【徳川家康と城】徳川家康が二度築城「駿府城」の歴史を探究する~築城の経緯と背景を中心に~

「【徳川家康と城】徳川家康が二度築城「駿府城」の歴史を探究する~築城の経緯と背景を中心に~」のアイキャッチ画像

概要

駿府城は静岡県静岡市の中心部に位置し、現在、本丸・二の丸の跡地が「駿府城公園」として整備されている。
公園内には東御門(ひがしごもん)や巽櫓(たつみやぐら)、坤櫓(ひつじさるやぐら)が復元され、堀や石垣も比較的よく保存されている。
堀については、駿府城を取り巻いていた三重の堀のうち、二の丸堀(中堀)には水がたたえられ、本丸堀(内堀)は発掘調査で確認された南東部分の一部が整備されている。
また、天守台跡では2016年(平成28年)8月から2020年(令和4年)2月まで発掘調査が行われ、その成果である各時期の天守台の石垣を見学することができる。

駿府城の歴史は1411年(応永18年)、駿河(静岡県)守護の今川範政(のりまさ)が今川館を築き、領国支配の拠点としたことから始まる。
その後、武田信玄の駿河侵攻により今川氏は没落し、武田氏も滅亡すると駿河は徳川家康の領国となった。
徳川家康は1585年(天正13年)から駿府城を築城して居城としたが、4年後の1590年(天正18年)に後北条氏旧領の関東に移封され、江戸城を居城とした。
その後、1607年(慶長12年)、徳川家康は駿府城を大改修して再び居城とし、1616年(元和2年)に駿府城で没した。




スポンサーリンク



徳川家康は今川義元の今川館での人質生活(1549年~1560年)を含め、75年間の生涯で3度、計24年間を駿府で過ごした。
なぜ、徳川家康は二度も駿府城を築城して居城としたのか、本稿では築城経緯やその背景について、徳川家康の勢力と関連付けながら探究する。

1585年(天正13年)の駿府城築城

1585年(天正13年)閏(うるう)8月、徳川家康は駿府城の築城を松平家忠(いえただ)に命じた。
駿府城の築城は、徳川家康が三河(愛知県)・遠江(静岡県)・駿河・甲斐(山梨県)・信濃(長野県)の5か国に及ぶ領国経営の拠点とするためであった。
これまで三河・遠江を領していた徳川家康は、1582年(天正10年)2月、武田勝頼の旧領である駿河の領有を織田信長から認められた。
さらに、同年3月の本能寺の変で織田信長が明智光秀によって自害させられると、その後の混乱に乗じて甲斐・信濃も領国に加えたのである。

1586年(天正14年)12月、徳川家康はこれまでの浜松城から駿府城に移るが、それ以降も駿府城の築城工事は続いていたことが『家忠日記』などの史料にみられる。
1587年(天正15年)4月に本丸が完成し、翌1588年(天正16年)5月から天守の工事が始まり、1589年(天正17年)4月に駿府城の築城工事は完成する。
なお、『家忠日記』の天正17年2月11日の記事に「小傳(天)主てったい普請当候」とあり、駿府城には大天守と小天守があったことが分かる。
完成した駿河城は本丸や二の丸に石垣を配し、大天守と小天守も建てられた本格的な「織豊(しょくほう)系城郭」であったことが想像できる。

ところが1590年(天正18年)8月、豊臣秀吉による小田原平定で後北条氏が滅亡すると、徳川家康は後北条氏旧領の関東に移封され江戸城に移った。
駿府城には豊臣秀吉の家臣・中村一氏(かずうじ)が入城し、関東の徳川家康に対する防御的な役割を果たしたと考えられる。

その中村一氏は1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで徳川家康に味方し、嫡子の中村一忠(かずただ)が加増されて伯耆(ほうき)の米子城(鳥取県米子市)に移った。
駿府城は再び徳川家康の持ち城となり、家臣の内藤信成(のぶなり)が城主となった。

「天下普請」による駿府城の築城

関ヶ原の戦い(1600年)で勝利した徳川家康は、1603年(慶長8年)、征夷大将軍に任じられたが、2年後の1605年(慶長10年)4月には将軍職を嫡子・徳川秀忠(ひでただ)に譲った。
徳川家康は隠居地を駿府に定め、当初は駿府城の南、川辺村に隠居所を設けることにしたが、それを変更して駿府城を拡張して隠居後の居城とすることにした。

1606年(慶長11年)12月、徳川家康は越前(福井県)・美濃(岐阜県)、尾張(愛知県)・三河・遠江の諸大名に築城工事の手伝い(助役)を命じた。
また1607年(慶長12年)3月には丹波(京都府)・備中(岡山県)・近江(滋賀県)・伊勢(三重県)・美濃(岐阜県)の5か国の大名に500石につき1人の割合で人夫を出すよう命じている。
普請(ふしん)奉行は三枝昌吉(さえぐさ まさよし)、山本正成(まさなり)、滝川忠征(ただゆき)、佐久間政実(まさざね)、山城忠久(ただひさ)らが担った。

築城工事の経過については『駿国雑記』に「同年(慶長12年)五月廿三日、本丸天守台径始。同年七月三日、本城方百廿間、其石垣高さ七間、或は九間、天守台成就、神宮移徙。……同年十月廿八日、経始成就、五百夫悉く皈国」とある。
この記事からは、1607年(慶長12年)5月に天守台の工事が始まり、同年10月28日には工事が終了し、人夫も帰国したことが分かる。
また、徳川家康(記事では「神宮」)は、同年7月3日には御殿に入ったことも記されている。




