【徳川家康と城】徳川家康誕生の城「岡崎城」の魅力を探究する~文献史料・絵図・発掘調査成果をもとに~

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概要

岡崎城(愛知県岡崎市)は1542年(天文11年)12月に徳川家康(幼名・竹千代)が産まれた城として知られている。
徳川家康は1569年(永禄12年)に浜松城(静岡県浜松市)に移るまで、織田氏・今川氏の元で人質生活を送った13年間を除いて14年間、岡崎城を居城とした。

岡崎城は15世紀後半に西郷氏が築城してから、松平氏や徳川家康の居城となり、豊臣秀吉の家臣・田中吉政の時期に外郭(総構え)を有する
近世城郭へと変わっていった。
その後も17世紀半ばにかけて、本多康紀や本多忠利により整備・拡張が行われ、東海道の要所にふさわしい城郭となった。
岡崎城の整備・拡張の詳細については、以下を参照いただきたい。

【どうする家康】徳川家康が生まれた城「岡崎城」~その歴史と城郭の整備・拡張を探究する

本稿では、岡崎城の特徴や魅力について、文献史料や絵図、そして発掘調査の成果をもとに探究する。

内郭の縄張り

近世城郭として整備・拡張された岡崎城は内郭と田中吉政の時に整備された外郭(総構え内)からなる。
そのうち内郭部分は、1531年(享禄4年)に入城した松平清康から本多忠利が城主を務めた時期(1623年~1645年)にかけて整備・拡張されたと考えられている。
ちなみに本多忠利は1644年(正保元年)までに、菅生(すごう)門から稗田(ひえだ)門にかけての曲輪の周囲と菅生川端の石垣の整備を行っている(『龍城中岡崎中分間記』)。

江戸時代後期の岡崎城絵図によると、内郭部分の曲輪(くるわ)は本丸(八幡曲輪)・持仏堂曲輪・二の丸(御誕生曲輪)・三の丸・備前曲輪・東曲輪・隠居曲輪・菅生曲輪・風呂谷(ふろたに)曲輪・坂谷(さかたに)曲輪・白山曲輪・稗田曲輪・北曲輪・浄瑠璃(じょうるり)曲輪があり、それぞれの曲輪の概要は以下のとおりである。




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【本丸(八幡曲輪)】
岡崎城の中核である本丸は、1530年(享禄3年)に松平清康が安城から八幡社を移して城内鎮守としたことから八幡曲輪とも呼ばれている。
江戸時代には北西隅に1617年(元和3年)に天守が再建され、南に月見櫓、東に辰巳櫓(巽櫓)が建っていた。
また、寛永年間(1624年~1643年)に本多忠利により東照宮が建立された。
この東照宮は1770年(明和7年)に本多忠肅(ただとし)によって三の丸に移さると、本丸には本多忠勝を祀る映世神社が建てられた。
ちなみに、東照宮と映世神社は1876 年(明治9年)に合併して現在地に龍城神社が建てられている。

【持仏堂曲輪】
持仏堂曲輪は本丸の北側に位置し、廊下橋を介して本丸天守に通じていた。
持仏堂曲輪の名称は、徳川家康が妙源寺(大和町)より譲られた恵心僧都(えしんそうず)作の阿弥陀仏を安置した堂が所在したためと伝えられている。
本丸と持仏堂曲輪の間には、築城主・西郷清海入道から名付けられた「清海堀」と呼ばれている空堀がある。
空堀は細い帯(おび)曲輪を囲む二重堀で、幅が狭く湾曲する。
二の丸から本丸へ至る通路はこの帯曲輪で 180 度折れ曲がり、細長い帯曲輪に本丸から横矢を掛ける構造である。
また、持仏堂曲輪の馬出しは本丸御門前の馬出しと連動して「重ね馬出し」の構造となっており、横矢とともに非常に固い防御の仕組みとなっている。
清海堀の構造については、内側空堀の本丸側は急斜面の土塁で、外側は近世初期に積まれた石垣である。
そして、この辺りは徳川家康が在城した時期の岡崎城の構造を知ることができる貴重な場所である。

