源頼朝と東国武士団の政治スローガン天下草創と文治の勅許

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 12世紀末の平安末期、軍事貴族ながらも伊豆在住の一介の流人に過ぎなかった源頼朝が、一代にて鎌倉武家政権の棟梁こと初代・鎌倉殿になった最大の理由は、当時の中央政権たる京都朝廷、その中枢を占めていた平清盛を総帥とする平氏一族の独占政治体制に大いなる不満を持っていた坂東地方に割拠する東国武士団の後押しを受けたからであります。
 即ち源頼朝は、当時東国で勃興した北条氏・三浦氏・上総氏など武士団が巻き起こしたビックウエーブ(時代の潮流)に載り、一新時代を創り上げた象徴であったのです。
 源頼朝を会社経営者とするならば、それに従った東国武士団は、頼朝を支える重役社員であり、会社運営(武士たちの統括や合戦)のために兵力を提供した株主たちでもありましたが、武士団が自分や一族郎党の命を賭して、頼朝に従ったのは、狭義的には東国武士たちの棟梁として、武士同士の諍い、主に土地訴訟を裁く『公平な裁定者』として、そして、広義的には、以前より過重な租税や夫役を課してくる上、土地所有権をも脅かしてくる京都朝廷からの圧力から護ってもらうための『武士団の利益代弁者』という2つの役目を期待したからであります。
 当時の東国にて、上記における武家の棟梁(鎌倉殿)としての『2つの役目』の負えることができる資格を保持していたのは、流人ながらも清和源氏の血筋を引く源頼朝のみであり、そういう意味では、東国武士団の旗上げ、ひいては日本史の転換点となる武家政権の樹立という偉業は、東国武士団のみでは成し遂げることは不可能であり、源頼朝という1人の名門武士も流人として東国に存在したからこそ、成立した歴史的偉業だったのです。
 尤も、源頼朝は血筋以外にも、武士同士の諍いの決着点を上手く弾き出す政治力(「裁定力/調整能力」と言った方が、当を得ているかも)、に優れていた点もあり、正に前掲の(狭義的における)『公平な裁定者』としては、優れた武家の棟梁であったと言うべきでしょう。事実、源頼朝在世中は、頼朝と東国武士団の間に、大きな軋轢が生じていません。源頼朝急逝後に、2代目・鎌倉殿こと源頼家と鎌倉御家人との対立が表面化し、頼家失脚後にも、御家人同士が内訌する顛末を鑑みると、初代・源頼朝の裁定者としての能力が非凡だったことがわかります。
 もう1つの役目である『京都朝廷との折衝役』としての期待ですが、これに関しては、源頼朝は情勢に応じて、朝廷の主宰者たる後白河法皇やその近臣公家たちと交渉を重ねており、頼朝と武士団が築き上げた東国武士政権の強化に努めています。
 源頼朝は1180年8月に伊豆で挙兵、紆余曲折を経た後、東国武士団を束ねて、その本拠地を相模国鎌倉に定め、地方武家政権を確立、平氏正規軍を富士川の戦いに勝利した後(同年10月)、頼朝は上総広常三浦義澄など有力坂東武士たちの助言を受け入れ鎌倉に留まり、反頼朝勢力の常陸国佐竹氏の追討、次いで鎌倉に、武士団を束ねる機関・侍所を設置するなど武家政権の基盤創りに邁進します。
 そして、1183年9月には、源頼朝は京都朝廷との交渉の末、それまで朝廷の反乱勢力であった武士政権の存続と東海・東山諸国(甲信・坂東)の「統治権(東国沙汰権)」を公式承認させる「寿永二年の勅許」を引き出すことに成功しています。
 この勅許により、源頼朝を頂点とする東国武士政権とする反乱分子、後に鎌倉幕府と呼ばれる武士政権は、当時の中央政府たる京都朝廷から正式に承認された地方武士政権となったのであります。(現代風に敢えて例えるなら、反社会的勢力が、日本政府のお墨付きを貰い政府公認企業になったようなものであります)




