考古学からみた藤原秀衡の館・柳之御所~発掘調査成果から探る特徴~

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柳之御所遺跡の発掘調査

2022年(令和4年)のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に登場している武士はどのような館に住み、どのような生活を送っていたのか。
それを解明するには、文献史料や絵巻物などの絵画資料が有効であるが、これらの史資料は必ずしも歴史事実をすべて正確に反映しているわけではない。
往時の武士の館を忠実に再現するには、遺構や遺物といった考古学資料を活用した検討も重要であると考える。

奥州藤原氏3代目の藤原秀衡の「平泉館」と推定されている柳之御所遺跡では1969年(昭和44年)から現在まで発掘調査が行われている。
中でも1988年(昭和63年)から1993年(平成5年)にかけて岩手県と平泉町が実施した調査では大きな成果を得ている。
柳之御所遺跡は北西から南東に流れる北上川を北に臨む台地上に立地し、北西から南東に細長く、最大長約725m、最大幅約212m、面積的11万㎡という広大なものである。

発見された遺構

柳之御所遺跡からは発掘調査により、堀、掘立柱建物、園地、井戸状遺構、地鎮具(じちんぐ)埋納跡、土坑などの遺構が発見されている。
その概要は以下のとおりである。


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【堀】
堀は遺跡がある台地を二分し、東半部を区画する堀は幅約10m、深さ約2~5mの規模をもち、その一部は北側を除き二重にめぐり、東西約300m、南北約200mの空間を形成している。
土塁は確認されていないが、堀の内外を結ぶ橋は南東部で2ヶ所、北西部で1ヶ所確認されている。
南東部の橋は藤原秀衡の居館と伝わる加羅御所跡との間に架けられており、堀内部の北側に向かって幅約8mの道路があり、塀で区画された部分に達する。
【掘立柱建物】
掘立柱建物は堀の内部地区の中心部に集中し、その周辺からは塀や園池、井戸状遺構も多く発見されている。
これらの遺構が集中する中心建物群は、遺構の重複関係から3期か4期の変遷が考えられている。
Ⅱ期・Ⅲ期の建物には四面に庇(ひさし)が付くものが主体となり、その最大のものは四間×九間の四面庇付の大型建物である。
【園池】
園池は中心建物群からやや離れた南西にあり、東西幅約36mの左右非対称の形状で一度改修された跡が残る。
【井戸状遺構】
井戸状遺構(以下、井戸と称す)は中心建物群、園地、塀の周辺から31基が発見されている。
すべて素堀りで、その平面形は方形を基本としたものが多く、深さは2m未満から5mを超えるものもある。
井戸からは、かわらけの完形品や折敷(おしき)、箸が一緒に出土し、破風(はふ)板や建築材、焼けた土壁などが出土している井戸もある。
また、底面の直上から松鶴(しょうかく)鏡が出土している井戸もあり、これは井戸を埋め戻す際に行われた祭祀に関連したものと考えられている。
【地鎮具埋納跡】
地鎮具(じちんぐ)埋納跡は長辺95㎝、深さ30㎝の長方形を呈し、密教の法具である輪宝(りんぽう)と橛(けつ)、小型のかわらけ8枚が埋められている。
中心建物群とその周辺で地鎮の儀式が行われたと考えられているが、具体的なことはわかっていない。
【土坑】
土坑は用途を特定できないものが多いが、チョウ木と呼ばれる糞ベラ2000本近く、またウリ科などの種子が出土しているものがある。
こうした土坑は便所ではないかと推測されており、そのうち1基については土壌分析により、回虫や鞭虫(べんちゅう)という寄生虫卵や日本海裂頭条虫(サナダ虫)が多く見つかっている。
このことから、柳之御所ではサケやマスの仲間を、生食か不完全調理の状態で食していたことがわかる。
また、シカ、マグロ、ガン、ノウサギ、イヌ、ウシ、ウマなど、食用にもなる動物遺存体も発見されている。

出土した豊富な遺物

柳之御所遺跡からは、かわらけ、中国陶磁器、国産陶器、瓦、金属製品、木製品、石製品、土製品、動物・植物遺体、そして文字や絵画資料も出土している。
豊富で数が多い遺物の中から特徴的なものを紹介する。

