源頼朝と東国武士団たちの挙兵の目的は「平氏討滅」と「西国政権」からの独立戦争であった

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 2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(第4回 矢のゆくえ)が先日放送され、源頼朝を旗頭とする北条・佐々木などの中小の東国武士団(坂東武士)が、当時の覇者・平氏に対して決起しました。本編ラストに、俳優の江澤大樹さんが演じる佐々木経高が、正しく決起の嚆矢(火矢)を放ったシーンはとても印象的でした。
 1180年、反平氏勢力の皇族・以仁王(後白河法皇の第2子)によって平氏追討の令旨が、各地に散り凋落していた源頼朝など源氏一族にばら撒かれたことにより、打倒平氏の機運が一挙に高まった直後の頼朝と東国武士団の決起でした。
 上記の決起は、源頼朝とって亡父と亡兄の仇敵であった平氏打倒であり、東国武士団にとっては、永年東国を奴婢のように支配してきた京都朝廷、それを名実と共に壟断する平氏一族と『西国政権』への独立戦争を大目的としたものだったのです。
 源頼朝と東国武士団の決起したのは、以仁王の令旨を受け取った源氏一族に対する弾圧が強まったために、頼朝が自身に降りかかる禍を払うための「追い詰められた挙兵」であったことが大きな理由とされており、それも一理あったと筆者は思っております。


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 以仁王の令旨拡散が、源平争乱という歴史的大火における紙や木などの可燃物となり、頼朝と東国武士団が、一擦りのマッチという今にも消えそうな弱々しい点火源を放り込んだ結果、後の西国政府(朝廷)から独立した武家政権を樹立するという思った以上の発火力を発揮したというのが真実ではないでしょうか。
 しかし可燃物と点火源のみでは、一時的な強烈な発火力を発揮するとは思うのですが、それでは長々と燃え盛る炎にはなりません。
 永年の歴史的大火を持続させる、即ち武家政権を永続させるためには木炭や油などの新たな火種を投入しなければいけません。その新たな火種的役割が、前掲の「源頼朝の挙兵=仇敵討滅、東国武士団の旗上げ=西国政権からの独立戦争」という東国勢力の大目的と気概が、大火を更に強めるための木炭と油の役割を果したのです。そして、その東国から興った炎が、西国政権をも吞み込んだ一大事件こそ1221(承久3)年に勃発した承久の乱であります。
 当時、京都朝廷=西国政権の最高実力者である後鳥羽上皇が、北条義時率いる東国武士団(鎌倉幕府)を討滅するために挑んだ一大決戦であることは、皆様よくご存知のことでありますが、この勝者となった東国武士団が、名実共に全国規模の武士政権を樹立し、西国政権の桎梏から独立を果たした、正しく日本中世史の一大転換点であったのです。

 それまで既得権益を独占してきた京都朝廷と西国政権からしてみれば、それを殆ど喪い、代わって東国の田舎者らに強奪されるという最大級の歴史的災害であったに違いありませんが、西国から東夷と蔑まれていた東国武士団にとっては、初めて中央政権である京都朝廷に打ち克ち、日本の表舞台に立つことができた栄光ある瞬間であったのです。
 我々後世の人間にとっては、強力な武力を保持する東国武士団らが、後鳥羽上皇を筆頭する公家連中の京都朝廷に圧勝するのは、当然の成り行きではないか、と思ってしまいがちなりますが、承久の乱以前の東国武士らにとって上皇様と朝廷を武力で討伐するというは、正しく驚天動地の非常識な所業であり、東国の人間の誰もが、上皇を武力打倒するということを考えもしなかったのではないでしょうか。敢えて現代風に譬えるなら、数人の県知事クラスの人たちが、日本政府と上皇様と天皇陛下に対してクーデターを起こすような非現実的なものであります。
 当時の人々(特に武士)は、現代人とは違って、諸事に激情的で、直ぐに刃傷で解決するような人々が多かったと言われています。鎌倉武士(東国武士)の生き様を描いた有名な絵詞『男衾三郎絵巻』(重要文化財)があり、その第2段、第11紙には、武士たちが理由も無く、屋敷の近くの通行人を、平然として弓矢の的として射殺しようとする非人道的行為が描写されています。
 男衾三郎絵巻は、飽くまでも物語上の誇張もあると思いますが、鎌倉幕府成立後の東国武士団同士の殺し合い(比企の乱など)を鑑みれば、当時の武士たちは獰猛な性格の持ち主であったことが判ります。
 我々後世の人間から見れば何ともおぞましい800年前の歴史でありますが、そのような武士の世のことを、司馬遼太郎先生は紀行シリーズ『街道をゆく42 三浦半島記』(朝日文芸文庫)の文中で、『悪漢小説(ピカレスク)に似ている』と書いておられますが、当時卑しい小悪党的身分であり、己(一族郎党)の利益保身(のためには権謀を用いて相手を陥れることをする東国武士団は、正しく『悪漢=ピカレスク』と言えます。
 大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で、歌舞伎役者の坂東彌十郎さんが好演されている北条時政、俳優の山本耕史さんの三浦義村らは、中小規模の東国武士らであり、彼らは窮地に立たされると一族の身を護るためと称して、旗頭とする源頼朝を平然と見捨てようと企むというのが、正しくピカレスクを体現した演出であると筆者は感じ入っております。そして、この北条時政、その子・義時と三浦義村らが鎌倉武家政権を樹立した後に、更に謀略によってライバルや盟友を次々と葬り去り、お互いの自己勢力を伸張していくことに邁進していくことは周知の通りであります。ピカレスクもここまで昇り詰めれば、それはもう一流のステイトマン(政治家)と言えるかもしれません。


