時代の改革者・源頼朝vs天才・源義経の完全なる対立『京都朝廷』に対する認識のズレ

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 1180年(治承4年)10月、東国武士団(坂東武士たち)の支持によって鎌倉にて武家政権を確立した源頼朝(鎌倉殿)が、いわゆる源平合戦(治承・寿永の乱)で、自身の異母弟・源範頼と源義経の両武将を代官(代理総大将)として西国へ派遣、宿敵である木曾義仲や平氏一族を滅ぼしたことは周知の通りであります。
 特に、末弟の源義経の活躍が目覚ましく、その天賦の軍事的才覚によって、義経に匹敵するほどの軍事能力を持ち合わせていた木曾義仲、次いで当時の西国政権の覇者・平氏一族を悉く討滅できたのは事実でございます。源義経の天才的軍事能力、それは敵の意表を衝く奇襲攻撃のみに特化したものではなく、寧ろ敵方の平氏軍と干戈を交える以前に義経が展開した諜報作戦および味方勢力(特に水軍の確保)を増やすという用意周到かつ合理的な合戦準備こそが、彼を後々まで天才と謳われるようになった要因でしょう。
 軍事の天才・源義経が展開した合理的な作戦の詳細については、前回の記事にて書かせて頂いたので、今記事では省かせて頂きます。そして、今回は、当初異母兄・源頼朝のためと思い、自身の命を賭して宿敵・平氏軍を討ち平らげた大殊勲者であるはずの天才・源義経が瞬く間にして、頼朝から追討される羽目になってしまったのか?という理由を追っていきたいと思います。
 
 前掲のように、源義経は敵方相手の軍事面では、諜報活動や徹底した合戦準備、戦場では臨機に応じた奇襲攻撃といった、孫子の兵法の説く「迂」と「直」を織り交ぜた斬新かつ合理的戦略を遺憾なく発揮しましたが、肝心の戦後処理、および政治的態度ついては、(武士政権の樹立を目指す源頼朝にとっては)『不合理な』判断と行動を採ってしまっています。その好例が、源義経の古風な政体思想、京都朝廷に対する認識』であります。
 1184年、木曾義仲の討滅、次いで一ノ谷の合戦、三日平氏の乱の勝利で、平氏軍を畿内周辺から駆逐に成功した源義経は、京都朝廷の主宰者である後白河法皇から左衛門少尉・検非違使の役職、更に従五位下の官位をも下賜されました。検非違使は、京都の治安を護る現在でいうところの高級警察官僚相当の役職だと言われ、従五位下は平安公家の末席官位ながら、国司級や軍事貴族が就任する位であります。
 検非違使・従五位下の両方は、公家にとっては決して高いランクとは言えない官職でしたが、京都朝廷のガードマン・番犬のような卑賤な平安末期の武士たちにとっては羨望の官職でありました。
 吾妻鏡の出典の影響により、以前は源頼朝の配下である鎌倉御家人の一員に源義経が、頼朝の許しを得ずに官職を拝領したことが大問題となり、それが義経没落の主因となった、ということが定説になっていましたが、現在ではこの義経の無断任官による頼朝との対立説は研究の結果、一部の先生方によって否定されつつあります。


