撫民思想「仁政の礎」を築いた鎌倉幕府3代執権・北条泰時

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 ヒットメーカー三谷幸喜先生による2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』がグランドフィナーレを遂に迎えてました。同作の一ファンであった筆者にとっては、未だに「鎌倉殿ロス」から脱却できないでいる状況であります(汗)。最終回も、正しく『予測不能のエンターテイメント』と三谷先生が仰っていた如く、筆者にとっては衝撃すぎた幕引き(正しく、主人公・北条義時が迎えた『報いの時』)であったために、強すぎる余韻に漬かり切っている感じであります。
 NHK大河ドラマでは、小栗旬さん演じる北条義時が一田舎武士から身を興し、鎌倉武家政権内でのトップを目指し、敵対した御家人仲間、2人の鎌倉殿・実妹の息子ら身内をも葬り去り、義時の実父・北条時政までも政権から追放。遂には「治天の君(当時の国家元首的立場)」である後鳥羽上皇を承久の乱で破り、名実ともに「確固たる武士の世」を築いた姿が描かれました。
 北条義時は、己の親族衆・御家人仲間、京都朝廷の最高権力者など多くを生贄にして「元祖・武家政権/鎌倉幕府」を築き上げた創業者的地位の人物と思うのですが、その義時死後に、後世まで武家政権を伝承させることに貢献した「守成の名君」が、義時の長子にして鎌倉幕府3代執権である北条泰時と言えます。
 天皇絶対主義とする歴史観、「皇国史観」が主流であった近現代(戦前)では、歴代の北条得宗家(執権職)当主の中で、初代とされる北条時政、2代・北条義時らは「陰険」「狡猾」「逆賊/弑逆者」という問答無用の腹黒権謀家と評され、鎌倉幕府滅亡の元凶とされる14代執権・北条高時に至っては、政を顧みず遊興・酒宴に耽る「最たる暗愚」と酷評されています。
上記の2代目・北条義時など悪評高い歴代執権の中で例外的に評価が高いのが、5代執権・北条時頼、その嫡男にして元寇という国難に対処した8代執権・北条時宗であり、その2大執権の上位扱いをされている名執権中の名執権と好評なのが、3代執権・北条泰時であります。
 今作のNHK大河ドラマでも、若手実力派俳優の坂口健太郎さんが『ホワイト中のホワイトの人格御家人・北条泰時(これは、作家・永井路子先生の泰時評)』を好演したことは記憶に新しく、ドラマ後半では父・北条義時の狡猾(ダーク)ぶりが顕著になり御家人や鎌倉殿を謀殺していくのに対して、泰時は『道理』や周囲との協調を重んじる(ホワイトな)活躍を見せるようになり、その彼の姿は視聴者の方々やネット上の救いとなり「#俺たちの泰時」というワードがトレンド入りするなど話題になりました。
 脚本の三谷幸喜先生も、以前ご出演された大河ドラマ関連のトーク番組内のインタビューで、『番組終盤は、北条泰時の存在が唯一の救いとなる』と語っておられましたが、世間の反応も全くその通りになりました。