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 そのような猛々しく廉恥心が少ない東国武士団でも、朝廷と西国政権に対して畏怖感を抱いており、後鳥羽上皇が幕府執権・北条義時の追討の院宣を下した当初は、朝廷=官軍に対して刃を向けることを大いに躊躇していたのが好例であります。やはり当時の中央政府たる朝廷から敵視されるのは恐ろしいものであります。
 鎌倉中がその恐怖心で覆われている中、尼将軍・北条政子の決死の演説によって、東国武士団はようやく纏まりをみせ、幕府軍は一気呵成に西上、後鳥羽上皇の官軍を鎧袖一触で撃破したのは有名であります。
 当時東日本を拠点とする一地方政権に過ぎなかった鎌倉幕府が、後鳥羽上皇の朝廷を撃破して、正真正銘の全国規模に及ぶ武家政権の時代が到来したのが西暦1221年です。即ち東国武士団が源頼朝を擁して、鎌倉を本拠として定め東国武家政権を築き上げたとされる1180年から数えると41年目の歴史的快挙です。その40年間で西国政権の雄であった平氏や東北の覇者・奥州藤原氏を討滅し、後白河法皇を圧迫して各地に守護地頭の設置を認めさせた大きい実績が東国武士団にあるのですが、それでも1221年の後鳥羽上皇からの追討令に東国武士たちは動揺しているのです。
 そう思うと東国武士団が源頼朝を擁して決起する西暦1180年以前、東国の僻地を開拓する武装農場主に過ぎなかった武士団は、文化と権威を有する京都朝廷を頂点する西国政権に対して恐懼すること甚だしく、公家や大寺院の顔色を常に窺う小さな存在に過ぎなかったということが、容易に察しが付きます。
 地元の関八州/坂東では、広大な田畑を独力で切り拓き、牧場をも有している独立心旺盛な地元の名士的存在でもあり、弓馬の道に通暁して武力盛んな東国武士団ほどの家々が、「何故、西国政権に対して番犬の如く卑屈なほどの態度で従属していたのか?」という疑問点が浮かび上がってくるのです。
 その主因が、当時の日本国家における『土地制度の曖昧さ、土地所有権の脆弱さ』にあったのです。この説は、鎌倉時代をご研究されている多くの学者先生方あるいは司馬遼太郎氏・永井路子氏など偉大な歴史作家によって主張されていることで周知の通りでございますが、要は東国武士団が苦心惨憺の末に、開墾した農地であっても同地の所有権を公式認定=『安堵』してくれる機構が無いために、隣国の強大な武士が土地を武力で強奪しても、誰も文句を言えない状態だったのです。
 勿論、東国(関八州/坂東)の各国にも、京都朝廷の出先行政管理機関の「国衙(こくが)」、中央から派遣される公家が就任する行政長官の「国司(県知事クラス)」、現地の作業に携わっていた地元の有力豪族(東国武士団)たちが就任していた「在庁官人(下級公務員クラス)」らが存在しました。
 しかし元来、国司は現地統治にやる気が無い者が多く、ただ京都朝廷から命令される租税のみを徴収する一方のある種の「政府公認収奪者」のような存在でした。また定額の租税を納めた国司の中には、余剰分を自分のフトコロに入れることも多々入れ私腹を肥やす上、あわよくば開墾領主の土地を没収し国衙領(公領)とする場合することもあり、納税者たる開墾領主/武士団に対して傲慢な態度を採る者も多々いたのであります。
 時代劇における賄賂をせびる悪代官、下請会社に対する苛める大企業から派遣されたエリート社員。国司と武士団の間には、それらのイメージが思い浮かんでしまいます。
 平安末期、即ち東国武士団らが、関東の土着勢力として伸張し始めた時期になると、国司の統治における怠慢さは、より顕著になり、国司に任命される公家たちは現地の国衙にさえ赴任するとも厭って、自身は都会の京都で住まい続け、現地には代理人を派遣するようになります。これを「目代(眼代)」と呼ばれます。
 源頼朝が、北条時政や仁田忠常ら少数の東国武士と共に伊豆で挙兵した際、真っ先に彼らによって討ち取られた「平兼隆(山木兼隆)」は、伊豆国の統治を代行していた目代であったことは周知の通りです。京都朝廷の手先である目代を血祭りにあげることによって頼朝と東国武士は、京都朝廷を長とする西国政権からの独立、『武士政権の樹立』を意志表明したのです。

