藤原秀衡と「平泉館」~『吾妻鏡』と柳之御所遺跡の調査から

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藤原秀衡と平泉

藤原秀衡(ひでひら)は藤原清衡(きよひら)・藤原基衡(もとひら)に続く奥州藤原氏第3代目の当主で、1170年(嘉応2年)に鎮守府将軍に、1181年(治承5年)には陸奥守も兼任した。
陸奥・出羽(現・東北地方)の軍事・警察・行政権を掌握して奥州藤原氏の最盛期を現出した。
1174年(承安4年)、鞍馬山から逃亡した源義経を匿って養育し、1180年(治承4年)に源義経の兄・源頼朝平氏打倒の兵を挙げると、藤原秀衡は佐藤継信・忠信兄弟を付けて奥州から送り出した。




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源氏と平氏が争った治承・寿永の乱の時には中立の姿勢を守りながら、京都の諸勢力との関係維持に努めている。
こうした藤原秀衡の外交的手腕によって、奥州藤原氏の本拠・平泉(岩手県平泉町)は戦禍に巻き込まれること平和と栄華を保ち続けた。

しかし、平氏滅亡後の1187年(文治3年)2月、源頼朝と対立して逃亡していた源義経を、源頼朝との関係悪化を覚悟して受け容れた。
同年10月に藤原秀衡が死去すると、その跡を継いだ藤原泰衡は、1189年(文治5年)4月、源頼朝の圧力に屈して源義経を自害に追い込み、恭順の意を示した。
しかし、同年8月、源頼朝の大軍によって平泉が攻められ、4代約100年にわたって栄華を誇った奥州藤原氏は滅亡した。

奥州藤原氏の本拠であった平泉は北を衣川、東を北上川、南を磐井川に囲まれた地域である。水運を利用した海上路を開発し、北方や大陸の南宋と交易を行って巨利を得た。
平泉には奥州藤原氏の館や中尊寺、毛越寺、無量光院などの寺院が建ち並び、華麗な都市文化が花開いた。

吾妻鏡』の平泉館

奥州合戦で奥州藤原氏を滅亡させた後、源頼朝は中尊寺や毛越寺の僧侶に、平泉の建物に関する報告書の作成と提出を命じた。
それが『吾妻鏡』1189年(文治5年)9月17日条にある「寺塔已下注文」で、当時の平泉を窺い知る上での一級史料とである。
この注文は8箇条からなり、各条には以下のとおり平泉の寺院、行事、館などについて詳しく記述されている。
第1・2条は中尊寺・毛越寺のそれぞれの堂塔、第3条は無量光院、第4条は鎮守、第5条は年中恒例の法会、第6条は経の講演、第7・8条は「館」・「高屋」であり、第7条は以下のとおりである。

一 館の事(秀衡)

「金色堂の正方、無量光院の北に並べて宿館を構ふ(平泉館と号す)。西木戸に嫡子国衡の家有り。同四男隆衡宅之に相並ぶ。三男忠衡の家は泉屋の東に在り。無量光院東門に一郭を構ふ(伽羅御所と号す)。秀衡常の居所也。泰衡之を相継ひで居所となす」

この記述からは、①館は金色堂の正方にあって、無量光院の北に並べて造られたこと、②その西木戸には嫡男・国衡や四男・隆衡の屋敷が一緒に並んでいたこと、③三男・忠衡の屋敷は泉屋の東にあること、④無量光院の東門の前に「伽羅御所」という屋敷があったこと、⑤その屋敷に藤原秀衡は普段住んでおり、藤原泰衡が相続して居所にしたこと、を知ることができる。

この「平泉館」は第7条の見出しに「秀衡」という注記があり、後述する発掘調査の成果からも藤原秀衡が建てた館であり、藤原清衡・藤原基衡の館は廃棄されていたと考えられている。

柳之御所遺跡の発掘調査

平泉館は柳之御所遺跡として、1969年(昭和44年)から現在まで発掘調査が行われている。
なかでも1988年(昭和63年)から1993年(平成5年)にかけて岩手県と平泉町が実施した調査では大きな成果を得ている。

柳之御所遺跡は北西から南東に流れる北上川を北に臨む台地上に立地し、北西から南東に細長く、最大長約725m、最大幅約212m、面積的11万㎡という広大なものである。
発掘調査により、堀、掘立柱建物、園地、井戸状遺構、地鎮具(じちんぐ)埋納跡、土坑などの遺構が検出されている。

出土遺物は種類が豊富で数も多く、かわらけ、中国陶磁器、国産陶器、瓦、金属製品、木製品、石製品、土製品、動物や植物遺体などである。
それらのうち、かわらけは素焼きの土器の皿で、当時の平安京などでは儀式の際に使用され使い捨てにされていた。
かわらけは遺跡のいたるところから、総出土量十数トンという莫大な数が出土しており、柳之御所遺跡の性格と特殊性を考える際の貴重な資料である。
このほか、折敷(おしき)の底板に書かれた寝殿造の建物の絵画や、「人々給絹日記」という表題で人名や染色名などが書かれている文字資料も注目されている。

柳之御所遺跡の特徴ある遺構や豊富な遺物は、この遺跡が平泉において中心的な位置を占めていたことを示している。
また、柳之御所遺跡は、出土した土器や折敷の年輪年代などから、12世紀後半を中心に機能したと考えられており、これは藤原秀衡の時期と重なる。
遺跡の南側には藤原秀衡が建立した無量光院跡や、藤原秀衡の日常生活の居館とされる加羅御所跡の推定地がある。
これらのことから、柳之御所遺跡の堀の内地区は、前述した『吾妻鏡』の「寺塔已下注文」に記された藤原秀衡の政庁・平泉館であると推定される。




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平泉は2011年(平成23年)6月、「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」の名称で、世界遺産リストに登録され、国内では12番目、東北地方では初の世界文化遺産となった。
今後も平泉の文化遺産の保護や、発掘調査に基づく復元・整備に期待したい。
なお、平泉町へのアクセスについては以下を参照いただきたい。

平泉町への交通アクセス~

<主な参考文献>
黒坂勝美 1980年『国史大系 吾妻鏡 第一』吉川弘文館
五味文彦 1994年『中世の館と都市 ミクロの空間から』朝日百科 日本の歴史別冊 歴史を読み直す7 朝日新聞社
酒井直行編 1996年『城郭研究最前線 ここまで見えた城の実像』別冊歴史読本 新人物往来社
佐原 真、他 1996年『城の語る日本史』朝日新聞社

(寄稿)勝武@相模

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