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 先述のように、「吾妻鏡」など史料上の北条泰時も、彼の父祖のような狡猾かつ陰険なるイメージが薄く、高潔な武士とされ、鎌倉幕府公式書と言うべき『吾妻鏡』などでも、泰時は文武に長け、道理を重んじる法令遵守主義者にして、人情にも厚い名リーダーとして描かれています。また、鎌倉幕府の後裔と言うべき室町幕府(総帥:足利尊氏、北朝方)に最後まで抵抗した南朝方の公家・北畠親房が記した『神皇正統記』で、泰時は父・北条義時と共に高評価されており、特に泰時に関しては『泰時心正しく、政(まつりごと)直にして、人を育み、物に驕らず(以下、略)』と、人格高潔さを絶賛しています。
 江戸中期の儒学者・新井白石も『読史余論』内で、北条泰時に関しては公平さと質素倹約を心掛けた名君として評しています。(もっとも白石は、親房とは違い北条義時に関しては、「第一等の小人」と酷評していますが)
 しかしながら、北条泰時も父・北条義時に全面協力して、反北条勢力となった比企能員和田義盛の討伐戦、更に京都朝廷との決戦・承久の乱に参戦し、武力を以って北条氏勢力拡大に貢献した東国武士の1人であり、創作世界のイメージほど「周囲との協調路線」を主張するような平和主義者ではありません。特に、1224年(元仁元年、北条泰時42歳)に、亡父・北条義時の執権職を継ぐまでの泰時は、武を以って立身した鎌倉御家人でした。 
 また北条泰時に輝かしい戦歴があったからこそ、当時、北条一門の筆頭格であった北条時房(義時の実弟)、三浦義村(泰時の元岳父)など周囲の有力御家人らが、正しく「#俺たちの泰時」が如く、泰時を執権(事実上の「鎌倉政権の棟梁」)として認めたと思えます。
 前半生を、執権北条氏あるいは鎌倉政権に敵対する勢力との戦い、ある意味では粛清と破壊に費やした武者・北条泰時が、日本史上(歴代の武家政権上)にその名を遺せるほどの偉人となったのは、後半生において粛清と破壊の真逆である『創造』と『蘇生』を成し遂げた事であったのです。 
 創造とは、武家法典の元祖『御成敗式目』の制定や合議制を主旨とした『評定衆』設置などの武家政権の基礎固めであり、蘇生とは、本来殺戮と収奪を繰り返した階級・武士出身であるにも関わらず北条泰時が、初めて大々的に下々の人々(民百姓)を大切にする思想『撫民』を政策に打ち出したことであります。
 武士の世の隆盛である近世期、特に江戸期を生きた数多な武士たちは、軍人・警察官であると同時に、幕政・藩政(民政)に勤しむ官僚(公務員)でもありました。
 その武家官僚の中には江戸初期に徳川家康麾下で、関東代官頭(後の関東郡代)として江戸および関東地方の開拓および治水事業に携わった「伊奈忠次(備前守)」や「大久保長安(石見守)」のような国家規模のテクノクラート(名技術官僚)が存在し、また時代が下り江戸中後期になると、自身の生命や財産を賭して、地方の復興支援・貧民救済に尽力した「伊奈忠順(半左衛門)、前掲の伊奈忠次の子孫。富士山噴火災害復興に尽力」や「栗田如茂(ゆきしげ、定之丞。出羽久保田藩士)海岸砂防林開発に尽力」といった撫民思想に溢れた武家官僚も存在するようになります。
 勿論、近世期に数多存在した武士全てが、民百姓を仁政(撫民思想)で以って護ったのではありませんが、上掲の伊奈忠順や栗田如茂のように、弱者身分の救済に全身全霊を以って臨んだ殊勝なる武士も少なからず存在したことは事実であり、元々は暴力的存在であった武士という階級に、撫民思想を扶植させたのは、鎌倉初期の北条泰時であったのです。
 因みに、鎌倉幕府、それに続く室町幕府というのは、飽くまでも武士たちが、自分たちの利権や地位を護るために集まって完成した武士ファーストの政権(『武士による武士のための政権(本郷和人先生評)』)であったので、当時の武士(幕府)は、現在の日本政府のように、民衆の生活や財産を保証するという現代政治は行うことはありませんでした。武士が、民政に目覚めるのは、やはり先述の伊奈忠順といった武士官僚が登場した江戸期(厳密に言えば、明暦の大火を対処した保科正之治世期)からであります。

 武士階級が未だ民政を敷くという感覚が乏しい鎌倉初期にも関わらず、例外的に北条泰時が自覚した『撫民』とは、撫でるように民を慈しむ、という意味となっております。
 この撫民思想を武士社会に浸透させた名執権として、一番良く知られているのが、北条泰時の孫に当たる5代執権・北条時頼であります。時頼も祖父・泰時の志を受け継ぎ、三浦氏や名越氏など反対勢力を倒して北条得宗体制を強固なものにする一方で、自身は質素倹約を旨とし、貧民救済に心を砕いた理想の名君とされ、創作世界の中ですが、謡曲『鉢の木』に登場する人情味溢れる主人公・最明寺入道(時頼の出家後の通称)として登場しています。
 鎌倉幕府5代執権・北条時頼が信仰心厚く、心の修養に励み、撫民思想を、他の御家人たちにも浸透させようとした事実ですが、それ以前に、撫民思想を身に付けたのが、時頼の祖父である3代執権・北条泰時です。時頼が撫民という樹木を大きくした人物であるなら、泰時はその樹木を武士社会に植林した人物に例えられるでしょう。
 偉大なる歴史作家・司馬遼太郎先生が『走獣がそのまま人になったように粗野』『ピカレスク(悪漢小説)に似ている』と評するような中世初期を生きた鎌倉御家人(東国武士)社会で、「心正しく、政直なる」名執権・北条泰時が何故、燦然と歴史上に登場したという疑問点が浮かんでくることを否めないのですが、その点については日本中世政治史の大家であられる京都大学名誉教授の上横手雅敬先生をはじめ東京大学史料編纂所の本郷和人先生が解き明かして下さっています。

