所の棟上げの奉行を務め(『吾妻鏡』1184年8月24日条)、1193年(建久4年)に政所の別当となり、先任の大江広元を補佐した。
二階堂の苗字は二階建ての仏堂があった永福寺(ようふくじ・1192年11月建立)の周辺に、二階堂行政が邸宅を構えたことに由来するという。
二階堂行政の子孫は実務官僚として鎌倉幕府や建武政権、室町幕府に仕え、その所領は日本全国に散在しており、二階堂一族は各地で栄えた。
例えば、1444年(文安元年)頃、二階堂為氏が鎌倉から陸奥国須賀川(福島県須賀川市)に下向して須賀川城に入ったという。
この須賀川二階堂氏は永禄年間(1558年~1570年)になると、度々蘆名氏に攻められるようになり、1589年(天正17年)10月には伊達政宗に攻められて須賀川城が落城し滅んだ。
また、隠岐家の二階堂行景(ゆきかげ)は安達泰盛一族が滅亡した霜月騒動(1285年)に巻き込まれて没するが、子の二階堂泰行(やすゆき)が所領の一部が薩摩国阿多郡(鹿児島県南さつま市)に下向して島津家の家臣となっている。
この薩摩二階堂氏の子孫が自由民主党副総裁や幹事長などを歴任した二階堂進であり、その住居は「二階堂家住宅」として重要文化財に指定されている。
【三善氏】
三善康信(1140年~1221年)は、母が源頼朝の乳母の妹であった縁から伊豆国で流人生活を送っていた源頼朝宛てに、月に3度京都の情勢を知らせていたという。
1184年(元暦元年)4月、三善康信は源頼朝から鎌倉に住み政務の補佐をするよう依頼され、同年10月、問注所の執事(長官)として裁判事務の責任者となった。
承久の乱(1221年)の際には病の身で会議に参加して大江広元の即時出兵論を支持し、承久の乱後に没した。
三善康信の子孫には町野氏・太田氏・飯尾氏・布施氏らがあり、鎌倉幕府の引付衆あるいは室町幕府の奉行衆として活躍した。
「鎌倉殿の13人」の子孫たち
以上、「鎌倉殿の13人」の経歴や子孫について紹介したが、その子孫たちは鎌倉時代以降も歴史の表舞台で活躍し、その中には日本史教科書に記載されている人物もいる。
例えば、三浦氏は相模国三浦半島を本拠として勢力を維持・発展させ、戦国時代初期に伊勢宗瑞(北条早雲)によって滅ぼされるが、その子孫には奥州の戦国大名・蘆名氏につながり、江戸時代に紀伊徳川家の家老を代々務め、明治維新まで大名として続いた家もみられる。
また、安芸国(広島県)の一領主から中国地方第一の戦国大名となった毛利元就は、大江広元の四男・毛利季光を祖としている。
毛利元就の子孫は、江戸時代には長州藩主として長門国・周防国(山口県)を領し、明治維新を成し遂げて明治後は華族の公爵家に列している。
御家人ではなく下級貴族出身の大江広元の子孫が、戦国大名として名を馳せ江戸時代を通じて大名家として続いたことは大変興味深い。
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<主な参考文献>
小和田 哲男、他 2003年『日本史諸家系図人名辞典』講談社
関 幸彦、他 2017年『相模武士団』吉川弘文館
「毛利博物館」公式ホームページ(https://www.c-able.ne.jp/~mouri-m/)
小和田 哲男、他 2003年『日本史諸家系図人名辞典』講談社
(寄稿)勝武@相模
・【鎌倉殿の13人】三浦氏の興亡と2つの城~「衣笠城」と「新井城」を探究する
・【鎌倉殿の13人】畠山重忠の館と伝わる「菅谷館」~文献史料と発掘調査成果から探究する
・【鎌倉殿の13人】畠山重忠の生涯とゆかりの史跡~誕生から非業の最期まで
・【鎌倉殿の13人】伊豆・北条氏の館~北条氏邸跡の発掘調査成果から探究する
・【鎌倉殿の13人】北条義時とゆかりの史跡~静岡県伊豆の国市編~
・波多野氏の館の探究~「波多野城址」と「東田原中丸遺跡」
・土肥実平の館を探究する~土肥館と土肥城~
・相模武士団の概説~源平の争乱期・平安時代末期から鎌倉時代初期を中心に~
・考古学からみた藤原秀衡の館・柳之御所~発掘調査成果から探る特徴~
・藤原秀衡と「平泉館」~『吾妻鏡』と柳之御所遺跡の調査から
・中世初期の武士の館~文献史料・絵巻物から読み解く~
・鎌倉城とは~大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の舞台をめぐる諸説
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