【どうする家康】徳川家康が生まれた城「岡崎城」~その歴史と城郭の整備・拡張を探究する

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概要

愛知県岡崎市に所在する岡崎城は、2023年(令和5年)のNHK大河ドラマ『どうする家康』の主人公である徳川家康(幼名・竹千代)が生まれた城である。
今も岡崎城内には、1542年(天文11年)12月、徳川家康が誕生したときに使われた「東照公産湯(とうしょうこううぶゆ)の井戸」が残る。
徳川家康は1542年(天文11年)から1569年(永禄12年)に浜松城(静岡県浜松市)に移るまで岡崎城に居住した。
ただし、1547年(天文16年)から2年間は織田氏の領国・尾張国熱田(愛知県名古屋市)で、その後、1560年(永禄3年)までは今川氏の駿河国駿府(静岡県静岡市)で人質生活を送った。
徳川家康が浜松城に移った後は嫡子・徳川信康(1559年―1579年)が、次いで徳川家とゆかりの深い大名が城主を務めている。




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岡崎城への交通アクセスは、愛知環状鉄道「中岡崎駅」より徒歩約15分、または名鉄東岡崎駅・JR岡崎駅よりバス「康生町方面行き」に乗車、「康生町」で下車して徒歩約5分である。

本稿では徳川家康とゆかりの深い岡崎城の歴史や特徴などについて探究する。

岡崎城の歴史

岡崎城は岡崎市内を南北に流れる矢作(やはぎ)川と菅生(すごう)川が合流する地点にある丘陵上に位置する。
この「龍頭山(りゅうとうざん)」と呼ばれる標高約24mの丘陵先端部に、1452年(享徳元年)から1455年(康正元年)にかけて西郷稠頼(さいごうつぐより)が砦(とりで)に近い城郭を築いたのが、岡崎城の始まりとされている。
西郷稠頼は三河国(愛知県)守護職・仁木氏の守護代で、西郷氏が1524年(大永4年)まで岡崎城の城主であった。
西郷氏は3代目当主・西郷信貞(のぶさだ)の代に、三河国松平郷(愛知県豊田市)から勢力を拡大してきた松平氏の配下となった。

これにより1521年(享保4年)、徳川家康の祖父・松平清康(きよやす)が岡崎城の城主となり、城郭の整備・拡張が行われた。
松平清康は1535年(天文4年)、尾張国守山(愛知県名古屋市)に出陣中、家臣の謀反によって命を落とした。
その跡は嫡男・松平広忠(ひろただ)が継ぎ、1542年(天文11年)12月、松平広忠の嫡男として岡崎城内で徳川家康(幼名・竹千代)が生まれたのである。
城主・松平広忠が1549年(天文18年)に没した際、跡継ぎの徳川家康は今川義元の人質として駿府に居住しており、岡崎城には今川氏から城代が派遣された。

1560年(永禄3年)、桶狭間(おけはざま)の戦いで今川義元が織田信長によって討ち取られた。
それを契機に、徳川家康は今川氏から独立、織田信長と同盟を結び、岡崎城を拠点として三河国の平定に取り組む。
徳川家康は三河国を平定すると、甲斐国(山梨県)の武田信玄との間に今川領分割の協定を結び、1569年(永禄12年)に遠江国(静岡県)を支配下においた。
徳川家康は本拠を岡崎城から遠江国の浜松城(静岡県浜松市)に移し、嫡男・徳川信康(のぶやす)を岡崎城主とした。
1579年(天正7年)、徳川信康が織田信長に謀反を疑われて自刃した後は、重臣の石川数正(かずまさ)、次いで本多重次(しげつぐ)が岡崎城の城代を務めた。
1590年(天正18年)、徳川家康が豊臣秀吉によって関東の旧北条領国に移封されると、豊臣秀吉の家臣・田中吉政が城主となり、岡崎城を近世城郭へと改変していった。

1600年(慶長5年)、徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利し天下を握ると、岡崎城には徳川歴代の重臣・本多康重(やすしげ)が入城する。
それ以降、岡崎城は「神君出生の城」として神聖視され、石高は5万石前後と少ないながらも本多氏、水野氏、松平氏、本多氏と家格の高い譜代大名が城主を務めた。
この間、1617年(元和3年)に本多康紀(やすのり)が三層の天守を構築し、1644年(正保元年)には本多忠利(ただとし)が石垣を完成させている。