『泰時が京都で、自ら判断で政務を処理したことは、彼の見聞を大いに広め、未来の名執権たるべき素地を作り上げるのに役立った。』(上横手雅敬「北条泰時」 吉川弘文館)

『できる政治家・泰時が生まれた秘密は、「京都」にあると考えられます。』(本郷和人「北条氏の時代」 文春新書)

 承久の乱の際、北条泰時が鎌倉軍の総大将(大将軍)として出陣、京都朝廷軍を撃破して、京都を占領したことは周知の通りですが、その後も泰時は、戦後処理、京都朝廷および西日本の監視などを責務とする六波羅探題の一員(北方)として、約3年間、在京しています。因みに、六波羅探題の長官職は泰時が就任した「北方」と「南方」の2つありますが、南方は、泰時の叔父に当たる北条時房(義時の末弟)が就任し、泰時と時房の二頭体制が鎌倉政権出先機関として、承久の乱後の京都および西日本の支配を担当することになります。
 六波羅探題就任時の北条泰時は、ある意味、戦後の連合軍(いわゆるGHQ/進駐軍)の総司令官であったマッカーサー将軍のような立場ですが、英米など当時の先進国中心で形成されていた進駐軍は、些か後進国の臭い抜けきらぬ敗戦国日本を統治および助成する一翼を担っていましたが、中世初期の鎌倉武士・北条泰時の場合は、文化・経済的後進地帯であった坂東地方から当時唯一の先進地帯であった京都に駐屯したようなものであります。 
 即ち北条泰時は、六波羅探題として屈服させた京都朝廷、西国武士たち(承久の乱後に激増した新補地頭も含む)の監視統治に勤しむ一方で、高度な学問・文化で洗練された京都にて遊学もしたようなものであります。
 前掲の上横手雅敬先生と本郷和人先生に拠ると、この北条泰時京都遊学体験こそが、後に「名執権」「できる政治家」として大成するのに大いに役立ったと説かれているのですが、その中でも特に、泰時が華厳宗の高僧・『明恵上人(みょうえ。栂尾上人とも)』に出会ったことが、後の泰時の政治理念の形成に大きな影響を与えた、と上横手先生たちは強調されています。
 明恵上人は、かの後鳥羽上皇、九条兼実や西園寺公経といった京都朝廷の名立たる有力者から尊崇されるほどの学識・和歌・人格を有し、後に「華厳宗の中興の祖」と謳われるほどの偉人であります。その宗教界の偉人・明恵上人と武家政権の名宰相となる北条泰時との出会いも運命的であります。
 1206年(建永元年)、後鳥羽上皇から栂尾(とがのお。京都府右京区梅ヶ畑栂尾町)を与えられた明恵は、同地に高山寺を開山し、戒律を守り日々の修行に励んでいましたが、1221年(承久3年)、周知の通り、明恵の庇護者であった後鳥羽上皇は承久の乱で、北条泰時率いる鎌倉軍に敗れ、上皇は隠岐島に配流されました。
 京都朝廷軍の敗残兵の一部が、後鳥羽上皇と縁が深かった明恵を頼り、高山寺へ遁走。明恵もそれらを匿うことになりますが、それを咎めた鎌倉軍は明恵を六波羅探題に連行されることを余儀なくされます。しかし明恵は自身の刑死も厭わぬ毅然とした態度で、六波羅探題の取り調べに応じたことが、却って探題長官である北条泰時の信頼を得ることになりました。
 上記の機縁によって、次代の武家政権の担い手となる北条泰時と稀代の学徳優れたる明恵上人は出会うことになり、両者は後々まで刎頸の交わりを持つようになります。
 先述のように、明恵は「華厳宗の中興の祖」と称されるほどの学識と人格を有し、自らをも宗教の戒律厳守と修行を課したほどの高僧であるので、それまで経済的にも文化的にも鄙びた東国で育った北条泰時が、明恵のような偉人と親交を持つことができたのは、後の名執権と謳われる泰時にとって大きな糧となりました。