 京都朝廷の出先機関の国衙、その長官である国司(目代)の税や土地の収奪を防ぐために、東国武士団は、互いに姻戚関係を締結し、ヨコの繋がりを強める「一揆(連合)、一味同心」で、結束を固める一方、国司よりもランクが上位である有力公家、平清盛を総帥する平氏一族や大寺院に取り入ることに腐心するようになります。
 その手っ取り早い手段が、東国武士が所有している農地を公家・寺院の荘園として『寄進』することにより、公家や寺院の金看板を掲げて、その土地を護ることであります。即ち中央政府に近しい有力公家や寺院の名義を借りることによって、国司、その息がかかった周辺武士の魔の手から守護するのであり、そして事実上の土地所有者である武士は、名義を貸してくれた公家などに定期的に名目料を納めて、武士自身は表向き上、土地オーナーから「1人の管理人および現地実務員」(当時の言葉で『下司(げす/げし)』)としてランクを落とし、自分たちの土地に引き続き収まるのです。更に武士たちは、京都御所を守備する『大番役』を献身的に務めるのであります。余談ですが、現在、下司(ゲス)という言葉、「卑しい」「下品」といった悪い意味で使われることが多いですが、元々は、上記の通り開発領主(開拓武士)らが荘園の管理人(下司)を意味するものでした。
 


