【鎌倉殿の13人】畠山重忠の生涯とゆかりの史跡~誕生から非業の最期まで

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畠山重忠とは

2022年(令和4年)のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13」で中川大志が演じている畠山重忠は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将で、鎌倉幕府の有力御家人として活躍した。
畠山重忠は武勇だけではなく、音楽の才能もあり、その人柄は清廉潔白で「坂東武士の鑑」と称された。

畠山重忠は源頼朝の挙兵に際して、当初は敵対するが、のちに臣従して源平の争乱や奥州合戦では先陣を務めるなど活躍した。
鎌倉幕府が成立すると、有力御家人として重きをなし、源頼朝の上洛の際には先陣をつとめ、源頼家のことを託されるなど、源頼朝から大いに信頼された。
しかし、源頼朝の没後に鎌倉幕府の実権を握った初代執権・北条時政らの謀略によって謀反の疑いをかけられて子とともに討たれた。


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本稿では、畠山重忠の波乱万丈の生涯について、ゆかりの史跡などと関連付けながら探究する。

畠山重忠の誕生

系図によれば、畠山氏は桓武平氏の流れくむ秩父氏の一族で、武蔵国男衾(おぶすま)郡畠山郷(埼玉県深谷市畠山)を本拠とし、荘園の荘司をつとめた。
畠山重忠は1164年(長寛2年)に畠山重能(しげよし)の次男として生まれ、その母は相模国(神奈川県)の豪族・三浦義明(よしあき)の娘である。

畠山重忠が生まれたとされる「畠山館(はたけやまのたち)」の跡(県指定史跡)は公園として整備され、公園内には畠山重忠とその家臣の墓と伝わる五輪塔や、「重忠産湯(うぶゆ)の井戸」がある。
その近くには畠山重忠が再興したという「満福寺」、秩父の椋(むく)神社を勧請(かんじょう)した「井椋神社」がある。
また、青梅(おうみ)の「武蔵御嶽(みたけ)神社」には、畠山重忠が奉納したと伝わる国宝の赤糸威大鐙(あかいといどしよろい)が伝来している。

源平の争乱での活躍

1180年(治承4年)8月、源頼朝が平氏打倒の挙兵した際、畠山重忠は当初、平氏方に属して秩父一族の河越氏らとともに、母の実家である三浦氏の「衣笠城」(神奈川県横須賀市)を落城させ、祖父の三浦義明を自害に追い込んだ。
1180年(治承4年)10月、源頼朝が石橋山の戦いで敗北し房総半島に逃れるが、勢力を回復し武蔵国に入る。
畠山重忠は長井の渡しで源頼朝に帰順し、源頼朝が鎌倉入りした際には先陣を努めた。
源頼朝に従った畠山重忠は1184年(元暦元年)1月の宇治川の戦いを皮切りに、同年2月の一の谷の戦い、1185年(文治元年)2月の屋島の戦いで華々しく活躍し平氏打倒に貢献した。

