【鎌倉殿の13人】畠山重忠の館と伝わる「菅谷館」~文献史料と発掘調査成果から探究する

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概要

埼玉県のほぼ中央の比企郡嵐山町に2022年(令和4年)のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13」で中川大志が熱演した畠山重忠の館と伝わる「菅谷館(すがややかた)」かある。
菅谷館への交通アクセスは東武東上本線の武蔵嵐山(むさしらんざん)駅西口から徒歩約13分、車の場合は関越自動車道の東松山ICあるいは嵐山小川ICから約10分である。




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菅谷館の跡は1973年(昭和48年)に国指定史跡国の史跡に指定され、堀や土塁などの遺構が整備されており、また「埼玉県立嵐山史跡の博物館」が所在する。
しかし、現在、見ることができる堀・土塁などの遺構や縄張りは戦国時代のものであり、畠山重忠が活躍した平安時代末期から鎌倉時代初期の姿ではない。
本稿では菅谷館に関する史料や発掘調査の成果などから、畠山重忠の時期の館の様子について探究する。

菅谷館の現状

菅谷館は比企丘陵のほぼ中央、都幾(とき)川の北側の段丘上に立地し、段丘の南側は都幾川の浸食による崖がある。
東側と西側には台地に直行する谷がいくつも形成され所々に泥田堀(どろたぼり)もみられる。
これらの複雑な地形を利用した菅谷館の縄張りは、都幾川に面した南端の断崖上の本郭を中心として北側に二ノ郭・三ノ郭・西ノ郭が、南側に南郭が同心円状に取り囲む。
菅谷館は輪郭(りんかく)式の縄張りであり、各郭の現状は以下のとおりである。
【本郭】
本郭は菅谷館の中心部よりやや南にあり、東西約150m、南北約60mの長方形を呈し、周囲には堀や土塁、郭が何重にも取り巻いている。
本郭の北側の堀は、幅が15m以上、堀底から土塁の頂部までの比高差は7~9mと、菅谷館内で最も高低差がある。
本郭の北側の三ノ郭がほぼ平坦であることから、深い堀と高い土塁を築くことで防御性を高めたものと考えられる。
一方、南側は河岸段丘を利用しているためか、堀は浅く土塁は低くなっている。
北側の土塁のほぼ中央に二ノ郭に面して土橋があり、その西側には「出桝形(でますがた)」の土塁が築かれている。
ちなみに出枡形土塁は、敵が外から侵入した際に横側から矢を射かけることができるように工夫した土塁(「横矢掛かり」)である。
【二ノ郭】
二ノ郭は本郭の北側と西側を囲むように造られており、西側から北側にかけて土塁が明瞭に残されている。
北側の中央部と東側には「虎口(こぐち)」と呼ばれる郭への入口が設けられている。
特に北側の虎口は堀を挟んで三ノ郭側に枡形が設けられ、その周辺は堀底から二ノ郭側の土塁の頂部までの高低差は6mあり、防御性も高めた造りとなっている。
現在、砂利道となっている二ノ郭の北側と三ノ郭の南側の境は、往時は空堀であったが、二ノ郭の土塁を壊して埋め戻されたものと伝えられている。
【三ノ郭】
三ノ郭は二ノ郭の北側にあり、東西約260m、南北約130mの長方形を呈する菅谷館内で最も広大な郭である。
現在、郭内の東側半分に「埼玉県立嵐山史跡の博物館」があり、その建設に先立つ発掘調査で発見された遺構のうち、掘立柱建物跡1棟と井戸跡1ヶ所が木杭(きぐい)や浅い窪みとして示されている。
虎口は3か所にみられるが、国道254号線嵐山バイパスからの進入路である北東の虎口は、城館の裏門である「搦手(からめて)門」であったと伝えられている。
この虎口は内部に向かい上り坂となる「坂虎口」で、二重土塁の内側の土塁を前後に約3mずらした「喰違(くいちがい)虎口」でもある。
また、西側の虎口は「正坫(しょうてん)門」と称せられ、堀に面した虎口の内側には小規模の土塁が造られており、西ノ郭から三ノ郭が見通せない構造となっている。
【西ノ郭】
西ノ郭は菅谷館の北西部にあり、東西約130m、南北約70mのいびつな長方形を呈している。
郭の周囲は堀がめぐり、堀を隔てて北東で三ノ郭、南東で二ノ郭にそれぞれ接しており、北側と西側には土塁もみられる。
西側の土塁には「大手門」の跡と伝えられている開口部があるが、詳細は不明で再検討の必要があるという。
また、三ノ郭と西ノ郭の間の空堀からは木橋の基礎とみられる石積みが発見されており、現在、橋が復元されている。
【南郭】
南郭は本郭の南側にあり、東西約110m、南北約30mと菅谷館で最も狭い郭で、他の郭より一段低く造られている。
郭の南西部には都幾川へ至る「水の手虎口」と考えられている土塁の切れ目がみられる。