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 先述のように、朝敵とされた木曾義仲や平氏追討の第一の勲功者である源義経が、後白河法皇から恩賞として官職を賜ることは理に適っていると筆者も思うのですが、問題なのは、この後に、鎌倉御家人であるはずの源義経が、実兄であり直属の上司でもある源頼朝から、後白河法皇が支配する京都朝廷側、即ち西国政権へ鞍替えするような態度を示したことであります。即ち、この源義経の行為は、西国政権から独立した武士政権を草創しつつある源頼朝からしてみれば、「裏切り/寝返り」であります。
 平氏追討に成功した後も源義経は、京都を守護する検非違使尉に就任しているために、兄の源頼朝の鎌倉へ帰還することは能わず、まるで宮廷警察の如く後白河法皇の足下に留まり続けたのです。更に後には、後白河法皇の親衛隊兼軍事司令というべき役職・院御厩司をも兼任し、義経はかつての平氏一族に成らんばかりに、京都朝廷サイドに立脚するようになっていったのです。
 源義経本人は、武士の棟梁・源頼朝の代官として、更に日本一の権力者である後白河法皇の命令によって京都を守護しているのである、と思っていたかもしれませんが、公家や東国武士団といった周囲の人々から見れば朝廷から官職を頂戴し、京都に居続ける義経は、鎌倉武士から『義経殿は、京都朝廷の臣下になったのか』と誤解されるようになっていったことでしょう。
 源義経が京都を離れない理由として、彼が京都に生まれ、少年期まで同地で過ごしたので里心が付いた、愛妾・静御前と過ごしたいという個人的理由や欲望もあったかもしれませんが、やはり義経を京都に留め、源頼朝が主宰する鎌倉武家政権側から京都朝廷の西国政権側へ鞍替えさせたのは、頼朝をして「日本一の大天狗」と言わしめた後白河法皇であったでしょう。
 後白河法皇は、軍事の天才・源義経を京都に留置き、官職を与えた上、親しく付き合うことで義経の心を掴み、気がつけば義経は京都朝廷に属する武士になっている、ということを画策していたかもしれません。
 源義経を取り込んだ後白河法皇が、最初から源頼朝の対抗勢力に仕立ることを目的として義経を篭絡したのかは不明でありますが、彼を登用して、強力な朝廷軍(後白河法皇の親衛隊)を組織しようとしたことは、大いに考えられます。
 京都朝廷の内訌である保元の乱(1156年)、平治の乱(1160年)により、武家勢力が中央政権内で台頭して以降、上皇や天皇といった宮廷の人々は自身の軍事力強化のために、武士を足下に治めようとしますが、保元・平治の内乱を勝ち残った後白河法皇もその例外ではありません。
 後白河法皇は先ず、平治の乱の勝利者となった伊勢平氏の棟梁・平清盛とその一族をして朝廷軍として取り込み、その平氏一族が邪魔になってくると、次は信州木曾の源氏の長・木曾義仲をして平氏を京都から追い払い、義仲軍を官軍としました。そして、木曾義仲が乱暴者で京都の治安を乱す元凶となれば、その勢力を駆逐するために、今度は東国鎌倉で、京都朝廷政権(厳密には平氏)に対して反乱独立を起こした東国武士団の棟梁・鎌倉殿であり、源氏の嫡流である源頼朝を京都に招き入れて朝廷軍としようとします。しかし周知の通り、源頼朝自身は鎌倉を動かず、その代官として天才・源義経が軍勢を率いて西上、結果的に義経が後白河院の直属軍のような存在となり、木曾義仲、平氏一族を瞬く間に殲滅していくのであります。
 即ち後白河法皇は、まるで衣服を着替えるようにして、平清盛、木曾義仲、源頼朝、源義経といった各々の武家を政局(と言うより、後白河法皇の政治的判断)に応じて、官軍として京都朝廷側に取り込み、法皇も軍事力をつけていったのでありますが、ただ直轄軍を持っておらず、源氏・平家の借り物軍隊に依存している悲しい境遇により、法皇自身も混乱期に何度か危険な憂き目に遭っています。
 対立を深めた平清盛のクーデターによって院政を廃止され、後白河法皇も鳥羽院に幽閉され、次も木曾義仲によって、当時の法皇の住まいであった法住寺院が襲撃・焼き討ちにされ、挙句の果て、北陸へ連行されそうになっています。後白河法皇がこのような憂き目に遭うのも、これ全て、源平争乱期の王者であるがゆえの宿命と言えますが、それよりも法皇が直属の軍勢を有していなからであります。
 そして、これ以上、危険な目に遭いたくない後白河法皇が、今度ヘッドハンティングしたのが天才・源義経であります。彼は軍事能力のみに突出しているだけでなく、源頼朝と同様、源氏嫡流の血筋を受け継ぎ、京都の鞍馬寺にて勉学に励み、次いで文化度が高い奥州平泉で成長した武将でもあるので、田舎育ちの木曾義仲とは違い後白河法皇のお眼鏡に叶った逸材であったことでしょう。
 源義経も後白河法皇に優遇され、京都で検非違使として働き、京都朝廷と近しくしていたと思えば、いつの間にか法皇と京都朝廷サイドの人間になってしまっていた、という立場になっていたと思えます。そして、海千山千の京都朝廷の人々が源義経に、「もういっそのこと、京都に拠点を構えて、あなたが武家の棟梁になってしまったら如何です?第二の平清盛のようになりなさい。この後東国へ帰っても、また頼朝の風下に立たされるだけですよ。」と囁き、結果的に義経もその気になり、半ば強請するかたちで、後白河法皇に対して源頼朝討伐の院宣を引き出しています。(それが後に、後白河法皇の大失敗となり、そこを源頼朝に付け込まれ、各国に守護、各荘園に地頭の設置を認めさせられ、より武家政権が強大化することになるのですが)
 本来朝廷の臣下(奴婢・番犬)のような存在に過ぎなかった東国武士団が鎌倉に拠点を構え、源頼朝を推戴して西国政権の既得権益を徐々に侵害してくることを不快に思っている後白河法皇は、軍事の天才・源義経をこちら側へ取り込むことによって、頼朝と東国武士団らの有力対抗馬に仕立ることに大成功したのです。日本一の大天狗と呼ばれるに相応しい権謀術数ぶりを発揮した後白河法皇です。当初、その後白河法皇の思惑以上に事が上手く運び、源頼朝・源義経兄弟の仲は完全に破綻し、義経は頼朝に対して反旗を翻すことになったのであります。しかし後白河法皇の期待に反して、軍事の天才・源義経の挙兵は早々と挫折してしまいます。義経に加勢する武士団が少なかったからであります。院宣を手に入れ官軍になったはずの源義経の挙兵が失敗したのであります。
 この一事を以ってしても、諸事、周囲に対して独善的な振舞いが多かった源義経に対する東国武士団あるいは京都を中心とする西国武士団からの人望の無さがわかりますが、それ以上に、後白河法皇、即ち日本国王相当の人物からの命令書である院宣を奉戴すれば、多くの武士団が加勢するだろうと、目論んでいた「義経の政略的甘さ」が露呈したと言えます。
 また源義経に源頼朝追討の院宣を下してしまった後白河法皇も、この散々な義経の失敗に首を傾げたに違いなく、法皇は軍事の天才・源義経の能力、そして自身が出した院宣の絶対的力を用いれば、きゅう然と全国の武士らが、義経の旗の下(厳密には京都朝廷)に参じるものである、と信じて疑わなかったことでしょう。
 実はこの院宣が出される直前、朝敵されていたはずの源頼朝が、源義経が西国に有していた20ヵ所の所領を全て没収し、更には平氏討伐によって手にした500ヵ所という広大な「旧平氏所領/平氏没官領(後の関東御領)」も、平氏戦で従軍した武士団に恩賞して与え、彼らの忠誠心を掴んでいたので、頼朝から離反する武士団が少なかったのです。因みに、この源頼朝の政治的措置が、彼の死後から22年後の1221年5月、時の京都朝廷の主宰者である後鳥羽上皇(後白河法皇の孫)から仕掛けられた大戦・承久の乱でも功を奏するかたちとなり、鎌倉幕府の棟梁となっていた北条義時をはじめとする鎌倉御家人(東国武士団)は、頼朝公の御恩を忘れるな!をスローガンとして結束、難なく後鳥羽上皇の官軍を殲滅することになります。