【かわらけ】
かわらけは、儀式や宴会の際に使用され使い捨てにされた素焼きの土器の皿である。
柳之御所遺跡ではいたるところから、総出土量十数トンという莫大な数が出土しており、その大きさは、直径が14cm前後のものと9cm前後のものに大別される。
かわらけの中でも、轆轤(ろくろ)を使わないで製作されたかわらけは、「京都系土師器皿」とも呼ばれており平安京跡でも多く出土している。
【中国陶磁器】
中国陶磁器は、12世紀の遺跡としては平安京や博多に次いで大量に出土している。
青磁(せいじ)に比べて白磁(はくじ)が圧倒的に多く出土し、中でも白磁の四耳壺(しじこ)が多い。
四耳壺は、鎌倉時代以降の東国の武士が好んで用いたと指摘されており、奥州藤原氏が武士であることを反映した遺物とも言える。
【国産陶器】
国産陶器は渥美産と常滑(とこなめ)産が大量に出土し、須恵器系陶器も一部みられる。
陶器の中には、沈線によってさまざまな文様が描かれている刻画文(こくがもん)陶器の壺が多数出土している。
この壺は当時の貴族や富裕層に好まれたもので、白磁四耳壺と同様、奥州藤原氏の性格を反映していると考えられている。


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【木製品】
木製品は堀や井戸状遺構などから大量に出土しており、その種類も豊富である。
下駄や櫛、箸、折敷(おしき)、曲物などの日常道具に加えて、呪符や人形(ひとがた)をはじめとする各種の形代(かたしろ)、宝塔といった呪術や信仰に関わる遺物もみられる。
【文字資料・絵画資料】
まず、文字資料としては、折敷の底板に書かれたものが4点あり、その1点は「人々給絹日記」という表題で、人名や染色名、衣装名が一面に、別の面に絹の品質や寸法・数量が書かれているものである。
この遺物は、多くの糸巻きや裁衣尺と一緒に出土していることから、儀式に際しての給付リストと考えられている。
また、「急々如律令・惣鬼鬼」と墨で書かれた呪符や、「南無阿弥陀仏」と刻まれた卒塔婆なども出土している。
さらに、かわらけには人面墨書土器や、宴会の場で詠まれた歌が書かれたものもある。
絵画資料としては、折敷の底板に寝殿造の「対」を写実的に描いた墨画もみられる。

柳之御所遺跡の特徴

前述したように、柳之御所遺跡からは堀の内部を中心に、特徴ある遺構や豊富な遺物が出土している。
大量のかわらけや中国陶磁器、文字や絵画がある遺物などからは、柳之御所遺跡が単なる居館ではなく、儀式や儀礼が行われ、祭祀とも結び付いた場であったことが考えられる。
遺跡が機能した時期は、かわらけや中国陶磁器、国産陶器などから12世紀後半を中心とする時期と考えられている。

柳之御所は『吾妻鏡』に記されている藤原秀衡の館「平泉館」と推定されており、奥州藤原氏の本拠としてふさわしい遺跡として1997年(平成9年)には国の史跡に指定された。
2010年(平成22年)には「柳之御所史跡公園」がオープンし、発掘調査で発見された堀、中心建物、園池、井戸、汚物廃棄物などの遺構が復元されている。
ガイダンス施設の「柳之御所資料館」では遺構と復元の考え方などをわかりやすく説明しており、また、すべて重要文化財の約400点に及ぶ遺物が展示されている。

「柳之御所史跡公園 見学パンフレット」

「柳之御所史跡公園」では小学生らが復元施設や展示品などを見学しながら、柳之御所遺跡や当時の生活について学ぶことができる学習ワークシートも用意されている。

「学習用ワークシート 柳之御所遺跡 見学のしおり」

柳之御所遺跡は史跡公園の復元施設や展示品の見学を通して、歴史を身近に感じることができる貴重な遺跡であり、学校教育において体験学習の場としての活用が期待される。


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<主な参考文献>
五味文彦 1994年『中世の館と都市 ミクロの空間から』朝日百科 日本の歴史別冊 歴史を読み直す7 朝日新聞社
酒井直行編 1996年『城郭研究最前線 ここまで見えた城の実像』別冊歴史読本 新人物往来社
佐原 真、他 1996年『城の語る日本史』朝日新聞社
千田 嘉博、他 1993年『城館調査ハンドブック』新人物往来社

(寄稿)勝武@相模

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