明治維新後は、1873年(明治6年)の廃城令によって天守以下の建物など城郭の大半が取り壊され、敷地は龍城(たつき)神社や岡崎公園となり、1959年(昭和34年)3月には天守が復興された。

      

岡崎城の整備・拡張

岡崎城の起源は1452年(享徳元年)から1455年(康正元年)にかけて西郷稠頼が菅生川北岸の龍頭山の明大寺(めいだいじ)に築いた砦に近い中世城郭である。
その範囲は現在の「清海堀(せいかいぼり)」で区切られた本丸程度であったと考えられている。
1531年(享禄4年)、松平清康が明大寺より現在地へと移して城域を拡大し、岡崎城周辺に甲山寺(こうざんじ)、大林寺(だいりんじ)、龍海院(りゅうかいいん)といった寺院を計画的に配置した。
その後も岡崎城が徳川家康の持ち城であった期間、「当城永禄年中権現様御縄張之由」(『龍城中岡崎中分間記』)、「権現様の御縄張」(『岡崎領主古記』)と、古記録に記されている改修が行われている。
また、徳川家康は1560年(永禄3年)、父祖の菩提を弔うため松應寺(しょうおうじ)、1563年(永禄6年)に随念寺(ずいねんじ)、1566年(永禄9年)には誓願寺(せいがんじ)を城の北東の丘陵地に建て、他の寺社とともに岡崎城の守りを固めた。

徳川家康の関東移封(1590年)後、岡崎城の城主となった田中吉政は、徳川家康に備える重要拠点として岡崎城を近世城郭に改変していった。
田中吉政は1592年(文禄元年)、城の東・北・西の外周に総延長約4.7kmに及ぶ堀(「田中堀」)を巡らせ土塁を築き、総構(そうがまえ)を構築する。
また、沼地を埋め立てて松葉・板屋・材木・肴・田町等を造成し、大規模な城下町を建設した。

1601年(慶長6年)以降、岡崎城の城主は、徳川氏とゆかりの深い譜代大名が代々城主を務め、東海道の要所としてふさわしい整備・拡張を行った。
1617年(元和3年)、本多康紀は三層三階地下一階で、東に井戸櫓(やぐら)、南に付櫓(つけやぐら)をもつ望楼(ぼうろう)型複合式天守を構築した。
また、次の城主・本多忠利は1624年(寛永元年)から1644年(正保元年)までに菅生川に籠崎堤(かごさきづつみ)を築き、菅生門から稗田(ひえだ)門にかけての曲輪(くるわ)の周囲と菅生川の端に石垣を整備した。

以上、岡崎城は西郷氏が築城した砦に近い中世城郭から、徳川家康、田中吉政、本多康紀、本多忠利による整備・拡張を経て本格的な近世城郭へと生まれ変わった。
近世城郭としての岡崎城は、内郭部分と田中吉政の時期に整備された外郭(総構え内)で構成されている。
そのうち内郭部分を構成する曲輪(くるわ)は、①本丸(八幡曲輪)・②持仏堂(じぶつどう)曲輪・③二の丸(御誕生曲輪)・④三の丸・⑤備前(びぜん)曲輪・⑥東曲輪・⑦隠居曲輪・⑧菅生曲輪・⑨風呂谷(ふろたに)曲輪・⑩坂谷曲輪・⑪白山曲輪・⑫稗田(ひえだ)曲輪・⑬北曲輪・⑭浄瑠璃(じょうるり)曲輪、である。
また、外郭部分は、田中吉政が城主の時に「田中堀」とも呼ばれる城下町を内包する総堀の範囲内である。

現在、岡崎城には石垣、堀などの遺構が見られる。
それらの中で、本丸の北にある「青海堀」と呼ばれている空堀は、谷を人工的に加えた程度のものであり、内堀として短く幅の狭い堀は全国的にも希少であるという。
岡崎城が近世城郭として明治維新まで存続した中で、この「青海堀」は中世城郭としての遺構をよく残している。




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なお、各曲輪の特徴については、今後、絵図や発掘調査成果などをもとに探究し、その成果をあらためて公開する。

<主な参考文献>
西ヶ谷 恭弘 1985年『日本史小百科<城郭>』東京堂出版
平井 聖、他 1979年『日本城郭大系 第9巻 静岡・愛知・岐阜』新人物往来社
岡崎城トップページ|岡崎城(天守閣)|特集|岡崎公園|岡崎おでかけナビ – 岡崎市観光協会公式サイト

(寄稿)勝武@相模

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