【二の丸(御誕生曲輪)】
二の丸(御誕生曲輪)は本丸と持仏堂曲輪の北側に位置し、1542年(天文11年)12月に徳川家康が生まれたのがこの曲輪であったことから御誕生曲輪とも称されている。
代々の城主が居住する御殿が置かれており、その様子は「参州岡崎二之丸御住居図」などに描かれている。
現在、曲輪の西側には「三河武士のやかた家康館」が建っている。
この建設に先立って1980年(昭和55年)に発掘調査が行われ、二の丸御殿に関係した遺構が確認されている。

【三の丸】
三の丸は二の丸の東側段丘の尾根上に位置し、重臣の武家屋敷や東照宮などが置かれた。
近世後期の岡崎城主・本多家(以下、「後本多家」という)の家老を務めた都筑惣左衛門(つづきそうざえもん)などの屋敷図が今も残されている。
現在、三の丸は国道1号線により分断されており、南側の一部が岡崎公園内に含まれているが、大半は商業地区などの市街地となっている。

【備前曲輪】
備前曲輪は三の丸の東に位置し、三の丸同様に家老を始めとする重臣の武家屋敷が置かれた。その曲輪の名称は、三河国で検地などを行った伊奈備前守忠次(ただつぐ)が居住したことによると伝えられているが、17 世紀の絵図には三の丸と表記されている。
備前曲輪の東側の出入口には、1602年(慶長7年)に整備された丸馬出しが備えられていた。この丸馬出しは近世初期において岡崎城の大手であった可能性が考えられている。
現在、備前曲輪一帯はビル街が広がっており、外堀の外郭ラインが、現在の地番図に見ることができるのみである。

【東曲輪(東丸)】
東曲輪(東丸)は二の丸と三の丸の間に位置し、徳川家康正室の瀬名(築山御前)が居住したという伝承がある。
江戸時代には「御花園」とも呼ばれ、東隅櫓以外に建物はなかったと考えられている。
曲輪跡地には1880年(明治13年)に愛知県公立病院岡崎支病院が設けられたが、1945年(昭和20年)の空襲で焼失した。
2007年度(平成18年度)には岡崎公園バス駐車場が設けられ、現在に至っている。
往時の遺構としては、東曲輪の横に切通しが地表にみられる。
この切通しは、岡崎城が立地する丘陵の尾根筋を切り分けており、当初は空堀として構築されたが、後に堀底道として利用されたと考えられている。
2011年(平成 22 年)には切通しを臨む南東角の東隅櫓が木造で復興されている。

【隠居曲輪】
隠居曲輪は本丸の東側、菅生曲輪との間に位置し、細い通路により持仏堂曲輪の東側の本丸馬出しと二の丸とに接続する。
曲輪内は高低差があり、段丘から低地の水堀に向かい張り出し、菅生曲輪とは龍城堀により隔てられていた。
1923年(大正12年)の運動場造成で、周囲の馬蹄形の堀が埋め立てられ、以降は菅生曲輪と繋がっている。

【菅生曲輪】
菅生曲輪は、本丸から隠居曲輪を隔てて東に位置し、武家屋敷、侍長屋が置かれていた。
菅生曲輪は既に江戸時代前期(前本多家時代)の絵図に描かれており、屋敷割も確認できる。
曲輪東側の北に黒門、南に菅生門があり、外郭へと通じていた。
廃城後は1923年(大正12年)に運動場として埋め立てられた。
現在は、曲輪の北側が公園に、南側がホテルや住宅などが建ち並ぶ市街地になっている。

【風呂谷曲輪 】
風呂谷曲輪は本丸の南を取り巻く腰曲輪状の曲輪で、龍城堀沿いの土塀の他には建物等は存在していなかった。
本丸より約8m低く、石段を上り二階門(風呂谷門)から本丸へと通じていた。
現在、龍城堀の上に石段下付近から菅生川端へ渡る「神橋」が架けられている。

【坂谷曲輪】
坂谷曲輪は本丸から二の丸の西側にかけて延びる帯曲輪で、2箇所に隅櫓が設けられていた。本丸天守からほぼ真西の位置には、枡形門である坂谷門、それと一対になる丸馬出しが、西側の白山曲輪に向けて造られていた。
現在、坂谷門の基礎石垣や「家康産湯の井戸」と伝わる石組みの井戸などが残されている。