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 源義経の所領、即ち経済基盤を没収して、義経の兵力動員能力を無力化するともに、自分の組織内部は、武士たちに新地給与で結束を固める、という政策を展開した源頼朝。これが冷徹と評せられながらも、正しく効果てきめんの手を打った政治の天才・源頼朝の面目躍如というべきでしょう。
 傲岸不遜な性格かつ褒美を与えるほどの信用度(無一文)が無くなった軍事の天才・源義経に、喜んで従う酔狂な武士団はいません。官軍的地位にありながら源義経と後白河法皇も、稀代の政治家・源頼朝に手玉に取られた感があります。

 上記の源頼朝の反面、源義経は以前から、筆者が崇拝する司馬遼太郎先生や永井路子先生をはじめとする作家や先生方からは『源義経は軍事の天才ながら政治と政略感覚は全くのゼロ』というのが定評ですが、義経のような優れた武士でも当時の政治情勢の変化、即ち、後白河法皇を頂点とする王朝貴族の世から鎌倉殿・源頼朝を戴く新生・武士の世の中への変貌というものに対応しきれなかった、という方が正しいのではないだろうか。と僭越ながら筆者は思います。
 簡単に言ってしまえば、源義経は『京都朝廷に属する法皇・天皇・公家は、絶対存在』『源頼朝を頂点とする武士団は皆、どこまでも京都朝廷の臣下』という考え方に囚われていた、ということであります。その後、王朝貴族政権が衰退し、武士政権が約700年にも渡って君臨することを知っている後世の我々にとっては、前掲の源義経の考え方は固陋である、と思われるかもしれませんが、その京都朝廷は絶対、武士はその臣下という考えこそが常識だったのです。
 源義経の異母兄の源頼朝が、京都朝廷の影響下に無い鄙びた東国の鎌倉を本拠地として、大小農場主の武装親分衆(東国武士団)を取り纏めて、全く新たな武士政権(封建制、主従制)を創り上げる、ということの方が、当時としては画期的なものであったのです。その大いなる政治構想を源頼朝は、『天下の草創』(武士たちが取り仕切る政治)と称していることは周知の通りでございます。
 余談ですが、以前のNHK大河ドラマ『義経』(2005年放送)で、中井貴一さん演じる源頼朝が京都朝廷に圧迫を掛け、武士の世を築くことに王手をかけた(文治の勅許を獲得した)際、鎌倉御家人たちの面前で『これぞ正しく、天下の草創!』と高々と宣言したシーンは感動的でした。「(義経の)敵ながら天晴れ」と思いました。
 『武士という大いなる百姓たちが打ち立てた政権』(司馬遼太郎先生の記述)、天下の草創という、それまで京都朝廷の支配者たる王朝貴族(巨大寺社も含む)を中心とした旧体政権/西国政権とは、明らかに一線を劃した革新的な武士政権(封建制)を、無一文の流人身分から鎌倉殿になった源頼朝が一代で築いたというのは、彼が天才的な政治家であったということでありますが、一門(鎌倉幕府の門葉)であるはずの異母弟・源義経には、終生頼朝の政治構想を理解できなかったのです。
 源頼朝も、後白河法皇を「日本一の大天狗」と悪罵しながらも、それを頂点とする京都朝廷の政治体制や存在を完全否定したわけではなく、東国(美濃墨俣川以東の東日本)を武士が独自に支配することを朝廷に公認してもらう政権の確立を目指そうとしたのであります。いわゆる源頼朝と東国武士団(後の鎌倉幕府)が目指したのは全国武家政権ではなく、飽くまでも東国地方武家政権であり、更に言えば朝廷・鎌倉幕府の西日本と東日本の棲み分け構造というべきでしょうか。
 源頼朝が活躍する約100年前に、同じ東国(坂東地方)で京都朝廷に対して反旗を翻した名将・平将門は、朝廷を全否定するが如く自らを「新皇(新しい天皇)」と称し、完全なる暴力反乱軍となり、結局は短期間で滅亡してしまいますが、頼朝はその将門の失敗に学ぶが如く、元来の日本国の統治機関である京都朝廷には一定の敬意を払いつつ、京都からは中原親能、大江広元といった朝廷通の文官を登用して朝廷対策を講じる一方で、時には、後白河法皇と丁々発止の政治的駆け引きを展開し、京都朝廷公認の独立武家政権、後の鎌倉幕府の礎を築いていったのであります。即ち、源頼朝は京都朝廷との距離感のバランスを上手く採った、ということが結果的に言えるのです。