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以上のように、現在の菅谷館を観察すると、崖や谷などの自然地形を利用し、深い堀と高い土塁に囲まれた縄張りで、随所に出枡形や喰違い虎口もみられる。
こうした複雑で堅固な縄張りや防御性を高める築城技法などから、菅谷館は戦国時代に拡張・補強されたことが推測できる。

文献史料にみる菅谷館

菅谷館に関する文献史料は少なく、築城者や築城から拡張・補強を経て廃城までの具体的な時期については不明である。
畠山重忠が居住したとされる鎌倉時代の菅谷館については『吾妻鏡』以外は確認されていない。
その初見は1187年(文治3年)11月15日条で「梶原平三景時 内々に申して云はく、畠山次郎重忠、重科を犯さ不之處、之を召禁じ被るの條、大功を弃捐被るに似たりと稱し、武藏國菅谷舘に引篭み、反逆を發さんと欲する之由風聞す」とある。
梶原景時の話として、畠山重忠が武蔵国菅谷館に引きこもり謀反を企んでいることが記されている。
また『吾妻鏡』の1205年(元久2年)6月22日条に「々々(畠山重忠)去る十九日小衾郡菅屋舘を出で、今此の澤に着く也」という記述がある。
1205年(元久2年)6月22日、畠山重忠が二俣川(神奈川県横浜市旭区)で北条義時が率いる鎌倉幕府の大軍と戦い討ち死にした際、同年6月19日に菅屋館を出発したことを示す記述である。
なお、現在、嵐山町菅谷は比企郡であるが、当時は「小衾郡」(男衾郡・おぶすまぐん)に属し、「菅屋」は菅谷のことと考えられている。

これらの記述から、菅谷館は1187年(文治3年)11月15日以前に畠山重忠が居住していたことは明らかであるが、いつ誰が築いたかについては分からない。
畠山重忠没後の菅谷館について、江戸時代後半に編纂された『新編武蔵風土記稿』は畠山重忠未亡人と再婚した岩松義純(いわまつよしずみ)が居住したと伝えているが伝聞に過ぎない。

戦国時代前期の1488年(長享2年)6月、関東管領・山内上杉顕定(やまのうちうえすぎあきさだ)と扇谷上杉定正(おうぎがやつうえすぎさだまさ)が対立し、菅谷館周辺で須賀谷合戦が起きた。
この頃、僧侶の松陰(しょういん)が記した『松陰私語』には松陰の岩松氏に対し、河越(扇谷上杉)に対して「須賀谷旧城」を再興することを進言している。
ここでいう「須賀谷」は菅谷のことで旧城とあることから、菅谷館は遅くても1488年(長享2年)6月より前に廃城となっていたことが分かる。

次に文献史料上で菅谷館が確認できるのは、江戸時代初期の1672年(寛文12年)に作成された『城築規範』に収録の城絵図「武州菅谷城」で「上杉管領居城之由」と記されている。
同様の記載は「諸国古城之図」(広島市立中央図書館蔵)や「日本古城絵図」(国立国会図書館蔵)にもある。
そのほか、江戸時代後期の1801年(享和元年)~1802年(享和2年)に福島東雄(ふくしまあずまお)が編纂した『武藏志』に収録の絵図「菅谷古館」がある。
この絵図には「秩父庄司次郎重忠ノ館ト云ハ是ナリ」と記載されており、江戸時代後期には「菅谷古館」が畠山重忠の館であった、と認識されていたことが分かる。