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 『大番役』。これほど当時の東国武士団を経済的に苦しめた役はないのではないのでしょうか。遥々東国から郎党を率いて上京し、京都御所や公家の邸宅の外回りを警備するのであります。無論、御所に昇殿することは許されるはずもなく、寒い厳冬期で寒風吹き荒れる中でも回廊の真下で、只々跪いているのであります。
 文字通り京都朝廷の「番犬」のような存在でありますが、この様なことをしていれば、いくら武術や開墾で鍛錬された東国武士でも健康や精神に悪影響であったに違いなく、大番役で体調を崩した東国武士も存在したのでは?と筆者は邪推してしまいます。因みに北条時政や三浦義澄など、後に鎌倉幕府で絶大な権力を誇ることになる東国武士団も大番役の勤務を余儀なくされていることは周知の通りであります。
 東国武士団は番犬のように献身的に大番役を務めるにも関わらず、報酬は無い上、京都での滞在費用は全て自分持ちでありました。しかもそれを3年間も続けなければいけなかったのであります。「給与ナシ、滞在費全て自分持ちの3年間の長期出張」、これほど東国武士団を苦しめる役目はないでしょう。もっとも朝廷からの表立った報酬はなかったですが、東国武士が大番役で上京することによって、公家たちとの交流が持つことができ、運良ければ、公家の口利きにより、卑職(介や掾)に任命してもらえる機会もあったので、大番役の全てが、武士団にとって悪かったとは一概には言えない部分もありますが。
 大番役という奉仕活動によって東国武士団が、京都朝廷と西国政権に尽くし続けた理由はただ1つであります。それこそが己の土地所有を認定(安堵)してもらうこと、『一所懸命』であります。
 西国政権側の人々でも、鄙びた地を耕して細々と暮らしている土臭い東国武士団を「東夷(あずまえびす)=東の野蛮人」と卑下して、己の奴婢(ぬひ。奴隷的存在)のように遇していました。(事実、当時の東国武士には無学無教養な気性の荒い野蛮人のような連中が多かったようですが)
 後の時代になりますが、南北朝期の後醍醐天皇も、東国武士団の末裔たる当時の鎌倉幕府の北条を筆頭する鎌倉御家人たちを『夷戎(いじゅう)』と書面で、酷く罵っています。「夷」と「戎」ともに野蛮人という意味であり、その2つの侮蔑用語を重ねて使っていることを考えても、東国武士らが西国政権に異常なほどバカにされていた事がわかります。
 そして、西国政権から酷評されながらも「一所懸命」を主として献身的に京都に奉仕する武士が万一にも、公家や大寺院の機嫌を損じるようなことがあれば、忽ち自身の土地は没収されるか、他の武士に渡されるかされ、財産没収の憂き目をみた武士とその一族郎党は無一文として、荒野に放逐されるのであります。
 『平治物語』という源平合戦の前半戦というべき平治の乱(1160年)を取り扱った軍記物語がありますが、その中で源義朝(頼朝の父)と共にクーデターを起こした公家・藤原信頼という人物が、最期に平清盛に捕らえられ、京都六条河原で斬首された直後、その亡骸を何度も打擲する老人が現れる描写があります。
 実はこの老人は、元は丹波国で所領を持った武士であったのですが、生前の藤原信頼によって理不尽にもその所領を没収され、無一物になった老人はこの10年間で一族・郎党は皆餓死してしまった。と大きな声で叫んだ、と記してあります。
 平治物語は飽くまでも史実を基にした軍記物語であるので、記してあることを鵜吞みするのは眉唾物ではありますが、武士が命と同等に大切にしている領地が、公家の勝手な都合によって容易く没収されてしまう「武士の地位の弱さ=武士の土地所有権の脆さ」を如実に物語っています。

 只々自身の土地を護るために、東国武士団は朝廷や大寺院に対して名目料を払っている上、大番役という経済的負担が大きい奉仕活動を長期間行っているにも関わらず、西国政権の長袖者からは「東夷」と侮蔑された挙句、最悪の場合には土地を奪われてしまう。
 上記のような過酷な状況に、長年甘んじてきた東国武士団が大爆発したのが、1180(治承4)年当時、伊豆で流人生活を余儀なくされていた源頼朝を推戴した東国武士団(坂東武士)の挙兵であったのです。結果的に、流人で無一文の身分に過ぎなかった源頼朝は、東国武士団が巻き起こした新時代の大波に乗り、仇敵であった平氏を滅ぼし、日本初の本格的な武家政権を樹立する偉業を果たしたことになったのです。しかし、その日本史上の英雄の1人とされる頼朝は、飽くまでも東国武士団が掲げた表面上の金看板・旗頭であり、彼らが挙兵した主因は、『自分たちの土地所有権の保証をしてくれる政治機構が欲しい!』という現実主義的要望であり、それを大仰に言えば、当時唯一無二の中央政府にして、武士団を虐げている『京都朝廷(西国政権)からの独立戦争の旗頭的役割』を頼朝に託したのであります。
 京都朝廷を名実共に支配している平清盛を筆頭する平氏一族も、源頼朝の源氏と双璧を成す武家の棟梁の家柄でありますが、結局は京都と西日本を勢力基盤としている上、平氏一族こぞって(東国武士団が嫌悪する)京都朝廷に入り込んで、高位高官を独占する公卿なったことよって、「武家の棟梁・平氏=京都朝廷(西国政権)」と変貌してしまったのです。
 武家の棟梁とは、傘下武士団が領有している一族郎党と土地財産を保障してくれる唯一無二の存在であるにも関わらず、平清盛率いる平氏一族は、武士団を卑下し、土地財産を脅かす存在の京都朝廷に仲間入りをしたことにより、坂東で勃興している新興勢力である殆どの東国武士団の失望と怒りを買うことになったのであります。
 そして、東国武士団の中でも相模の大庭景親・波多野義常、伊豆の伊東祐親、安房の長狭常伴といった特定の親平氏派武士たちのみが、平氏の後押しによって勢力を伸ばし始めており、源頼朝の父・義朝の頃より大庭氏と深い対立関係にあった同じく相模国の武士団である三浦氏や中村氏らは、大庭氏により劣勢に追い込まれている状況でした。
 上記のように大庭氏が好例のように、東国各地でも当時隆盛を極めていた平氏の後ろ盾にしている武士団や国衙の目代が台頭しており、その諸勢力によって親源氏の三浦氏、あるいは平氏と対立関係にあった房総の千葉氏・上総氏らの支配権が侵食されていく問題を抱えており、この東国武士団内での政治的立場の偏ったバランス問題が、源頼朝の挙兵=東国武士団の決起、武家政権を樹立の最大起因となるのであります。  