【白山曲輪】
白山曲輪は坂谷曲輪の西に位置し、本多康重が城主の時期(1601-1611年)時代に整備された曲輪で馬場などがあった。
曲輪の名称は、徳川家康が1566年(永禄9年)に上野国(群馬県)新田より勧請した白山社が由来である。
現在、白山曲輪は宿泊施設や住宅街になっている。

【稗田曲輪】
稗田曲輪は白山曲輪の北に位置し、武家屋敷や城米蔵が置かれていた。
曲輪の北西隅には、岡崎城の搦手門( からめてもん)である稗田門が東海道に面して構えられていた。
稗田門は街道に接するため、稗田櫓の両側に二重の門をもつ厳重な枡形構造であった。
現在、曲輪の南側は、国道1号線が東西に横断し、市街地となっている。

【北曲輪】
北曲輪は二の丸の北、稗田曲輪の東に位置し、侍長屋や厩(うまや)が置かれていた。
北曲輪と三の丸の間には北切通しが切り込まれ、岡崎城が立地する丘陵の尾根筋を分断している。
曲輪は現在、市街地となっているが、北曲輪の門は鍛埜(かじの)町の天野邸に移築されたとの伝承がある。




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【浄瑠璃曲輪】
浄瑠璃曲輪は三の丸の北に位置し、武家屋敷となっていた。
名称の由来は、持仏堂曲輪にあった光明院安西寺の浄瑠璃薬師堂が松平清康によりこの曲輪内に移されたことによる。
曲輪の東側には、岡崎城の正門である大手門が構えられていた。
大手門は冠木門(かぶきもん)と多聞櫓(たもんやぐら)で構成される枡形構造である。
大手門は「連尺(れんじゃく)先大手」といわれ、1644年~1648年(正保年間)前後の前本多家・水野家により木戸の設置の段階で大手として整備されたとする説がある。

外郭(総構え内)の構造

岡崎城の範囲は、1590年(天正18年)に城主となった田中吉政の時期に、城下町を内包する総堀(「田中堀」)が巡られたことで確定した。
その際、東海道を引き込みながら城下町が造成された。
本多康重が城主の時期(1601年~1611年)に矢作橋の架設などにより東海道が整備された。
東海道は「二十七曲り」と呼ばれるほど屈曲しながら内郭の北側を大きく周り、その沿道は岡崎宿として大いに栄えた。
水野忠善が城主の時期(1645年-1676年)には、総構えの出入口である東の籠田総門、西の松葉総門が設けられた。
これにより、武士と庶民が混在して住んでいた地区が区分され、城下町の整備が完成した。 

また、松平氏・徳川家ゆかりの寺院や中世以来寺院が多くの門前町を形成した。
岡崎城大手門の北西には対面所が置かれていたが、明治維新後の1869年(明治2年)から1871年(明治4年)までは対面所跡に藩校「允文館(いんぶんかん)」が設置されていた。

舟運の要所でもある岡崎城下では、信州(長野県)への中継地の一つとして、物資の陸揚げや積み出しが行われた。
菅生川沿いには荷物の積み下ろしをする土場(どば)があり、江戸時代には下流から御用土場、桜馬場土場、満性寺(まんしょうじ)土場があった。
その場所は定かでないが、江戸時代後期の絵図には、御用土馬や桜馬場土場と考えられる石段や石垣が描かれている。

こうした外郭部分は、1945年(昭和20年)7月 の岡崎空襲により焼失し、その後の戦災復興事業や商業地開発により近代的な都市に生まれ変わった。
そのため、外郭部分の往時の様子が分かる遺構は少なく、菅生川端の石垣や大林寺郭堀などの外堀、総堀の堀跡を示す段差地形や地境、「唐弓弦(とうゆみづる)」の看板のある町家や細長い地割などに名残がみられる。

それらの遺構のうち菅生川端の石垣は、岡崎藩3代藩主・本多忠利の時期、寛永年間(1624年〜1643年)に築造が始まり1644年(正保元年)に完成した(『竜城中岡崎中分間記』『岡崎竜城古伝分間記』)。
岡崎城の石垣の中でも文献資料により築造年代が確認できる貴重な石垣である。
また、全長約 400mと一連の石垣城壁としては日本最長であり、3か所箇の四角い突出部「横矢枡形」が存在するのも岡崎城のみであるという。