 因みに、京都朝廷と絶妙な距離感を保ちつつ武家政権の樹立を目指す源頼朝を嘲笑したのが、有力東国武士の1人であった上総介広常であります。今回の大河ドラマでは名優・佐藤浩市さんが演じられていた上総広常であります。
 ドラマ内では、反源頼朝の御家人勢力に加担したという冤罪を以って頼朝に処断された上総広常ですが、史実では京都朝廷に気を遣いつつ武家政権を築く頼朝に対して反抗的な態度を採ることがあったので、誅殺されたと言われています。有力武士ではあるが、前掲の平将門のように「京都朝廷なんかお構いなし」と思っている乱暴で政治認識に欠ける上総広常は、朝廷公認の武家政権を目指す頼朝やその中原親能や大江広元といった側近衆には危険人物となったのであります。
 上総広常ように、京都朝廷は知らん。東国は我々東国武士団のみで統治していこう、という完全なる反京都朝廷の武士が源頼朝の麾下がいるかと思えば、本来武士は京都朝廷の家来筋、それの命令には唯々諾々と従うのが常識だ、と主張する完全なる親京都朝廷の武士もおり、それが他ならぬ源義経であったのです。
 京都朝廷と東国武士団、両者の難しい政治・利害のバランスを採りつつ武家政権の確立を目指す源頼朝にとって、上総広常のように京都朝廷否定派も困りものですが、かたや舎弟・源義経のように、官職を貰って喜び、後白河法皇の膝下の京都に居続け、ベッタリと朝廷に親しく張り付いてしまうのも大問題であったのです。もしかしたら、この時、鎌倉から源義経の一挙手一投足を注視していた源頼朝は、「九郎判官(義経)は、かつての相国入道(平清盛)のように、京都朝廷に取り入り西国政権を壟断するようになるのではないか?」と思っていたかもしれません。
 自分が唯一無二の武家の棟梁(鎌倉殿)として武士団を束ねる、という武士政権の確立を目指す源頼朝だからこそ、同じ源氏一族である甲斐武田氏を従属させ、常陸佐竹氏や木曾義仲、更に宿敵・平氏といった他の武家の棟梁候補者を滅ぼしたのであります。それにも関わらず、今度は自分の血肉を分けた舎弟にして軍事の天才である源義経が、京都朝廷に取り入り、源頼朝の有力対抗馬として台頭する気配を見せたのであります。
 事実、平氏討伐を果たした直後の源義経は、平清盛の正室・時子(二位尼)の実弟・平時忠の娘を、(源頼朝の許可なく)、自分の側室として迎え入れ、京都朝廷と縁が深い平氏一族と縁結びをしています。この時、義経が静御前のような身分の低い町娘、或いは下級貴族の娘を側室として迎え入れるのなら、特に問題はなかったと思うのですが、源氏一族の仇敵かつ京都朝廷にも深い繋がりを持つ平氏一族の生残りの有力者(大納言)・平時忠の娘の1人「蕨姫(わらびひめ)」を側室としたことは、明らかに鎌倉殿・源頼朝や東国武士団の疑念や反感を買った問題行動でした。「義経のヤツ、平時忠と結びついて、平氏軍残党を引き入れ、更に京都朝廷に取り入ろうとしているのでないか?」と思ったことでしょう。
 実際、能登国に配流されるはずの平時忠は、源義経の岳父という立場を利用して京都に居座りつづけ、なかなか配流先の能登へ下向しない様子を、源頼朝が義経や時忠に対して激怒したという記録が吾妻鏡にあります。頼朝からしてみると、何を平氏の生き残りと仲良くしているのか、と義経に対して怒りを覚えたに違いありません。
 現在でも有名な『平家に非ずんば人に非ず』という後世まで遺る名言(or暴言?)を残したほどの切れ者・平時忠からすれば、己の保身のために娘を生贄として、源氏の貴公子である源義経に差し出した、と言われていますが、時忠の出自や経歴を考慮しない上、源頼朝の意向などをも伺わずに、時忠が差し出した生贄を安易に受け入れてしまった義経も軽率であることは否めません。
 ドラマの創作世界での源義経は、静御前ただ1人のみを愛した品行方正な性格の天才と描かれることが多いですが、実際の義経は(父・源義朝や兄・源頼朝と同様)、女性関係も華やかであります。しかも源義経の女性関係で困った点が、女性の派手さであります。鎌倉殿・源頼朝は、伊豆の田舎豪族の娘に過ぎない北条政子を正室としているのに、その一方で義経は、白拍子として有名な静御前や有力貴族の平時忠の娘を妾としている華やかさが目立ちます。現在で言えば、超有名女性アイドルと皇族に連なるご令嬢の両人を、時代の寵児・源義経は侍らせた感じでしょうか。
 