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 周知の通り、伊豆で挙兵した直後に源頼朝は、相模国石橋山の合戦で、平氏軍側の大庭景親が率いる軍勢に完敗し、命辛々に房総半島へ逃れたどん底状態でしたが、同地の安西景益千葉常胤上総広常といった大勢力東国武士団を味方に付け、石橋山合戦の大敗北からの数ヶ月後に、坂東の覇者として鎌倉入りできた理由は只1つ。「頼朝が源氏の棟梁、新たな武士政権の長として、権益を独占する平氏側勢力を駆逐した上で、東国武士団の土地所有を認定し、それを不快に思うであろう京都朝廷との調整役を期待した」からであります。
 そうでなければ、つい数ヶ月前まで流人として北条家の居候に過ぎず、平氏軍の大庭軍に負けたどん詰まりの源頼朝、しかも頼朝と馴染みが薄い房総半島の大武士団が、頼朝を推戴するはずもありません。
 東国武士団の旗頭として祀り上げられた源頼朝も『主役は飽くまでも東国武士団』ということを熟知しており、その要望に見事に応えて、武士団の領分である東国内では、彼らの土地所有を安堵する唯一無二の裁き人(大親分)として、また京都朝廷に対しては、公家と武士団の利害調整を行う外交官的という2つの大役を果たしています。このことを以って源頼朝という人物を考えてみても、先の覇者・平清盛とはまた違った巨大な政治家であったことの証左となっています。
 因みに、この東国で勃興した武家政権の『主人公が東国武士団、鎌倉殿こと源頼朝は単なる旗頭』という理を理解できずに、最期に非業な死を遂げることになるのが、頼朝の異母弟の源義経であります。義経は、鎌倉政権での鎌倉殿の頼朝は絶対王政者のように巨大な存在と錯覚し、その舎弟である自分は、東国武士団よりも特別な存在であると思い込んでしまったことが、義経の不幸でしょう。
 そして周知の通り、自分は特別扱いと錯覚している源義経は、武士政権の長たる頼朝の許可なく後白河法皇から官位をもらい、東国武士団側の1人の武士であるにも関わらず、西国政権へ取り込まれる結果となったので、義経は兄から追討される羽目になったのです。幼少期には京都で育ち、青年期を奥州平泉で過ごした源義経には、東国武士団の心情や理念、それを叶えようと武士団を束ねる源頼朝の構想(『天下の草創』)を理解することが不可能だったのでしょう。