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 地方武士政権の長・鎌倉殿こと源頼朝が、後白河法皇との交渉の末、武士政権の公認、東国沙汰権を勝ち取ったことで、東国武士による政権運営は緒につきます。源頼朝自身は、武士による東国支配を強固にする内政面に勤しむ一方で、外征面では、庶弟の源範頼・源義経、和田義盛や土肥実平など有力東国武士団を動員、ライバルである木曾義仲、次いで亡父・亡兄の仇敵である平氏一族を壇ノ浦合戦で討滅、西日本まで勢力圏を伸ばすことに成功。日本最大の軍事力を持つ勢力になりました。
 上記の過程で、大活躍した軍事の天才・源義経が、周囲に独善的な態度を示すようになった上、兄・源頼朝の武家政権支配から造反し、後白河法皇の京都朝廷に鞍替えする行動を採ったために、平氏滅亡直後、頼朝から追討する憂き目に遭うことは周知の通りであります。当初、源義経に、後白河法皇が加担(あるいは義経本人に鎌倉離反を教唆)し、「源頼朝追討」の院宣を出してしまい、その一事によって源頼朝に政治的逆襲を受けることも、また有名であります。
 源義経が「源頼朝追討」の院宣を奉じたにも関わらず、畿内で反頼朝政権の挙兵に失敗した直後、後白河法皇は持ち前の「陰謀力」と「デスポット(暴君・専制)の性格」を掛け合わせた『敢えて人の制法に拘らず』(公家「藤原通憲(信西)の評」)の政治信条を発揮し、頼朝追討の院宣は取り下げ、代わって義経追討の院宣を頼朝に与え、彼に政治的妥協する姿勢を示しました。
 この後白河法皇のある意味で鮮やかなる?「人の制法に拘らわらない」変身ぶりには、後世の我々から見ても閉口してしまうほど滑稽でありますが、事実、源頼朝は後白河院のことを『日本一の大天狗』と痛烈に揶揄し、また摂関家の1人・九条兼実も『朝家(後白河法皇)の軽忽、これも以ってしてもわかる』と強く批判しています。
 源頼朝は、自分に対する追討令を安易に出し、大失態を演じてしまった後白河法皇を畳み掛けるように、頼朝の岳父・北条時政と千騎の軍勢を上洛させ後白河院に更なる圧力を加えた後、反逆者・源義経の逮捕するための方便として、『新たな勅許』を頼朝は獲得します。
 その『新たな勅許』は、1185年下旬(文治元年)、源頼朝が京都朝廷に対して強請するような方法で引き出した勅許であったので、『文治の勅許』とも言われていますが、この勅許こそが、それまで地方、しかも東国という当時ではド田舎を拠点とする政権に過ぎなかった鎌倉武士政権の優位性が、大きく前進することになる画期的なものでした。
 武士政権の「利益代弁者」たる源頼朝が、京都朝廷から引き出した『文治の勅許』の内容を箇条書きで、列挙させて頂くと、以下の通りであります。

⓵各国に「大犯三箇条(謀反人の逮捕・その殺害・大番役の催促)」の権限を持つ『守護』の設置および、全国各地に点在する京都朝廷配下の国司が管轄する「公領(国衙)」、院や公卿・大社寺が領する「私領(荘園)」を問わず、それらの警察・軍事・租税徴収など含めた事実上の統治権となる「下地領掌権」を有する役職『地頭』設置をも認可された『守護・地頭』制。これにより、それまで東海・甲信・坂東に至る東国統治権を把握していなかった鎌倉武士政権下の武士たちが、東国・西国問わず、中央政府たる京都朝廷の公認の下、守護・地頭として各国の公領・荘園(農地農村)に配置され、事実上の全国武士政権として成長する大きな一歩を踏み出すことになりました。

『京都朝廷への人事介入』。源義経による反源頼朝への挙兵に加担した京都朝廷の公家および後白河法皇の側近たちを、頼朝は解官(解任)を強弁に要求、その代わりに親頼朝派・鎌倉政権側の公卿10人(九条兼実や吉田経房)らを、「議奏公卿」として、朝廷内部を親鎌倉派に仕立て上げる。
 歴史作家・永井路子先生は、この源頼朝による京都朝廷への人事介入こそ、『それまで院・朝廷・公家の番犬に過ぎなかった武士が、初めて西国政権である朝廷に対して優位な立場を採った革命的一歩である』というように記述されています。
それまで奴隷的存在に過ぎなかった武士たちが、京都朝廷の重役人事にも容喙するという大事は、武士たちにとっては、自分たちの立場向上を証明した、正に『革命的』であり、対する朝廷サイドの人々からすれば、天と地が逆転してしまったほどの禍であったことでしょう。(現在で言うなれば、大企業の重役決定に、それに属する下級社員やアルバイトが介入してくるような滑稽な光景であります)