大林寺郭堀は内郭の北側にあり、本丸が築かれた龍頭山と大林寺が置かれた天神山の間に入り込む谷地形を利用した外堀である。この堀は慶長年間(1601年~1615年)頃に大きく開削されたと伝えられている(「慶安年間書上控」大林寺文書)。
幅33間(約60m)を測る岡崎城で最大幅の堀で、これまで数度の発掘調査で石垣が確認されている。

岡崎城跡の発掘調査

岡崎城跡の発掘調査は、1980年(昭和 55 年)、二の丸に「三河武士のやかた家康館」を建設するのに先立ち、二の丸御殿跡において本格的な発掘調査が行われたことに始まる。
その後、2004年(平成16年)に「史跡岡崎城跡整備基本計画」、2017年(平成29年)に「岡崎城跡整備基本計画(改訂版)」、2018年(平成30年)に「岡崎城跡石垣保存修理基本計画」が策定され、それらに基づき、今後整備を検討する際の基礎資料とするために発掘調査や石垣調査が継続的に行われている。
なお、発掘調査は全面的なものではなく、部分的なトレンチ調査である。

まず、内郭部分の主な発掘調査について整理すると以下のようになる。

【①本丸の発掘調査】
本丸では天守台、辰巳櫓跡、月見櫓跡とその周辺部で発掘調査が行われている。
天守台では、1995年(平成7年)の発掘調査で武者走り上に目地を漆喰(しっくい)で塗した敷石が確認され、立葵文・沢寫(おもだか)文の軒丸瓦(のきまるがわら)が出土した。
また、2018年(平成30年)には天守台の一番下に当たる根石などが確認され、瓦、天目(てんもく)茶碗、貝殻、陶器破片などが出土し、その年代は瓦などから16世紀末と考えられている。

辰巳櫓跡では、2000年(平成12年)の発掘調査で櫓台や築地塀基礎とる石垣の下段、石組井戸、井戸囲施設の基礎、風呂谷曲輪へと続く玉石積みの石垣などが確認された。

月見櫓とその周辺部では、2017年(平成29 年)の発掘調査で、月見櫓の北面で基礎石積みと考えられる石列、東面では基礎石積みが確認された。
これにより月見櫓の規模は東西約 6.2m、南北約8.7mであることが判明したが、古文書の数値と比較すると、東西は約 0.5m、南北は約 2.7m大きくなり齟齬が生じており、建物の増改築による拡張などの可能性が考えられている。
また、月見櫓から続く脇多門櫓や平櫓においても、基礎石積みや排水溝と考えられる石組溝などの遺構が確認された。

【②二の丸の発掘調査】
1980年(昭和55年)の「三河武士のやかた家康館」建設に先立つ発掘調査で、二の丸御殿の塀の基礎と考えられる石列や石組溝、石組井戸、中世の鍛冶(かじ)遺構などが確認された。
2017年・2018年(平成19年・平成20年)にも、二の丸御殿のものと推定される井戸や石列が確認された。

【③三の丸の発掘調査】
三の丸では、2016年(平成18年)の発掘調査で、 石垣や柱穴群、沢瀉文瓦の瓦溜(かわらだま)りなどが、2011年(平成 23 年)には石垣、掘立柱建物、空堀などが確認された。
それらの遺構のうち、空堀は「三日月堀」で当初の構築は中世までさかのぼるという。

【④東曲輪の発掘調査】
東曲輪では、2015年(平成27年)菅生曲輪 から続く切通しでの発掘調査で、石垣や、通路の石段の一部、土盛りと土盛りされる前の柱穴などが確認された。
2008年・2009年(平成19年・平成20年)に東隅櫓の櫓台の一部や、南の菅生曲輪に面する版築(はんちく)土塁の法面(のりめん)や塀の礎石などが確認された。
また、2016年(平成27年)には曲輪周囲の石垣や盛土(もりつち)層、柱穴群と切通しから続く通路と石段、排水溝が確認されている。