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 源頼朝の偉大さは、本拠地である東国では自身(鎌倉殿)を武家政権の唯一無二の頂点とし、各地の有力武士団を本領安堵および恩賞(新地恩給)を施すことによって、鎌倉御家人として傘下に治める『東国ピラミッド組織』(永井路子先生の発明語)という日本独自の組織を形成したこと、そしてもう1つは、京都朝廷との外交折衝を上手く展開することによって、武士政権をより強固なものにしたことでしょう。
 「東国武士団の組織化」、「京都朝廷との駆け引き」いずれの大仕事も、文字に明るく中央政権の事情に通じた人材がどうしても必要不可欠となってきますが、そこで源頼朝によって登用された人材が、頼朝と「年来の知音」と言われた中原親能、その実弟の大江広元・頼朝の乳母の親戚である三善康信といった京都朝廷の中級公家出身者、後に『文官御家人』と言われる人物たちであります。特に大江広元は、鎌倉幕府の草創期に武家政権の礎を築いた名宰相として後世にも伝わり、「鎌倉幕府は大江幕府でもある」と一部では評価されるほど広元の功績は評価されています。余談ですが、大江広元の五男・毛利季光の家系から、後の戦国期に、越後の戦国大名・上杉謙信の重鎮として活躍する猛将・北条高広、そして、中国地方の覇者・毛利元就が誕生することは有名であります。
 京都朝廷内に三善康信や中原親能という優れた人脈を持っており、それを活かして逸材・大江広元を見出すことができたことこそ鎌倉殿こと源頼朝の本当の凄さと言えるかもしれません。
 『源頼朝は武将でなく、政治家である』という評は、学者先生方の間で以前からあるもので、京都通の文官御家人たちも積極的に登用し、当時勃興したばかりの東国武士政権の組織造りおよび京都朝廷折衝に活かした人材活用の政治的手腕こそ源頼朝の真骨頂ではないか。と筆者は思うのであります。
 本来西国政権の首都たる京都生まれの源頼朝であるからこそ、大番役で公家たちに定期的に奉仕している東国武士団とは比べものにならないくらいに、朝廷の中に優れた人脈を持っているという利点も、東国武士団/武家政権の棟梁として相応しい条件の1つであったに違いありません。
 源頼朝の同族でありライバルでもある木曾義仲、あるいは源義経は、当代随一の軍事的才能を有していた頼朝以上の名将であったことは事実でありますが、京都朝廷(厳密に言えば後白河法皇)との折衝で大失敗を犯してしまい、両人とも最期は非業な死を迎えることになります。その主因は、源頼朝と違って木曾義仲と源義経に、三善康信のような宮廷の情報に通じた人材を揃えていなかったことでしょう。
 信州でしか育った木曾義仲には、上記の人材を俄かに整えることは時間的に不可能であったと思えるのですが、幼少期に京都で過ごしていた源義経には、少なからず宮廷に仕える公家との接点はあり、義経本人がその気になれば、政治や宮廷内の仕組みを知っている人材を揃えることは可能でありました。
 事実、源義経の実母として有名な常盤御前は、源義朝と死別後に中流公家の一条長成と再婚し、公家階級との太い人脈があった上、常盤と長成の間に誕生した一条能成は、異母兄の義経を慕って近侍していた時もあったのです。だから源義経も、異母兄の源頼朝のように、三善康信や大江広元に類似する人材を確保できる機会に恵まれていたのです。しかし、義経がその方面で、力を注いだ形跡はありません。
 合戦では、情報を重視して合理的な戦略や用兵術を駆使して、平氏軍を討滅した天才・源義経ではありましたが、京都朝廷との外交窓口を担うような人材と有しておらず、「日本一の大天狗」と謳われる海千山千の後白河法皇に籠絡され、結果的に異母兄の源頼朝に追討されることになったのです。
 上記のことを考察してみると、木曾義仲と源義経は、根っからの軍人気質であり、近代の軍隊階級で言えば、約3000の将兵が属する連隊を指揮する大佐(佐官)が一番相応しいようであり、彼らが連隊を統率すれば無類の強さを発揮する無敵軍隊になると思います。しかし、それが義仲と義経の限界であり、佐官以上の少将から大将といった将官階級になると、戦術や実戦のみでなく、政治・外交的要素も考慮に入れる複合的かつ幅広い視野と判断力が必要になってきます。将軍のことを英語で「General=ゼネラル」と言いますが、またGeneralは「全体を統合あるいは統括する者」という意味も含まれています。ゼネラルマネージャーは、正しくそのことを意味します。
 思うに、政治・外交方面は、木曾義仲と源義経が最も苦手とした分野であり、後白河法皇に手玉にとられた挙句、彼らは相応以上の栄達を望んだために自滅していったようであります。総括的な思考力が欠如していた義経たちは前掲のGeneralとは、結果的に言い難いのです。
 天才的軍事能力を持ちながらも、イマイチ政治感覚に鈍感である事と、それが原因で悲劇的末路を持つ源義経は、「国士無双」の語源になった中国前漢帝国の創設に多大な功績を挙げた名将・韓信を彷彿させます。