スポンサーリンク



築城工事が終了した約2か月後の1607年(慶長12年)12月23日午前2時頃、駿河城は不慮の失火によって本丸の御殿、櫓(やぐら)、門などがことごとく焼失した。
本丸の再建工事は翌1608年(慶長13年)1月から始まり、同年8月には本丸御殿が完成し、1610年(慶長15年)には五重七階、あるいは六重七階の天守が完成した。
その天守台は、石垣の上端で約55m×48mという城郭史上最大級の規模である。
城の構造も1589年(天正17年)4月に完成した駿府城に三の丸が拡張され、内側から本丸・二の丸・三の丸の曲輪と三重の堀をもつ輪郭(りんかく)式の大規模な城郭となった。

駿府城の改修工事は、各地の諸大名が担当する「天下普請(てんかぶしん)」による大規模なものであった。
完成した駿府城は将軍職を退いた後も「大御所」として政治権力を持ち続けた徳川家康の最後の居城としてふさわしい城となった。

徳川家康没後の駿府城

徳川家康は1616年(元和2年)4月に没し、徳川頼宣(よりのぶ)が駿府城の城主となるが1619年(元和5年)7月に紀州和歌山城(和歌山県和歌山市)に移封され、その後は城番(じょうばん)が置かれた。
1625年(寛永2年)からは3代将軍徳川家光の弟・徳川忠長(ただなが)が城主となったが、1632年(寛永9年)に改易(かいえき)となった後は、駿府城には城代が置かれるようになった。
駿府城代は江戸幕府の重職の一つで、代々徳川氏とゆかりの深い名門の旗本が任じられた。

駿府城は1635年(寛永12年)、城下から出火した火災によって天守をはじめとする大半の建物が焼失した。
1638年(寛永15年)に櫓や門、本丸御殿は縮小して再建されたが、天守は再建されなかった。
その後も1707年(宝永4年)や1854年(安政1年)の大地震で石垣が崩壊したが、すべての石垣は修理されなかったという。
明治維新後は15代将軍徳川慶喜(よしのぶ)の跡を継いだ徳川家達(いえたつ)が駿府藩主として駿府城に入るが、1871年(明治4年)の廃藩置県により駿府城の建物は払い下げられた。
さらに、1896年(明治29年)には本丸に「陸軍歩兵第二十九旅団(りょだん)第三十四連隊」が置かれ、その際、本丸の堀が埋め立てられ、天守台も地上部分は撤去され更地となった。

駿府城は、徳川家康が二度にわたり築城工事をおこなうなど、徳川氏にとって所縁(ゆかり)の深い城である。
一度目は1585年(天正13年)から1589年(天正17年)にかけて、徳川家康が勢力圏を拡大していく中で、5か国の領国支配の新たな拠点を浜松城から駿府に移すための築城工事である。
二度目は、将軍職を退いた徳川家康が1607年(慶長12年)、隠居後も政治権力を維持する「大御所」の居城としてふさわしい「天下普請」による工事である。
徳川家康没後も駿府城は、徳川一門が城主を務めたり、江戸幕府直轄の城として城代が置かれたりした。
さらに明治維新後の一時期には、徳川慶喜の後に徳川家当主となった徳川家達(いえさと)が駿府藩主として在城したこともある。




スポンサーリンク



<主な参考文献・資料>
静岡市教育委員会 2022年『静岡市埋蔵文化財調査報告 駿府城本丸・天守台跡』
中井 均・加藤 埋文 2020年『東海の名城を歩く 静岡編』吉川弘文館
西ヶ谷 恭 1999年『国別 戦国大名城郭事典』東京堂出版
平井 聖、他 1979年『日本城郭大系 第9巻 静岡・愛知・岐阜』新人物往来社

(寄稿)勝武@相模

【教科書と城郭】小学校歴史教科書に登場する「城郭」の紹介~学習指導要領と教科書制度を踏まえて~
戦国大名・今川氏の居館「今川館」を探究する~徳川家康が築いた「駿府城」跡の発掘調査成果を中心に~
【徳川家康と城】徳川家康の駿河・遠江の拠点「浜松城」の築城経緯を探究する~「引馬(引間)城」との関係を中心に~
【徳川家康と城】徳川家康誕生の城「岡崎城」の魅力を探究する~文献史料・絵図・発掘調査成果をもとに~
【どうする家康】徳川家康が生まれた城「岡崎城」~その歴史と城郭の整備・拡張を探究する
【どうする家康】徳川家康と城郭(概要編)~居城の変遷を探究する
【鎌倉殿の13人】鎌倉にある北条氏一族の館を探究する~『吾妻鏡』の記述と発掘調査成果から~
【鎌倉殿の13人】畠山重忠の館と伝わる「菅谷館」~文献史料と発掘調査成果から探究する
【鎌倉殿の13人】伊豆・北条氏の館~北条氏邸跡の発掘調査成果から探究する
波多野氏の館の探究~「波多野城址」と「東田原中丸遺跡」
土肥実平の館を探究する~土肥館と土肥城~
考古学からみた藤原秀衡の館・柳之御所~発掘調査成果から探る特徴~
藤原秀衡と「平泉館」~『吾妻鏡』と柳之御所遺跡の調査から
中世初期の武士の館~文献史料・絵巻物から読み解く~
鎌倉城とは~大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の舞台をめぐる諸説

共通カウント