【⑤菅生曲輪の発掘調査】
菅生曲輪では、1994年(平成6年)の発掘調査で、東西に水堀が走り、堀の南北に武家屋敷が広がることが確認された。
2000年(平成12年)に南北の屋敷地をつなぐ土橋や屋敷地内の井戸、土坑などの遺構が多数確認され、土坑からは廃棄された色鍋島が出土した。
2002年(平成14 年)に 石列、2005年・2007年・2008年(平成17年・19年・20年)には 東曲輪との間の堀や石垣が確認された。
また、2014年(平成26年)にも切通しの石段、排水溝としての石組み溝、枡形門の石垣基底部などが確認されている。
そして、発掘調査の成果として、枡形(ますがた)門の平面規模は礎石により想定が可能であるが、文献史料に記載された数値とは一致しないことなどが挙げられている。

【⑥坂谷曲輪の発掘調査】
坂谷曲輪では、2020年(令和2年)の発掘調査で、坂谷門の礎石や石段、櫓門脇の石垣などの配置が確認された。
発掘調査の成果として、枡形門の構造を持つ坂谷門について、文献史料に記載の無い石段の存在や柱材の寸法などの情報が得られたことなどが挙げられている。




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【⑦青海堀の発掘調査】
本丸の北側にある青海堀では、2020年(令和2年)の発掘調査で、修築された石垣の基底部に構築当初の石垣が遺っており、その範囲が清海堀全域に及ぶこと、当初の石垣の根石(ねいし)を基軸に積み直した可能性があることなどが確認された。
また、大手門側の調査区から家紋瓦を多く含む大量の瓦が出土し、輪違紋(わちがいもん)の鬼瓦も初めて出土した。
これらのことから、構築当初の石垣は17 世紀末の田中吉政が城主の時期のもので、修築された石垣は江戸時代中期以降のものと考えられている。

以上、内郭における主な発掘調査例について挙げたが、その他にも2020年(令和2年)に大手門で発掘調査が行われているが、近現代の撹乱(かくらん)が大きく、痕跡の確認には至らなかったという。

次に、外郭部分(総構え)についても、総堀や籠田総門、菅生川端石垣などで発掘調査が行われ、貴重な成果が出ている。

【⑧総構えの発掘調査】
総構えに関する発掘調査は、2017年(平成29年)に籠田公園や、総構えの東側の総堀の南側が菅生川へ合流する地点で行われた。
この発掘調査では、総堀の堀底がより深く掘られていることが確認された。
また、戦後の復興期に埋め立てた土の中から近世から近代の瓦や陶磁器が出土した。

【⑨総堀の発掘調査】
総堀の発掘調査は1991年(平成3年)に御旗公園の北側に2か所の調査区(トレンチ)を設定して行われた。
この発掘調査では、自然地形(谷地形)を活かして総堀が構築されたことがうかがえること、総堀の深さは約2.4m以上に及ぶこと、総堀や土塁の構築後に溝が掘られていることのから、総堀は近世を通じて改変を受けていたことなどが確認された。

【⑩籠田総門の発掘調査】
籠田総門では2019年(令和元年)に門の構造や総堀の確認を目的とした発掘調査が行われ、以下のことが確認された。
・籠田総門周辺部の土地の改変により、総門の礎石などはすでに滅失した可能性がある。
・総堀は、近世の絵図などを基に想定された位置に、地山を開削して構築されている。
・総堀は、現状では素掘りであるが、石垣背後の裏込め石と考えられる拳大の円礫が充填されており、本来は絵図に描かれているとおり石垣を構築していた可能性がある。
・総堀内部の堆積土中から近世の陶磁器類が出土した。

【⑪大林寺郭堀の発掘調査】
大林寺郭堀では、2004年(平成16年)~2006年(平成18年)の発掘調査で石垣などが確認された。
2007年(平成19年)には、犬走りのある野面積みの石垣、道路などが、2008年(平成20年)にも堀の石垣などが確認されている。
犬走りのある野面積みの石垣については、1590年(天正18年)に岡崎城主となった田中吉政が築いたものと考えられている。