 以上のように、公では京都朝廷から官職を拝領し後白河法皇や貴族と付き合い、プライベートでは京都美人と仲睦まじくする、公私共に華麗なアーバンライフを謳歌している源氏の貴公子・源義経の存在。これだけでも田舎の鎌倉で、東国武士団を纏め質実剛健を旨として自身を律している源頼朝、その配下である武士団は、義経に対して失望と強い怒りの感情を抱いたことでしょう。
 恐らく源義経本人も好き好んで、兄である源頼朝や東国武士団を怒らせるために、京都朝廷と必要以上に親しくし、派手な女性関係を持ったわけではなかったでしょう。義経も何の悪気も無かったと頼朝たちに言いたかったに違いありません。
 では何故、源義経が、源頼朝たちが警戒する京都朝廷と必要以上に緊密な関係を結ぶ、即ち今記事の表題にある『京都朝廷に対する認識のズレ』を持っていたのか?という疑問が浮かび上がってくるのですが、やはり義経が育った環境が原因であったとしか思えません。
 周知の通り、源義経は幼少期~少年期まで京都北郊の鞍馬寺に育ち、その目で京都朝廷の権威、それに取り入って遂には壟断した平清盛とその一族の栄華を見てきたのであります。即ち、亡父の仇敵・平氏一族を倒し、京都朝廷の中枢に入り込めれば、自分も繁栄を極めることができるのだ、と当時、牛若丸(遮那王)と呼ばれていた少年の源義経は思ったことでしょう。
 