⓷荘園から『別段(臨時徴収)として兵糧米5升(約8kg)』を徴収する権限の認可。
 鎌倉武士政権麾下の武士たちが、各地に守護地頭として派遣されることで発生する管理維持のため、定期的に各荘園から上がってくる租税(兵糧米)とは別に、臨時的に兵糧米5升を鎌倉政権に徴収する権限を、京都朝廷から獲得。

 以上3項が、源頼朝をはじめとする東国武士団が、(謀反人・源義経の逮捕目的を理由として)、京都朝廷に対して強硬的に要求し、かつ朝廷に認可させたものでありますが、後白河法皇、公家たち王朝、東大寺や高野山の大社寺といった中央政権サイドの勢力にとっては、自分たちの経済基盤(荘園)の統治などの既得権益権を、下僕的立場と卑下していた東夷(東国武士団)たちに蚕食された大事件だったのです。
 事実、前掲の親・源頼朝(鎌倉政権)である公卿の九条兼実でさえ、頼朝からの⓵守護地頭の設置要求の件を知ると、『凡そ言語の及ぶ所に非ず』(「玉葉」)と記しています。さしずめ現代風で言えば、呆れて開いた口が塞がらない、という感じでしょうか。
 軍事貴族(下級貴族)出身ながらも東国武士団の棟梁・鎌倉殿として、武士の利益代弁者となっていた源頼朝自身も、中央政府であった京都朝廷、それと紐帯である大社寺ら伝統権力に対しての既得権益への侵食(即ち「守護地頭の設置」、「朝廷人事への介入」)する政治的・外交的行為、大仰に言えば武士による新時代の政権確立という歴史的大事件に、強い決断力を以って挑んだのは確実であります。その証左として、この時に源頼朝が有名な宣言『天下草創の時』と高々と政治信条したのはこの時期であります。そういう意味では、源頼朝が言う天下草創というのは、東国武士政権(鎌倉武士たち)の独立宣言といえなくもないのです。