各戦いにおける畠山重忠の活躍ぶりについて整理すると以下のとおりである。
【宇治川の戦い】
後白河法皇から源義仲追討の命を受けた源頼朝は、1184年(元暦元年)1月、弟の源範頼(のりより)と源義経に大軍を与え上洛させた。
源範頼・源義経の大軍は近江国(滋賀県)粟津で源義仲を討ち果たした。
500騎の軍勢を率いて源義経軍に従っていた畠山重忠は、水位が上昇した宇治川に皆が躊躇する中、烏帽子子(えぼしご)の大串重親(おおぐししげちか)を引きずって濁流を渡河し、敵方の長瀬重綱(ながせしげつな)を討ち取り味方を鼓舞したという(『平家物語』)。
【一の谷の戦い】
源義仲を討ち取った源範頼・源義経軍は、摂津国一の谷(兵庫県神戸市)に陣を構えていた平氏軍を攻撃した。
その際、別動隊の源義経軍に従っていた畠山重忠は「鵯越(ひよどりごえ)」という断崖絶壁を愛馬(「三日月」)を背負って下った、という逸話が知られている。
しかし史料的には、畠山重忠は源範頼軍に従っていたこと(『吾妻鑑』)、鵯越の場面に畠山重忠の名前がないこと(『平家物語』)などから、信憑性(しんぴょうせい)は低く、後世に創作されたものと考えられる。
現在、「畠山館」跡(埼玉県深谷市)には畠山重忠が愛馬を背負っている像が建っている。
これは鵯越の逸話をもとに、畠山重忠の怪力ぶりと心根の優しさを今に伝えている。
【屋島の戦い】
一の谷の戦い後も畠山重忠は源範頼に従って西国へと進み、1185年(文治元年)2月、讃岐国屋島(香川県高松市)の平氏方の拠点を攻撃した。
屋島の戦いでは、那須与一が平氏方の船に掲げられた扇の的(まと)に矢を射るという逸話(『平家物語』)が知られている。
『源平盛衰(じょうすい)記』には最初、畠山重忠が平氏方の扇の的を射るよう命じられたが固辞し、那須与一を推薦したことが記されている。
屋島の戦いで負けて西へ逃れた平氏軍は、1185年(文治元年)3月、長門国(山口県)の壇ノ浦の戦いで敗北し平氏は滅亡した。
 

試練と功績

武家政権としての鎌倉幕府が事実上成立すると、畠山重忠に度々試練が訪れる。
1187年(文治3年)9月、畠山重忠が地頭職を務めていた伊勢国沼田(三重県松阪市)の御厨(みくりや)で畠山重忠が派遣した代官(地頭代)が訴えられた。
沼田御厨は没収され、畠山重忠の身柄も千葉胤正に預けられたが、そのことを恥じて絶食した。
間もなく畠山重忠は武勇を惜しんだ源頼朝により赦免され、一族とともに武蔵国の「菅谷館」(すがややかた・埼玉県比企郡嵐山町)に移った。

それもつかの間のことで、1187年(文治3年)11月、今度は侍所所司の梶原景時の讒言(ざんげん)によって謀反を疑われる。
吾妻鏡』には「梶原平三景時 内々に申して云はく、畠山次郎重忠、重科を犯さ不之處、之を召禁じ被るの條、大功を弃捐被るに似たりと稱し、武藏國菅谷舘に引篭み、反逆を發さんと欲する之由風聞す」とある(『吾妻鏡』文治3年11月15日条)。
「菅谷館」に引きこもっていた畠山重忠のもとへ、下河辺行平(しもこうべゆきひら)が赴き鎌倉の様子を伝えると、畠山重忠は憤慨して自害しようとするが、下河辺行平の説得により鎌倉に向かい申し開きをした。
畠山重忠は起請文(きしょうもん)の提出を拒み、正々堂々と無実を訴えて許された。


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この時期に畠山重忠が居住した「菅谷館」の跡は、戦国時代に大規模な改修・拡張が行われており、畠山重忠が暮らした頃の館の様子は不明である。
また「菅谷館」は誰によっていつ頃に築かれたのかも明らかではないが、『吾妻鏡』の記述から1187年(文治3年)11月15日以前に築かれていたことが分かる。

源頼朝の信頼を回復した畠山重忠は鎌倉幕府の有力御家人として以下のような実績を積み重ねた。
・1189年(文治5年)8月、奥州藤原氏が平泉防衛のために築いた「阿津賀志山」(福島県伊達郡国見町)の合戦で戦功をあげる。
・1190年(建久元年)10月、源頼朝が上洛した時にその先陣を務める。
・1193年(建久4年)2月、源頼朝の命で丹党と児玉党の争いを調停する。
・1195年(建久6年)2月、源頼朝が東大寺供養のために上洛した時に先陣を務める。
・1199年(正治元年)1月、源頼朝が死去した際、嫡子・源頼家のことを託される。
・1203年(建仁3年)9月、北条義時に従い、比企氏一族追討に参加する。