以上のように、文献史料からは菅谷館の歴史について、鎌倉時代初期以前に畠山重忠の館として築かれ、その没後は岩松義純が居住したが、その後一旦廃城となった。
戦国時代に入り合戦が繰り返された15世紀後半に山内上杉氏によって、鎌倉時代の菅谷館が改修・拡張が行われ、現在の姿になったと考えられる。

菅谷館の発掘調査

城館を解明する研究方法として現状の遺構の観察、関連する文献史料や絵図類の分析、そして発掘調査に基づく考古学からのアプローチがある。
菅谷館では、2019年(平成31年)3月までに5回の発掘調査が行われており、その概要は以下のとおりである。
【第1次・第2次調査】
第1次調査は1973年(昭和48年)に三ノ郭の博物館建設予定地、第2次調査は1975年(昭和50年)に三ノ郭内の駐車場建設予定地で行われ、調査範囲は三ノ郭ほぼ東半分に当たる。
二度にわたる発掘調査の結果、掘立柱建物跡5棟、井戸跡5か所、溝跡5か所が発見され、堀や墓などの存在も確認されている。
遺物はかわらけ、擂鉢(すりばち)、内耳鍋(ないじなべ)、天目茶碗(てんもくちゃわん)、青磁碗(せいじわん)、板碑などが出土している。
中でも第2次調査で井戸跡から出土した板碑は「享徳二年」(1453年)の銘を有し、文字内に金泥(きんでい)、枠線の一部に朱が残っている。
【第3次調査】
第3次調査は1976年(昭和51年)に三ノ郭に隣接する国道254号線嵐山バイパスの建設予定地、で行われた。
発掘調査の結果、泥田堀の存在が確認され、かわらけ、青磁碗の破片、板碑などが出土している。
【第4次調査】
第4次調査は1979年(昭和54年)に三ノ郭と西ノ郭の間の空堀、現在、木橋が復元されている地点で行われた。
発掘調査の結果、橋を架けるための基礎と考えられている石積み発見され、かわらけ、擂鉢、白磁皿(はくじさら)、天目茶碗などが出土している。
【第5次調査】
第5次調査は1981年(昭和56年)に三ノ郭の西側の虎口である「正坫門」の北側にある土塁開口部で行われた。
発掘調査の結果、土塁開口部の下から石敷遺構が確認され、遺物はかわらけ、火鉢が出土している。

以上、第1次から第5次までの発掘調査において、中世の遺物はかわらけ、火鉢、白磁皿、擂鉢などが出土したが、その大半は15世紀後半から16世紀前半のものである。
鎌倉時代までさかのぼる遺物は13世紀の青磁碗の破片など僅かであった。
また、かわらけ、天目茶碗の破片など17世紀を中心とする遺物が出土しており、江戸時代にも菅谷館内で生活していた人々が存在したことが分かる。

菅谷館でのこれまでの発掘調査では、畠山重忠と直接結びつく遺構や遺物は確認されていない。
また、現在の菅谷館でみることができる土塁や堀などは、その特徴から16世紀後半の後北条氏に関係するものとする説を裏付けるような遺構や遺物も確認されていない。
ただし、菅谷館の発掘調査は館跡全体の約8%の範囲でしか行われておらず、今後の発掘調査によって新たな事実が解明される可能性もある。




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<主な参考文献>
 五味文彦・本郷和人編 2004年『現代語訳 吾妻鏡』 吉川弘文館
 埼玉県立嵐山史跡の博物館編 2019年『嵐山史跡の博物館ガイドブック2 改訂版 国指定史跡 比企城館跡群 菅谷館跡』
 埼玉県立嵐山史跡の博物館編 2020年『企画展示図録 戦国の比企 境目の城』

(寄稿)勝武@相模
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