 長年、日本中世史(中でも荘園制)についてのご研究に多大な功績を遺られた故・永原慶二先生(一橋大学名誉教授)は、著作の1つ『(新装版)源頼朝』(岩波新書)にて、源頼朝が京都朝廷(後白河法皇)から得た文治の勅許のことを、『最初の武家政権としての鎌倉幕府成立の最も重要な劃期というべき』『京都と鎌倉との力関係をほとんど逆転させるほどの意義をもっている』というように、源頼朝が後白河法皇から引き出すことに成功した文治の勅許についての歴史的意義を強調されています。
 若年の筆者を含め日本の義務教育を受けた人たちなら、学校における歴史の授業で必ず習った項目、源頼朝主導による「守護地頭」。
 当時の筆者は、「源頼朝が源義経逮捕のために、御家人たちを全国に守護地頭を置いた」という表面上の意味合いで教えられ、「平氏を滅ぼし、殆ど全国を制圧した頼朝なら、各地に自分配下の武士たちを派遣することは簡単でないか」と思っていたことを覚えていますが、真実は前掲の永原慶二先生が記述されたように、それほど単純なものでありません。   
 それまで表向きは、単なる中央政権が所有する荘園の管理人的立場(土地所有権が無い管理人、正式役名:下司職)にしか過ぎなかった底辺層の武士たちが、京都朝廷に公認の下、事実上の荘園/農地農村の支配者『地頭』として社会的地位が上昇、源頼朝を推戴する鎌倉武家政権が、院・朝廷・大社寺の唯一生きる糧である首根っこ、荘園を抑えることに成功したのであります。簡単に言えば、中央政権の財布を源頼朝と鎌倉武家政権は掌握したということであります。
 思えば、学校の授業では、この守護地頭の制度化に成功した文治の勅許(1185年下旬)を以って、源頼朝と後に鎌倉幕府と称されることになる鎌倉武家政権は、後白河法皇をはじめ京都朝廷を完全に圧倒し、これ以降約700年も続くことになる武家政権時代が到来したというように教えられました。
 学校だけではなく、テレビドラマといったエンターテイメントの世界でも、源頼朝は守護地頭の設置、その7年後である1192年、 京都朝廷から征夷大将軍に任命を経て、朝廷を圧倒し、全国支配をした天下人というように描かれることが多いのであります。2022年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』、過去の同ドラマ『義経』でも、そのように描かれました。(余談ながら、特に『義経』で源頼朝役を演じられていた中井貴一さんが『これぞ正しく、天下の草創!』と宣言し、新時代を築き上げる気力に溢れる勇姿は素敵でした)
 確かに、学校での授業内容・ドラマでの描写、これも一面は事実なのでありますが、源頼朝が、甲斐武田氏・常陸佐竹氏、木曾義仲・平氏一族・奥州藤原氏という他の武家勢力を従属あるいは滅亡させた結果、軍事面(武家勢力)のみ独擅場を築いたということであり、これによって、伝統権力である京都朝廷や大社寺を、頼朝が完全に屈服させたというわけでないのです。源頼朝を私淑した徳川家康が創設した東国武家政権(江戸幕府)は、京都朝廷や寺社勢力に対して法度(法律)を制定、明らかに伝統権力を武家政権の隷属的立場として扱っています。もっとも徳川家康が江戸幕府を創設した時期の武家政権は、源頼朝によって政権が確立されてから約400年も経た円熟期であり、当時の京都朝廷や寺社勢力も武士勢力の社会的地位の優位性を是認しており、その分だけ家康在世期は、伝統権力を扱いやすかったという風潮もありましたが。
 17世紀初頭の徳川家康とは違い、12世紀末における古代から中世、公家社会から武家社会、時代の大転換点における新興勢力である武家社会を創設する源頼朝は、公家社会や大社寺といった旧態勢力から猛反発を受ける、正しく『産みの苦しみ』を味わっていました。
 前掲の永原慶二先生は、著書『源頼朝』の中で、頼朝が文治の勅許を得たことを『京都と鎌倉との力関係をほとんど逆転させた』ものとして書かれておられることは先述の通りでありますが、その直後に永原先生は同著内で、以下のようにも続けておられます。

 『後白河院を中心とする王朝政権は、それ(筆者注:守護地頭の設置)によってすぐ、再起不能というほどの打撃をうけたわけではない。(中略)鎌倉派の比重がにわかに増大したとはいえ、院以下公家貴族が全面的に鎌倉の武家政権に従属させられたということではなかった。』
(以上、「二つの政権」文中より)