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 北条泰時が定めた『御成敗式目』の中で、武士の分を弁え、政を行うためにも『たうり(道理)』を唱え、彼自身も『道理ほど面白きものはなし』と強調するほど、泰時にとって道理という言葉は一心同体の如き存在となっていますが、彼がこのような政治信条あるいは人格を有するようになった要因は、京都での明恵上人との出会いがあったからだと言われています。
 尤も、北条泰時が手本とした初代鎌倉殿・源頼朝が強調した『天下之政道(天下を治める政)』、それを円滑に進めるために諸々遵守するための『諸事正道』が、泰時制定の御成敗式目の基本理念(骨格)となっていますが、その上で、明恵上人との邂逅と経験で培われた『道理』が、後世の武家政権まで影響を与えることになる御成敗式目を確固たる支柱的役割を果たしたように思えます。
 1224年(貞応3年)6月、鎌倉幕府2代執権・北条義時が急死することにより、北条泰時は六波羅探題の役目を終え、紆余曲折を得て鎌倉に帰還。同年7月、泰時は鎌倉幕府3代執権に就任します。この時、泰時42歳。この後、泰時が主導となり、新生・鎌倉殿の13人こと『評定衆』の設置、元祖・武家法典『御成敗式目』を制定し、武家政権の地固めを行っていくのは周知の通りであります。
 少し長い余談をさせて頂くと、武家政権の府たる鎌倉に帰還した北条泰時に代わり、六波羅探題北方は、泰時嫡男・北条時氏(当時22歳。母は三浦義村の娘・矢部禅尼)が就任することになりますが、六波羅探題の激務が祟り、6年後の1230年(寛喜2年)3月、探題就任中に病に倒れ、鎌倉に帰還しますが、同年6月に父・泰時に先立ち28歳の若さで没しています。
 病に斃れた時氏に代わり、六波羅探題北方に就任したのが、泰時の異母弟の1人である北条重時(極楽寺重時とも、当時33歳。北条義時三男、母は比企朝宗の娘・姫ノ前)であり、その後17年間も探題北方として在京、鎌倉の外から初期の鎌倉幕府政権安定に尽力。5代執権・時頼(重時の娘婿)の代になると、連署として北条執権体制の重鎮中の重鎮となります。
 北条重時は、兄・北条泰時や外孫に当たる8代執権・北条時宗よりも一般的に知られていない人物ですが、前掲の本郷和人先生に拠ると、実は重時は熱心な浄土宗の信者である上、兄・泰時と同じく強い撫民思想を持った鎌倉武士であり、その証左として、重時が嫡子・北条長時(赤橋長時とも。鎌倉幕府6代執権)、四男・北条業時、五男・北条義政といった自身の子供たちに宛てた2つの教訓状『六波羅殿御家訓』『極楽寺殿御消息』があります。(極楽寺殿御消息に関しては、北条重時が書いた教訓状でない、という説もあります)
 六波羅殿御家訓は43条から成る北条重時が書き記した正真正銘の教訓状であり、その内容の一部を簡単に列挙させて頂くと以下の通りでございます。

『後の世のことを鑑み、万民を育み、役に立たぬ者を懲らしめず、すべてにおいて心広く(中略)誰にでも漏らさず声をかけて、貧しい者には哀れみをかけ、妻子・親族らには皆ほがらかに対応して、決して怒った姿を見せてはならない。』(第1条)

『どんなに腹が立っても、無暗に人を殺してはいけない』(第4条)

『自分が偉い人間だと思ってはならない』(第7条)

『どれほど人を敬っても、敬いすぎて困るということはない。』(第16条)
『人の農作物を疎かにしてはならない。無法である』(第43条)