 唐突ながら、古代の中国大陸で史上初の統一帝国を築き上げた秦の始皇帝は、自らは豪華絢爛の馬車に乗車し、護衛として足下の大軍や官僚を従え大陸各地を行幸したことは有名ですが、その始皇帝の大旅行団を民衆に混ざって眺めていた1人の人物がいました。その人物こそ、秦に滅ぼされた楚国の将軍の末裔である青年・項羽(項籍とも)であり、始皇帝亡き後の秦帝国を滅ぼす傑物ですが、彼は民衆に混ざって祖国を滅ぼした仇敵・始皇帝が乗車する馬車と行幸軍を眺めながら、『いつかは、アイツ(始皇帝)に取って代わってやる!(原文:可取而代/彼取りて代はるべきなり)』と大声で叫び、その時、項羽の隣にいた彼の叔父・項梁が驚いた、という逸話が中国歴史書『史記』にあります。
 鋭い項羽は、今馬車に乗っている皇帝(始皇帝)を殺せば、今度は俺が中国大陸の支配者になれる、ということに気づいたのでしょう。
 宿敵・平氏に父を討たれ家を滅ぼされ、現在、鞍馬寺に居候身分になり京都で町衆に混ざって、武家ながら公卿となり牛車で市内を練り歩く平氏一族の殷賑ぶりを眺めていた源氏の貴公子・源義経も、(かつての項羽が思った如く)、『何れ平氏に取って代わってやる!』と野心と復讐心を燃やしたことでしょう。あの牛車に乗っている連中を葬り、京都朝廷で出世すれば、俺も偉くなれるというように。
 思えば、日本の源義経と古代中国の項羽、共に軍事には天賦の才能を有し、大軍を撃破することには芸術的な勝利を重ね、長年の宿敵を滅ぼした当代の英傑である一方、人格的には他人に対する好悪が激しく、それが原因で周囲の反感を買い、最期は自身の孤立を招き自滅していった生涯が酷似しています。
 因みに、現在でも政権交代劇などでA氏がB氏に『取って代わる』という言葉をよく見聞きしますが、この言葉も先述の項羽が始皇帝を眺めながら叫んだとされる『可取而代/彼取りて代はるべきなり』が出典となっています。