 武家政権が産声を上げた平安末期~鎌倉初期の当時で、政治・軍事・外交に通じる優れた大局眼を持つ者、いわゆるGeneralと呼ばれる相応しい傑物は、武家政権の先鞭をつけた平清盛、そして本格的に武家政権を創設した源頼朝の2人のみであったと思います。
 平清盛は西国の巨大基盤を以って、西国政権の州都である京都朝廷を抑えて、武家の地位向上に多大な功績を挙げましたが、結局は平氏一族が京都朝廷と一体化し、一族総出で豊穣な領地や官職を独占するようになり、それが原因で朝廷を嫌っていた多くの東国武士団の怒りと失望を買うことになってしまいました。
 源頼朝は、当時勢力を付け始めた新興勢力の東国武士団の「気持ちや生存理念」(一所懸命)を十分に理解し、武家の棟梁として武士たちの領地を安堵し、更に平清盛とその一族の失敗例を学び京都朝廷と距離を置きつつ、先述の三善康信や大江広元といった中央政局に通じている文官公家を登用して、武家政権の組織づくりに勤しんだのです。
 武家政権の棟梁・鎌倉殿こと源頼朝は生涯の殆ど、武家の上司であり、彼らの収奪者的存在であった公家が集まる京都朝廷と、確かに付かず離れずという外交上で一定の距離を保ち続けましたが、それでも京都朝廷の存在やその政治を完全に否定したわけでありません。因みに、朝廷の存在と統治法を完全に否定的な立場を採り、関東で決起して失敗したのが、10世紀中期の平将門でしょう。当時坂東と呼ばれた関東8ヶ国を占領し、自ら「新皇」と名乗り京都朝廷に真っ向から対抗する姿勢を採ってしまったために、中央政権から恨まれて討伐された結果となっています。


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 その反面、源頼朝は鎌倉を本拠地にして、(将門と同じように)坂東の殆どを事実上統治下に置きましたが、それでも京都朝廷には低姿勢で接しています。簡単に言えば、頼朝は武家政権の代表者として京都朝廷に、「今までの通りに、京都朝廷の皆様には一定の租税を納め、大番役で京都も警備しますから、その代わり東国武士たちの地位や財産保有権を認めて、彼らにも相応な生活をさせてやってください。お願いします」と掛け合い、それを是認させたようなものであります。
 1183(寿永2)年に京都朝廷から宣旨(認可)が下されたので、学界では『寿永の宣旨』と呼ばれていますが、これにより、当初、平氏一族と西国政権への反乱勢力と見られていた源頼朝と東国武士団勢力は、中央政権の朝廷から公認された地方武家政権になったのです。
 源頼朝と東国武士団の前掲の言い分は、現在では人間として遇されるべき当たり前のような主張ですが、当時としては画期的なものでありました。それまで京都朝廷の奴婢・番犬程度の存在に過ぎなかった東国武士団が、人間として真っ当な生活経済力とステータスを、漸く得ることができたようなものです。
 司馬遼太郎先生は、上記のような源頼朝と東国武士団、即ち武装農場主連合が立ち上げた武家政権の確立を、『人間が、初めて人間らしく生活できるようになった点で、日本史上最大の革命と言えるかもしれない』(「手堀り日本史」)と、書いておられますが、それを可能にしたのが、源頼朝の政治外交、軍事に渡って優れた統括者、General(ゼネラル)であったからです。また先述の京都朝廷との掛け合い、後に武家政権の屋台骨となる守護地頭の設置をも朝廷に認可させる外交折衝で、源頼朝がヘッドハンティングした三善康信や大江広元といった智嚢者の存在も大きかったと思います。

 血統の良さと優れたゼネラル能力に優れた源頼朝。その貴種が自分たちの絶好な旗頭となると見抜き、棟梁として仰いだ武力と独立心旺盛な東国武士団。対西国政権独立戦争は、源頼朝と東国武士団の最強コラボで成功し、後々まで日本史に大きな影響を与えることになったのであります。

(寄稿)鶏肋太郎

源頼朝と源義経との確執の発端『立場』に対する認識のズレ
鶏肋太郎先生による他の情報

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