(参照元:北条重時が遺した北条得宗家の家訓の現代語訳。田中紀峰氏 https://kakuyomu.jp/works/1177354054886393517)

 人命尊重など現代では当然至極なる教訓ですが、御家人同士の争いと日常茶飯事の土地訴訟によって殺伐とした雰囲気が漂う鎌倉初期において北条重時が、貧民や従者など卑賤身分を含める他人に対しての人命尊重と敬意を主張し、武士の世間体についても気を遣っていることを家訓に遺すのは、極めて画期的ものであります。
 それまで武士たちにとって収奪や奴隷のような存在にしか扱われなかった農民や従者など卑賤身分の人々に対して、北条重時が『彼らも保護するように』と強調している時点で、当時、彼の異母兄にして執権職にある北条泰時が主導の下、武士の中で勃興しつつある『撫民思想』を重時も重視していたことが判ります。
 先述のように、鎌倉政権内にて撫民思想を広めたのは5代目執権・北条時頼であると言われていますが、時頼の岳父として、また連署として時頼政権を支えた北条重時の撫民思想に時頼も、大きな影響を受けたと思われます。そして、その北条重時は、兄・北条泰時が育んだ撫民思想と協調性を重視する政治姿勢に学んだと思われます。
 北条重時の同母兄は北条朝時(名越朝時、北条義時次男)であり、朝時が長兄・泰時と不仲で、泰時も朝時との関係に終生悩まされたことは有名ですが、重時との仲に関しては、極めて良好であり、泰時は異母弟ながらも重時を良きパートナー・相談役として、絶大な信頼を寄せていたことは、重時を要職・六波羅探題に任命したことや、泰時が御成敗式目を制定した際、重時にその政治信条を記述した「北条泰時御消息」を送った、ということを見れば容易に察せられます。
 北条泰時が撫民思想を実践した好例として、『飢饉対策と貧民救済』があります。先述のように、江戸期の伊奈忠順たちのような近世武士たちは、行政官としての自覚を持って、復興災害や貧民救済に勤しみましたが、泰時在世時の中世初期の武士たちは一般的に、民百姓に憐憫を掛けるという心情を持つことはなく、自分自身とその一族の利益のためなら暴力を用いてまでも民衆から搾取する恐怖の収奪者でした。極論を言ってしまえば、多くの武士たちは自分や一族郎党の食い扶持や利益が大幅減しない限りは、少人数の民百姓が飢饉で窮乏しようが餓死しようが知ったことではない、という正しく乱暴な権力者たちだったのです。
 即ち当時の武士たちは「野蛮・粗野」だったのであり、その部類の筆頭的存在である東国武士団(後の鎌倉御家人たち)を、京都朝廷や畿内の人々が『東夷(あずまえびす、東に住まう野蛮人)』と評価したのは、必ずしも的外れなものではなかったことは否めません。
 その東夷で生まれ育った1人である北条泰時ではありますが、天変地異などで飢饉により民百姓が困窮した折は、撫民思想に基づく救済措置を採っています。
 北条泰時が未だ19歳の青年武士であった頃、北条氏の本領であった伊豆北条荘の領民が度重なる不作で困窮していたのを、泰時は現地視察した上、民たちが領主から借りた「出挙米(領主からの貸付米/種籾米。来季の収穫期に領主に米穀として返済する)」の返済能力が彼には無いと判断。そこで泰時は領民たちを集め、その面前で出挙米の借用証文を破棄し、今までの出挙米返済は帳消ししたばかりでなく、民たちに酒や米も与えたので、彼らが歓喜した。という北条泰時=撫民思想に溢れた名君という逸話が吾妻鏡に載っています。
 周知の通り、『吾妻鏡』は北条執権体制の正当性と賞賛のために記された歴史書であるので、上記の逸話も、執権体制を確固たる基盤を築いた名執権・北条泰時を賞賛するため、泰時は青年期から優れた人格と政治的資質を持っていたことを強調したものと思われます。
 因みに、この伊豆における北条泰時の領民救済の逸話は、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも取り上げられている回がありましたが、この逸話の本ネタは、古代中国の偉大なる歴史家・司馬遷が記した歴史書『史記』(「孟嘗君列伝」)に載っている斉国宰相の田文こと孟嘗君お抱え食客の1人にして弁舌優れたる馮驩(ふうかん)が、孟嘗君の領地・薛にて実施した救民措置の逸話を出典とした上、北条泰時の物語として加筆されているのは明らかであります。
 ただ北条泰時が飢饉や不作で喘いでいる民百姓らを救済したのは、全くの作り話というものでなく、泰時40代後半に発生した『寛喜の大飢饉』(1231年/寛喜3年、泰時49歳)にて、泰時が撫民思想に基づいた飢饉対策や救民措置を敢行しています。
 40代後半の北条泰時は、事実上の武家政権の棟梁たる執権職ではありましたが、個人的には、大飢饉が発生する前年である1230年(寛喜2年)には、大切な嫡男である北条時氏が若くして病死(6月)、また2ヶ月後の8月には、泰時の娘(古くからの盟友的存在であった三浦義村の次男・三浦泰村の正室)が出産直後の嬰児と共に病没するなど、身内の不幸が重なっており、それに追い打ちをかけるように、翌年の寛喜の大飢饉を迎えているのであります。
 寛喜の大飢饉は、1231年(寛喜3年)~翌年(同4年)にかけて発生した鎌倉初期の代表的な飢饉ですが、1230年の6月(現在では7月下旬)という盛夏に東海や坂東にて降雪や大風が吹き荒れるほどの極度な冷夏を迎えたために、農作物も悪影響を受け、同年秋は大凶作。この事が翌年春から夏に掛けて、『此の夏、死骸道に満つ』(「百練抄」)と言われるほどの大惨事、寛喜の大飢饉となります。もしかしたら、1230年に相次いで亡くなった北条泰時の子供たち(北条時氏と三浦泰村正室)も、冷夏によって体調を崩したことが死因となったかもしれません。
 公私に渡って災難続きの執権・北条泰時は、自身の知行国である駿河国・伊豆国にて、大飢饉で困窮極める民百姓のために、1231年~翌32年まで、定期的に出挙米の提供要請を現地の有徳人(富裕層)や在地領主に行い、民衆に救済米として施しを行っており、そのために使われた米総量は9千石まで及んだと言われています。また、泰時は債権者たる有徳人たちの出挙米による貸し倒れも防ぐために、民百姓が債務である出挙米返済は、泰時が担保することも約定しています。
 以前は、民百姓から搾取を徹底していた武士からすれば、北条泰時が自らの損害も顧みず、撫民思想を以って彼らを救済しようとしている姿勢は、正しく本郷和人先生が言われるように『武士が統治者として目覚めた姿』であり、泰時がその先駆者であります。
 尤も、駿河・伊豆にて北条泰時が、徹底的に救済米供出に踏み切ること可能であったのは、両国ともに泰時の支配国(知行国)であったことが一番の要因でしたが、鎌倉のリーダーである泰時自らが率先して身ゼニを切り、民衆を救済する撫民思想を示すことにより、各国を治める他の鎌倉御家人たちにも、今後の「統治者としての武士」の在り方を示したようにも感じられます。
 大飢饉で困窮する全国の民百姓らが領主や有徳人から借り受けた出挙米を、直ちに返済する能力は皆無であることも北条泰時は当然心得ており、出挙米の利息も1倍から5割へ引き下げるよう各国の奉行や目代に命じています。
即ち事実上の減税措置ですが、その利息割引対象の出挙米は、先述の冷夏(大風)時に借り受けた米穀のみだけではなく、その異常気象前に借り受けた米も割引対象にするほど徹底した減税を北条泰時は命じています。