 青年期にとなり元服を果たした源義経が、当時、京都以上に王朝文化(仏教文化)によって栄えていたとされる奥州平泉へ遷り、藤原秀衡の庇護下で、武士として成長していったことも有名であります。奥州平泉を本拠地とし東北全域(陸奥と出羽の2ヶ国)を支配下に置き、豊富な砂金と良質な馬、大陸貿易で蓄えた強大な財力を背景にして、独立国家の体を成している奥州藤原氏も、京都朝廷を特に尊重している勢力でした。
 京都朝廷が差遣してくる国司(陸奥守)を、常に快く受け入れる態度を見せる一方、定期的に京都には奥州産の砂金や馬を貢物として献上することを絶やさなかった奥州藤原氏であります。 当時の東北で強大な勢力を誇りつつも京都朝廷に対して献身的な奥州藤原氏でさえ、朝廷の人々から「俘囚(蝦夷)/夷狄の長=野蛮人のリーダー」として卑下されていましたが、同氏の働きかけが実り、3代目当主・藤原秀衡は、歴代当主の中で唯一、東北を支配する官職・鎮守府将軍を拝命し、朝廷からも東北の支配権を公認されています。
 因みに、この奥州藤原氏と京都朝廷のパイプ役を務めたのが、前陸奥守にして藤原秀衡の岳父でもあった藤原基成という京都出身の貴族であり、もう1人が奥州藤原氏の御用商人兼外交官の役目を担っていた金売り吉次であります。
 実は藤原基成と金売り吉次、この両名が、京都北郊の鞍馬寺で逼塞していた源義経を奥州藤原氏へ招き寄せたと言われています。基成の父方の従兄弟である貴族・一条長成の妻は、義経の実母である常盤御前であり、養子・義経の身を案じた長成が親戚の基成に、義経の身の振り方を相談した結果、基成は藤原秀衡に義経の庇護を頼み、秀衡が義経を京都から平泉へ呼び寄せたのであります。そして藤原秀衡の命令を受け、源義経を平泉まで護衛して連れて来たのが、商人・金売り吉次だったと言われています。藤原基成、金売り吉次、そして藤原秀衡の3人物は、源義経にとって大恩人であり、パトロン的な人物たちであったのです。
 独立国家の体を成しながらも、京都朝廷に親しく付き合っている奥州藤原氏の家風(小京都的な環境)で武将として成長した源義経は、ここでも京都朝廷の権威の強さを体感したに違いありません。
 京都朝廷の本拠地である京都・次いで仏教文化が濃厚な上、尊王的雰囲気の家風を持つ奥州藤原氏の本拠地・平泉、この2ヵ所で少年~青年まで過ごした源義経は、心中に朝廷に対する強い憧憬を醸成していったことでしょう。そして、その人格によって、異母兄・源頼朝が君臨していた未発達地帯が広がる坂東(鎌倉)へ駆けつけ、長年、京都朝廷によって長年搾取対象として卑下されてきた東国武士団の中へ飛び込んだかたちとなったのであります。
 自分たちの土地所有権を脅かす存在であった京都朝廷(それを名実共に支配する平氏一族)を、表面上は敬いながらも心中不愉快に思っている東国武士団の中に、京都や朝廷に強い憧れを持っている源義経が入ってしまえば、当然、彼は浮き切った存在になってしまうことになります。
 以前、とある歴史番組内でゲスト出演されていた大学教授(或いは作家の先生)が、『源義経は少年~青年まで京都と奥州に住んでいて、それから忽然と鎌倉に来たから、当時の坂東言葉が理解できなかった可能性がある』という意味合いのことを言っておられたことを覚えています。
 成程。現在のように共通日本語が完成されておらず、国々(県ごと)で違う言語が利用されていたと思われる平安末期当時、既に成人していた源義経が東国へ来ても、東国武士団の会話をよく理解できず、彼らと意思疎通が難しかった可能性は大いにあると思います。
 以上のような源義経に比べ、東国武士団に棟梁、鎌倉殿として推戴を受けている源頼朝は、義経と同じく少年期は京都で育ちましたが、平時の乱の敗戦によって14歳の頃より約20年間も東国(伊豆)で流人として過ごしてきました。
 よって源頼朝は同地の開墾に勤しんでいる東国武士団と付き合いがあり、彼らの生活形態や信念(一所懸命)を間近で見、その開墾団体の欲求(所領安堵、それを脅かす京都朝廷からの独立達成)を、肌身を以って知っていたので、東国武士団の奉戴によって身分を確立している頼朝は、彼らの欲求に応えるべく、その代弁者として後白河法皇の京都朝廷と政治的駆け引きを行い、武士たちのランクアップ、利権獲得に尽力したのであります。それらの代表的なものが、いわゆる1186年に後白河法皇に公認させた「守護・地頭の設置」(文治の勅許)であり、その集大成が1192年の源頼朝、征夷大将軍就任であったのです。そして、源頼朝と東国武士団の政治理念を理解せず、彼らとの認識のズレのため「京都朝廷ファースト」と言った如く、それに近づき過ぎた異母弟・源義経を追討したのも、頼朝の東国武士団たちへ対する政治的演出だったのです。
 