畠山重忠は武蔵国「菅谷館」のほか鎌倉にも屋敷を設け、鎌倉幕府の公務を務める時の拠点とした。
屋敷があった場所として、現在、鶴ヶ岡八幡宮の流鏑馬(やぶさめ)道の東側入口に「畠山重忠邸址」の石碑が建っている。
この場所は『新編相模国風土記稿』の「筋替橋ノ坤方うしとらニアリ、方一町許。今陸田ヲ闢ひらケリ」の記述を踏まえたものである。
それとは別に『吾妻鏡』には京都から下ってきた医師・時長(ときなが)が「掃部頭の龜谷の家自り、畠山次郎重忠の南御門の宅に移住す」という記述があり(『吾妻鏡』正治元年(1199)5月7日条)、現在の源頼朝の墓の入口にあったという説もある。

非業の最期

 

畠山重忠は前述したように、鎌倉幕府の発展のために誠心誠意をもって尽くしてきたが、1205年(元久2年)6月22日、二俣川の戦いで敗れ討ち死にした。
また畠山重忠の子・畠山重保(しげやす)も由比ヶ浜で三浦義村によって討たれ、畠山氏は滅亡する。
畠山父子が討たれた背景には、北条時政と後妻・牧の方、その娘婿・平賀朝雅(ともまさ)、そして北条義時らとの権力争いがあったと考えられる。

1204年(元久元年)10月、畠山重保は3代将軍・源実朝の御台所を迎えるために上洛した際、翌11月に京都守護を務めていた平賀朝雅と口論となった。
このことを牧の方を通じて知った北条時政は謀反の罪で畠山一族を討伐することを決意した。
1205年(元久2年)6月19日、畠山重忠は武蔵国「菅谷館」を130騎ほどで出発し鎌倉へ向かうが、6月22日、二俣川(神奈川県横浜市旭区)で北条義時が率いる鎌倉幕府の大軍に遭遇し、激闘もむなしく討ち死にしたのである。
そして戦いが終わると、北条義時は畠山重忠の謀反は無かったとして、無実の罪を着せた北条時政や牧の方、平賀朝雅を失脚させ権力を確立したのである。

現在、畠山重忠が討たれた二俣川古戦場跡に「畠山重忠公碑」、また周辺には「畠山重忠公首塚」や家臣を葬ったという「六ツ塚」、北条義時が率いた軍勢が集まったという「万騎(まき)が原」など二俣川の戦いに関する史跡が残る。

畠山重忠ゆかりの史跡


 
畠山重忠は平安時代末期に現在の埼玉県深谷市で生まれ、源平の争乱や奥州合戦で活躍し鎌倉幕府の成立に大きく貢献した。
鎌倉幕府内の権力争いに巻き込まれたが、源頼家の補佐を託されるなど源頼朝からの信頼は厚く、鎌倉幕府の有力御家人として功績を積み重ねた。
しかし、源頼朝の没後は鎌倉幕府の実権を握った北条氏の謀略によって謀反の疑いをかけられ二俣川で非業の最期を遂げた。

現在、畠山重忠ゆかりの史跡が各地に残されており、長い歴史の中で畠山重忠が多くの人々に慕われてきたことを物語っている。
本稿で取り上げた畠山重忠ゆかりの史跡は以下のとおりである(丸数字の番号は地図の番号と一致する)。
 ①「畠山館跡」  ②「畠山重忠産湯の井戸」  ③「畠山重忠・家臣の五輪塔」  ④「愛馬を背負う畠山重忠像」 ⑤「満福寺」  ⑥「井椋神社」  ⑦「武蔵御嶽神社」   ⑧「菅谷館跡」  ⑨「畠山重忠邸址」  ⑩「二俣川古戦場跡に建つ畠山重忠公碑」  ⑪「畠山重忠公首塚」  ⑫「畠山重忠の家臣の六ツ塚」


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<主な参考文献>
 五味文彦・本郷和人編 2004年『現代語訳 吾妻鏡』 吉川弘文館
 埼玉県立嵐山史跡の博物館編 2020年『嵐山史跡の博物館ガイドブック1 菅谷館の主 畠山重忠』
 埼玉県立歴史資料編 1989年『資料館ガイドブック6 中世の城館跡―埼玉県大里・北埼玉地方―』

(寄稿)勝武@相模
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