 北条泰時が、民百姓を困窮から救済する方法として、民衆たちに『人身売買』を行うことを一時的に黙認していたことがあります。
 人身売買、現代日本あるいは世界先進国の道徳感覚からすると、人身売買とは何とも物騒かつ非常識なものでありますが、古代律令制では人身売買(私奴婢)が黙認、あるいは禁止令が交互に繰り返されましたが、律令制が形骸化した10世紀初期の京都朝廷(平安中期)になると人身売買は身分秩序を乱す元凶として、奴婢廃止令が発布されました。
 13世紀初期、北条泰時が棟梁である鎌倉政権は、寛喜の大飢饉で困窮極め一家の扶養能力が無い民百姓には女・子供の人身売買を黙認しています。名執権・北条泰時の名誉のために敢えて言わせて頂くと、人身売買は、飽くまでも『一時的の黙認(特別措置)』であり、推奨したのではありません。事実、寛喜の大飢饉が収束した後の1239年(延応元年)5月には人身売買を禁止しています。
 北条泰時が人身売買を黙認した主な理由としては、大飢饉によって民百姓が自分たちの妻子を扶養することが不可能でありながら、妻子たちを抱え、遂には土地を棄てて一家逃散あるいは全員餓死することを抑止するのが一番の理由でした。
 そうなれば経済的に余裕がある有徳人あるいは在地領主に、妻子を売り渡すという名目で面倒を養ってもらった方が良いではないか、というのが撫民思想を持つ執権・北条泰時の人身売買黙認の本当の目的であったのです。
 北条泰時は、人身売買を黙認することにより民百姓の救命措置を採る一方で、買い取った側の有徳人層にも配慮を怠っていませんでした。
 先述のように、北条泰時および鎌倉政権は、漸く寛喜の大飢饉が収まった1239年、改めて人身売買の禁止令を出していますが、その前後から飢饉の際、止む無く身内を売り渡した側が、売った元値で身内を買い戻すことを有徳人(即ち人を買い取った側)に強要する争いが頻発、鎌倉政権にもその訴訟問題が持ち込まれることが多くなりました。
 執権・北条泰時は、有徳人らが他人を買い取った後から長年、身銭を切ってそれらを養ってきた経歴があるので、売った者が元値で買い戻すことを主張するのには無理がある、ということで、人を買い取った側、有徳人層の主張を認めたのです。
 北条泰時は困窮に喘ぐ弱者身分の民衆に米穀を与えて救済した事業は、文句無しに素晴らしいものであるのですが、それのみではなく施し米となった出挙米の提供要請に協力してくれた上、表向きは困窮の人々を買い取って、彼らを扶養してくれた有徳人層の実績も泰時は評価したことも評価に値するものであります。北条泰時は、撫民思想を行う上でも、『公平仁慈』(バランス)を重んじたと言えます。
 