 いずれにしても、兄・源頼朝との『京都朝廷の対する認識のズレ』が致命傷となり、没落していった天才・源義経ですが、筆者の愚見を敢えて言わせて頂くと、平氏討伐で共闘した東国武士団、そして源頼朝といった周囲の仲間たちと、もう少し誠実かつ仁愛の心を以って謙虚、簡単に言えば協調性を持って付き合えなかったのか、と思えてしまいます。
 平氏討伐の源義経軍(搦手軍)に軍監として従軍した梶原景時が、役目として源頼朝に『九郎殿(義経)は、戦場で独断専行の行動が多く、将兵たちの些かの落ち度も見逃さず処罰するので、皆が毎日戦々恐々な思いでいます』といった意味合いの源義経悪評の報告書を送っていることは有名であります。
 この報告書は、長年にわたり梶原景時の讒言として見られてきましたが、鎌倉在住期の頃(平氏討伐以前)より、普段から源頼朝の弟である自分は、東国武士団とは身分は格上である、と誇示してきた源義経ですから、平氏討伐中も従軍してきている景時をはじめ東国武士団に対して傲岸不遜な態度を採っていたことは事実でしょう。
 もしこの時に、東国武士団たちに少しでも配慮ある態度を採っていたら、後に義経が源頼朝と対立した際に、助け舟あるいはアドバイスを出してくれる武士団がいたのではないだろうか?と筆者は思えてなりません。「義経さん、あなた京都朝廷と仲良くしすぎですよ。このままだと鎌倉殿とマズイことになりますよ」「諸事、独断専行ばかりせずに、こまめに鎌倉殿に書状で連絡を採って、指示を仰ぎましょうよ」といったように。
 事実、源義経の対照的な人物が存在します。その人物は、源頼朝の命令で、源義経と共に平氏討伐に出陣した義経の異母兄である源範頼であります。源範頼は、弟の源義経と違って、諸事、自軍の軍監である土肥実平と相談して軍事行動を採り、それでも彼らの手に余ることは、西国からわざわざ東国の鎌倉にいる源頼朝に指示を仰ぐ書状を送って、頼朝の意見を求めています。源頼朝も、このように慎重かつ諸事に当たる源範頼の振舞いを褒めています。源範頼は源氏軍主力の総大将として、和田義盛や土肥実平、北条義時などの東国武士団の主力軍を率い、平氏軍に悪戦苦闘しながらも、(義経のように)仲間割れを起こすことなく、最終的に平氏の牙城というべき山陽道・北九州を制圧に成功、平氏軍の退路を絶つ軍功を挙げています。


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 因みに、反乱分子となった源義経を滅ぼした源頼朝が、確立した武士の世の最高潮である戦国期の名将(仁将)に小早川隆景がいます。皆様よくご存知、中国地方の覇者・毛利元就の三男で、有力東国武士団の1人であった土肥実平の末裔である山陽の名家・小早川を継いだ智将であります。その小早川隆景は、現代にも通用する数々の至言を遺していますが、その中に以下のような名言があります。

『分別の肝要は仁愛なり。仁愛を本として分別すれば、万一思慮が外れてもそう大きくは間違うことはなし』(名将言行録)

 判断・行動の肝要は仁愛(人に対する思いやり)で、それを心得て判断すれば、たとえそれが的外れでも大きな間違いはない、といった意味になりますが、源義経にも他人(東国武士団)に対する思いやりを以って言動をとる。という心構えが少しでもあれば、多少とも彼のその後の人生は変わっていたかもしれません。尤も、飽くまでも筆者の拙い結果論に過ぎない上、小早川隆景のように教養、それを根本として誠実な性格に洗練された戦国武将が存在しない平安末期で、暴力のみを恃みとする源義経を含める武士に、仁愛の心を持つことを要求するのは、本来無理な話であることでしょう。
 因みに、武士が仁愛の心、即ち『撫民』(民を撫でるように大事にする)という思想が持つようになってくるのが、鎌倉幕府2代目執権・北条義時の三男・北条重時(極楽寺重時とも)がその元祖とされ、そして、義時の曾孫にあたる幕府5代目執権・北条時頼によって、撫民という心が、武士たちの間でより深化されてゆくことになるであります。
 
 源義経が悲劇の雄として没落した理由、それは兄・源頼朝と東国武士団との「京都朝廷に対する認識のズレ」と「義経の性格」の2点にあった、というのが筆者の私見であります。

(寄稿)鶏肋太郎

源頼朝と源義経との確執の発端『立場』に対する認識のズレ
源頼朝と東国武士団たちの挙兵の目的は「平氏討滅」と「西国政権」からの独立戦争であった
源頼朝と東国武士団の政治スローガン天下草創と文治の勅許
鶏肋太郎先生による他の情報

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