 永原慶二先生が上記の如く、ご指摘されているように、やはり古代より日本国内唯一の中央政権として君臨している京都朝廷(旧:大和朝廷)と大社寺の権威は強大なものがあり、その力を、国内一の軍事力を有しながらも、俄に現出した新興勢力に過ぎない源頼朝と鎌倉武士勢力では、完全に抑え込むことは不可能だったのです。
 過去では、平清盛・木曾義仲・源義経という個人的能力に突出している傑物にして、一時的ながらも強力な軍事力を有した武家勢力でさえも、古代権威の強大さに抗しきることは困難であり、結果的に後白河法皇をはじめとする京都朝廷、畿内周辺の大社寺勢力に翻弄された挙句、いずれも滅亡の道を辿っています。
 京都朝廷・大社寺の勢力圏である畿内に活動拠点を置き、真っ向からそれら勢力と対峙して失敗した平清盛らの先例によく学んだ源頼朝は、朝廷の影響下が少ない東国の鎌倉に本拠を置き、日本一の大天狗あるいは「日本一のトリックスター」(三谷幸喜先生 評)と評される後白河法皇を相手にして、(清盛たちのように滅亡することなく)、先述の守護地頭の設置許可を引き出し、独自の武家政権を樹立したという功績は、さすが大政治家・源頼朝というべきでしょう。
 そのような大政治家・源頼朝の力を以ってしても、先述のように京都朝廷を完全に屈服させることはできなかったのです。むしろ平清盛たちの失敗例を鑑みて、「やはり京都朝廷や大社寺は恐ろしい」と、更なる畏怖感を抱き、守護地頭の設置認可以上の強硬手段を採ることへ躊躇したのかもしれません。
武士政権の代弁者として鎌倉に君臨している源頼朝も平治の乱直前までは、京都朝廷に出仕する身上であり、13歳の少年ながらも「従五位上 右兵衛権佐」(通称:佐殿)に叙された下級貴族でした。
 当時の人々は、京都朝廷に対する権威、大社寺が唱える極楽浄土・地獄、怨霊説に対して、無条件に平伏す思考を持っていたということはあまりにも有名でありますが、少年期まで、京都朝廷の空気の下で育った源頼朝もその例外ではなかったのです。
 源頼朝の異母弟・源義経が、鎌倉武士政権の支配を離れ、京都朝廷に接近する政治態勢を採ったことで、頼朝より追放・討伐を受ける憂き目に遭ったことは有名でありますが、実のところ、その義経を放逐した頼朝本人も、朝廷や寺社の伝統権威に対しては、強い畏敬の念、或いは羨望の念を抱いていたのです。その証左として、征夷大将軍として名実ともに武家社会の棟梁となった源頼朝が晩年、自身の長女・大姫、次女・三幡らを後鳥羽天皇の妃にするべく画策、それの実現のため朝廷に強く働きかけたことが、何より頼朝の対朝廷感情を物語っています。
 源頼朝は、武家政権の棟梁として君臨、新時代(中世期)を象徴する輝かしい主人公でありながらも、頼朝個人は、京都朝廷など伝統権力、宗教を強く尊重する思考の拘束から抜け出すことができない古代的人物でもあったのです。
上記のように矛盾を孕んだ源頼朝のキャラクターを鑑みれば、宗教や朝廷など古代権威を軽視する傾向が強かった14世紀初期(室町初期)の「高師直(足利尊氏の執事)」、16世紀の戦国期における英雄・「織田信長」のような強烈な勇気が無かったとも言えます。
 しかし、京都朝廷や院が主役であった貴族社会が綻び始め、代わってその社会の底辺層に過ぎなかった武士(武装農場主)が新時代の担い手として登場した日本の大変革期であった12世紀末の中世初期に、先述の新旧が矛盾する立場と個性を有しながらも源頼朝は、(破滅することなく)、初代・鎌倉殿として武家政権の礎、即ち武士の台頭『天下草創』を築き上げたこと事体が、頼朝の偉大さというべきでしょう。




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 その源頼朝と東国武士団らが台頭してくる事を、不快に思っている人物と勢力がありました。そう、京都朝廷を主宰する後白河法皇と公家、大社寺たちであります。守護地頭の設置許可、朝廷人事への介入を頼朝たち武士政権(東夷たち)に迫られ、自分たちの荘園支配などの経済基盤や既得権益を侵害された後白河法皇ら西日本の伝統権力が憤慨したことは、想像に難くありません。
 やがて後白河法皇(院)、京都朝廷と大社寺は三者互いに結託し、先述の源頼朝の性格や立場、古代権威尊重、鎌倉殿という立場の弱みを衝くような方法で、守護地頭に対する大逆襲に転じます。その詳細については、次回の記事に譲りたいと思っておりますが、学校の授業や大河ドラマでは、あまり触れられていないであろう後白河法皇を筆頭とする伝統権力は、守護地頭設置などに対する逆襲に転じ、源頼朝や武家を大いに困惑させることになります。
 やはり交渉・陰謀の駆け引きをお家芸としている海千山千の伝統権力は、そう簡単には、新興勢力の源頼朝たち武家勢力に屈することはなかったのです。この伝統権力の逆襲が、その後の武家政権に与えた影響は何だったのか?次回は、その事について追ってゆきたいと思います。

(寄稿)鶏肋太郎

源頼朝と源義経との確執の発端『立場』に対する認識のズレ
源頼朝と東国武士団たちの挙兵の目的は「平氏討滅」と「西国政権」からの独立戦争であった
源頼朝に対して大逆襲する後白河法皇を筆頭とする伝統権力者(朝廷・寺社)たち

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