 今更ですが、北条泰時が寛喜の大飢饉で黙認した人身売買の項について書かせて頂くに当たり日本法制史がご専門の長又高夫先生(國學院大學教授)の論文『寛喜飢饉時の北条泰時の撫民政策』を大いに参考させて頂きましたが、長又先生はその文中にて、未曾有の飢饉でも、京都朝廷が人身売買の禁止の原則論に固執する姿勢を採る一方、北条泰時が撫民思想に基づき、非常措置として人身売買を認めた理由を以下のように記述されています。

 『ところが泰時は、朝廷のこの原則論に不満を抱いていた。建前を論じ困窮せる民を見殺しにするのは、人道的にも、また民を撫育する立場にある為政者としても許されることではないというロジックを用いて立法を正当化したに違いない。真の撫民とは何かとういことを朝廷に問い、自ら信じる撫民政策を実践したのが北条泰時であった。
 『良民の人身売買を禁ずるのが撫民の為であるように、大飢饉という非常事態に、その売買を認めるのもまた撫民のためであった。未曾有の飢饉に対処する為に人身売買を容認することは、撫民という律令の目的と矛盾するものではないと泰時は確信していたはずである。』

(以上、「三、人身売買容認の歴史的意味」文中より)

 更に、長又高夫先生は、公武両政権(京都朝廷と鎌倉政権)が大飢饉に際しての種々の対策(徳政対策)についての格差の顕著さについても言及されておられ、恒例的かつ形式的の徳政や倹約を行って自己満足に浸っている公家側に対して、民の声に耳を傾け窮貧民を救済する手段を模索した北条泰時との両者が採った救済措置に大きな隔たりが出たことを、本論文の結論で以下のように指摘されています。

『武家が私出挙の利息制限や人身売買容認を発し、積極的に対処したのに対して、公家側は米価の高騰を防ぐための価格統制を行うのみで、有効な飢民救済策を立案・実施することはなかったのである。』
 