【⑫菅生川端石垣の発掘調査】
菅生川端石垣の発掘調査は、2015年(平成27年 )に試掘調査が行われ、石垣が良好に残存することが分かった。
そこで、より詳細な石垣データを収集するために2016・2017年(平成28・29年) に発掘調査が行われ、以下のことが確認された。
・横矢枡形の角(入隅部分)の石材は一段ごとに互い違いに石垣内部に入り込む形で組み合わされている。
・1886年(慶応2年)12 月の城郭修復伺絵図『参河國岡崎城破損所覚』にある「此所石垣 高一間二尺(2.42m) 幅二間半(4.54m)崩」の記述と一致する石垣が崩れた痕跡がある。
・石垣は「打込み接ぎ」で積まれているが、場所によって石材の加工方法や積み方が異なり、石垣を積む工人の違いや補修などによる積み方の違いが想定される。
・石垣の一部には「卍」「Ш」「〼」「△」などの12 種類の刻印がある。

岡崎城の魅力

岡崎城は、前述した縄張りや各曲輪の状況、発掘調査の成果などからみて、次のような魅力を持つ城郭であると考えられる。

その一つは、自然地形を巧みに利用し、中世城郭としての複雑な縄張りに、近世城郭にふさわしい石垣や櫓、平面的な曲輪が融合した縄張りであある。
特に、二の丸から本丸へ至る持仏堂曲輪において、重ね馬出しや青海堀の間にある細い帯曲輪からなる複雑な縄張り、横矢の仕組みなどは土造りの中世城郭の到達点を示している。
こうした中世城郭としての岡崎城に、1590年(天正18年)に豊臣秀吉の家臣・田中吉政が城主になると、織豊系城郭として大改修され、城下町を広く取り囲む総構えも設けられた。
1601年(慶長6年)の関ヶ原の戦い後は、徳川家康の信頼厚い本多家が城主となり、西側の曲輪や石垣が築かれ、枡形門が構えられるなどの整備・拡張が行われた。
その後、1645年(正保2年)に城主となった水野忠善の時期には、総構えの総門が備えられるなど、近世城郭としての整備が完成した。

二つ目は、全国的にも希少な遺構がみられることである。
例えば、本丸北側の清海堀は幅が狭く、土で造った堀の形を残しながら石垣を構築した複雑で堅固な縄張りは全国的にも例が少ない。
また、天守台の石垣には野面積みの特性による逆反りがみられ、それは岡崎城の他には、岡山城、延岡城のものが代表的であるという。
さらに、天守と持仏堂曲輪をつなぐ堀に掛けられた廊下橋は、往時は木橋であったと考えられているが、天守と本丸以外の曲輪とが直接つながった廊下橋は、日本唯一のものであるという。

そして三つ目の魅力は、城郭の構築物や建造物などについて良好な資料が存在していることである。
例えば、1770年(明和7年)の藩主交替時の「書上文書」には、城郭の規模、城門や櫓の形状あるいは数量などが詳細に記述されている。
この書上文書は絵図にみられる総構えの規模や城門などの存在を裏付ける記録資料となっている。
次に、岡崎城では、発掘調査が継続的に行われ、貴重な成果が蓄積されている。
往時の岡崎城の特徴的な姿をとどめる遺構や、文献史料や絵図の記載を裏付ける遺構、逆に記載されていない遺構も確認されている。
また、瓦、天目茶碗、貝殻、陶器破片などが出土し、遺構の年代を決める際の基礎資料となっている。
なお、出土した瓦は立葵文・沢寫文の軒丸瓦、輪違紋の鬼瓦などである。




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岡崎城は徳川家康誕生の城であり、その没後も「神君出生の城」として神聖視された。
豊臣秀吉の家臣・田中吉政により大改修されたことはあるが、関ヶ原の戦い(1600年)以降は徳川家の信頼が厚い譜代大名が城主を務めて岡崎城の整備・拡張を行っている。
このことから、岡崎城には随所に徳川家康の築城思考が反映していると考えられ、それを示す遺構などが発見されることを期待したい。

<主な参考文献>
西ヶ谷 恭弘 1985年『日本史小百科<城郭>』東京堂出版
平井 聖、他 1979年『日本城郭大系 第9巻 静岡・愛知・岐阜』新人物往来社
岡崎城跡整備基本計画 | 岡崎市ホームページ
岡崎城跡の発掘調査 | 岡崎市ホームページ

(寄稿)勝武@相模

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