 長又先生は「明恵上人伝記」を典拠として、『公武と共に過差(筆者注:奢侈)を禁止し、行事など簡素化されたにも拘らず、公家側はまったくの有名無実化していたのに対し、北条泰時は御家人達にも過差を厳しく戒めて、酒宴等の取り止める一方、自らも手本となり、畳・衣装などの新調を避けるなどの質素倹約を貫いた』ということも記述、公武両政権が、寛喜の大飢饉対策に向き合う姿勢の差異を正確に指摘されています。
 筆者が敢えて付け足しをさせて頂くと、北条泰時と同時期を生き、寛喜の大飢饉の混乱を直に経験した公家・藤原定家(歌人としても有名)が、日記「明月記」寛喜3年7月3日に、『自分の邸宅に面する西ノ小路通りでは、日に日に死骸が増えており、死臭が邸内まで来ている。言語に絶する』という意味合いで書いているだけであり、京都朝廷を運営する一員(当時、藤原定家は70歳にして正二位の大臣クラス)にしては無責任な愚痴を書いています。
 上記の藤原定家が大国難に対しての姿勢がわかると同時に、質素倹約を徹底した当時の武家のリーダー・北条泰時に対して、月卿雲客の部類に入る定家のような高級貴族たちが、撫民思想に欠けていたこともわかります。この両者の違いも、前掲の長又高夫先生が指摘されていた公武両政権の政治姿勢の差異を証明していると言えます。




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 以上のように、元来は戦う職人=暴力的であるに過ぎなかった武士という人種に、撫民思想、統治者としての武士という種を播いた鎌倉幕府3代執権・北条泰時について今回紹介させて頂きました。
 有名な武家法典・御成敗式目の制定、合議制を主眼とした評定衆の創設、そして救民政策などを行い稀代の名執権と謳われる北条泰時は、1242年(仁治3年)6月15日、60歳で生涯を終えました。死因は過労と赤痢だと言われています。
 鎌倉幕府の記録書にして、北条泰時を聖人君主の如く賞賛しているはずの『吾妻鏡』であるにも関わらず、泰時死去年が欠落して、御家人仲間の動向や言動が不明瞭であるという何とも不思議なことになっている次第ですが、もう1つの政権である当時の京都朝廷に属する公家たちの間では、泰時死去について聖人君主が没した如く、彼を哀惜しています。
 参議・広橋経光は、「経光卿記抄」で、故・北条泰時のことを『性格廉直、道理を以って先と成す。堯・舜の再誕というべきか』(注:堯舜とは、理想的な古代中国王朝)と凄まじい褒めぶりであります。
 作者・成立年が不明ながらも鎌倉中後期の政治史を知る上で貴重な史料となっている『百練抄』でも、北条泰時の死を『都・田舎、貴賤の人を問わず、父母を喪うが如く』と哀惜、これもまた泰時を賢人扱いにしています。
 勿論、公家たちの間では北条泰時を手放しに賞賛、彼の死を哀惜しているものだけではなく、公卿(前関白)・近衛兼経は、「北条泰時は高熱で他界したらしい。泰時も極悪人であるから、奈良東大寺と興福寺を焼き払った平清盛と同じ死に方である」というように泰時を悪評する例もあります。しかし、源頼朝が東国武家政権を樹立する以前(1180年前後)は、武士を奴婢奴隷のごとく卑下していたはずの京都朝廷に属する人(兼経は除く)たちが、その約60年後には武士・北条泰時の死を悼んでいるという変貌ぶりの凄さはどうでしょう。
 源頼朝の武家政権樹立、2代執権・北条義時が勝利した承久の乱、3代執権・北条泰時の武家政権の強化などによって約60年の間で、社会的に武士の地位が飛躍的に向上したことが一番の理由であると思うのですが、他の理由として、やはり北条泰時が撫民思想と公平仁慈を旨として、当時の政治情勢に応対した武家の棟梁(執権)であったからであるとも思えるのです。
その影響を少なからず、前掲の広橋経光といった公家たちが受けたことは間違いなく、そういう意味では、北条泰時は当時を代表する名リーダーであり、泰時は京都朝廷の人たちにとっても、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』から派生したトレンドの『#俺たちの泰時』のような輝ける存在であったのではないでしょうか。 

(寄稿)鶏肋太郎

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